旧奥州街道10(青森)

2014/04/17

野辺地町~平内町境/旧奥州街道633

100noheji47s  馬門番所、高札


馬門番所に掲げられた高札で、
特産品を他領へ持ち出すことが禁じられていた。

なお、実際の馬門番所はこの場所では無く、南東1kmのところにあった。

高札に書かれてあった内容は、

----------

 覚 
  
武具類くろがね類
紅花紫根黄連
蝋染油
錦麻からむし
箔椀同木地
銅鉛硫黄塩硝酸皮之類
男女 牛馬

右之通無手形他領へ出候事
堅ク被停止事若脇道通過者
於有之八可捕上
為御褒美其持料可枝下候者也


宝暦六年

 織笠弾正
 桂 和泉
 東 中務
 北 民部
----------




100noheji50

津軽藩、南部藩境塚

馬門番所の横から急な崖を下ると、
海岸べりにある南部津軽藩境塚(はんきょうづか)が見えてきた。

江戸期の旧街道は、高台にある馬門番所から急な坂道を下って、
海辺にある藩境塚より津軽領に入ったようだ。

古墳のように土で盛った大きなもので、南部藩側に2基、
そして対抗するように、津軽藩側にも2基作られている。

写真手前の小さな川(二本又川、境の川とも)を渡ると、
津軽藩の藩境塚が二基並んで作られている。

川を挟んで、「従是東南盛岡領」、
「従是西北津軽本次郎領分」と書かれた木製の標識が2つ建っていた。

直径、底面にて約10m、
高さ3.5mの藩境塚(はんきょうづか、通称四ッ森)は、
青森県の指定史跡となっている。




100noheji51s   菅江真澄歌碑


藩境塚から狩場沢の坂を上っていくと、右側に菅江真澄の歌碑が建っていた。

  「あら波のよるきしこぼれさしながら にでらで花のかけやうつさん」

と刻まれてある。

菅江真澄は、
宝暦4年(1754年)三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)生まれの
旅行家、博物学者、そして民俗学の先駆者だ。

信濃、東北、蝦夷地を遊歴し、
その紀行を「真澄遊覧記」として残している。

真澄は1797年、弘前で開設されたばかりの藩校稽古館で、
薬事係りに任命された。
真澄の本草学の知識を利用し、
弘前藩の薬草の自給自足を図る為であった。

しかし、2年後には盛岡藩の間者と疑われ解任されている。
その間に「岩城山物語」、「善知鳥物語」、「浪岡物語」等を著している。

弘前藩を追放された後は、秋田で30年間過ごしたようだ。





詳細リンク:旧奥州街道633「野辺地町~平内町境」/街道写真紀行
(野辺地町 柴崎、 平内町 狩場沢) 1206/1404

2014/04/14

野辺地町・馬門~柴崎/旧奥州街道632

100noheji43

馬門交差点、国道4号線合流点

馬門地区は、江戸時代は馬門村で、明治22年の町村制の施行により、
野辺地村、馬門村、有戸村が合併して野辺地村が発足。

そして、明治30年に町制施行している。

旧街道を進むと、ここで国道4号線に吸収される。

写真は、旧道と国道4号線が合流する馬門交差点を
振り返って撮影したもので、左側の道が旧街道である。




100noheji45

平内町境

野辺地町のはずれ柴崎に入る。
正面の標識は平内村と書かれてあり、ここが野辺地町と平内町との境界だ。

その境界の手前右側(写真右端)に、高札場と馬門番所が再現されていた。

東京・日本橋から699.9kmのポストである。
あと100mで丁度700kmの地点である。




100noheji46

馬門御番所、高札場

街道右側に再現されている馬門御番所と高札である。

もっともこの建物は実際の御番所とは異なり、
番所風トイレとなっていた。

馬門番所は南部藩が津軽藩の藩境に設けた施設だ。

復元された高札には、手形がないと武具や火薬、人、染料、
蝋などは持ち出すことを堅く禁じる旨の覚書きが記されてあった。

津軽藩に入るには、馬門番所で許可を得てから坂の下に降り、
南部津軽藩境塚(はんきょうつか)を越えて
むつ湾沿いに伸びていた奥州街道を通り、
津軽領の狩場沢番所でさらに許可を得なければならなかった。





詳細リンク:旧奥州街道632「野辺地町・馬門~柴崎」/街道写真紀行
(野辺地町 馬門 中渡 八ノ木台地 柴崎) 1206/1404

2014/04/10

野辺地町・近沢川~100馬門宿/旧奥州街道631

100noheji37

野辺地町・近沢川上流

近沢川(ちかざわがわ)を渡ると、
野辺地町鳥井平(とりいたい)から馬門(まかど)地区に入る。

写真は近沢川の上流側をみたものだ。
この上流左側(右岸)の段丘上の標高30~40mのところに
縄文遺跡(槻ノ木遺跡)がある。

野辺地には、烏帽子岳や山間から流れる小さな川が
筋状に陸奥湾に流入し、各河川に河岸段丘が発達して、
それらの段丘上には縄文遺跡が集中している。

有戸鳥井平遺跡、向田遺跡等、
野辺地町内には、全部で120ヶ所の遺跡が確認されているという。

近沢川を渡ると、左側に赤い鳥居があった。
稲荷神社であろうか。

丁度この辺が馬門集落の入口付近となっている。




100noheji39

馬門、陸奥湾

街道右側が開け、陸奥湾が良く見えるところだ。

街道右側の海岸沿いは、まかどコミュニテイ広場として整備されていた。
陸奥湾が目の前に広がり、実に気持ちの良いところであった。




100noheji41

100馬門宿、家並

街道に復帰して、少し歩く。

この辺が、旧奥州街道100番目の宿場・馬門宿の中心部であろう。
右手に入ると、陸奥湾に面し、
馬門公民館、馬門児童公園のあるところだ。

幕末の馬門宿は、戸数約30で、粟や稗などの農業と
ホタテ貝を中心とした漁業が主であった。

盛岡南部藩の最北端の宿場で、藩の番所が置かれてあった。



詳細リンク:旧奥州街道631「野辺地町・近沢川~100馬門宿」/街道写真紀行
(野辺地町 鳥井平 馬門) 1206/1404

2014/04/07

野辺地町・馬門通~鳥居平/旧奥州街道630

100noheji32


野辺地川 河口

野辺地川に架かる野辺地橋より見た河口である。

奥羽山脈を源流として、枇杷野川、与田川、日本木川などの
支流と合流して、ここで陸奥湾に流入している。




100noheji33

鳥居平、集落

野辺地川を渡ると、鳥井平の集落に入る。

この右手に入ったところに戊辰戦争史跡のあるところだ。

正面の店は、青森のほたて屋さん、㈱マルイチ横浜の看板がでていた。
マルイチ横浜は、ほたて全般を扱っているようだ。

青森のホタテは、北海道に次いで、全国第2位の生産量となっている。




100noheji34

野辺地戦争戦死者墓所

案内標識には、野辺地戦争戦死者墓所と書かれてあった。

戊辰戦争で東北地方の諸藩は、官軍に対抗して、
奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、
秋田藩、弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。

明治元年9月、弘前藩の軍勢約180人が
突如南部領に侵攻。

南部領の本道を通った一隊は、南部藩境の
馬門(まかど)宿に火を放ち野辺地村に迫った。

藩境の防備に当たっていた盛岡・八戸藩連合軍は、
これに応戦し銃撃。

夜明けまで続いた戦いの後、弘前藩の軍勢は、
40余人の死傷者を出して敗走。

野辺地戦争の翌年、弘前藩は、
戦死者27人の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てた。

墓碑には、弘前藩銃卒 大川豊太郎利清、佐野佐吉芳成他、
計27人の名が刻まれている。

官軍についた弘前藩の墓所で、
賊軍となった盛岡藩の墓碑は、ここには無かった。





詳細リンク:旧奥州街道630「野辺地町・馬門道~鳥井平」/街道写真紀行
(野辺地町 馬門道 下御手洗瀬 鳥井平) 1206/1404

2014/03/31

野辺地港~馬門通/旧奥州街道629

100noheji28

野辺地港、浜町の常夜燈

浜町の常夜燈は、文政10年(1827年)、
野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられた。
関西の商人橘屋吉五郎の協力を得て、海路運ばれてきたものだ。

常夜燈には、毎年3月から10月まで、夜毎灯が灯され、
公開の安全を守る燈明台として、

野辺地湊に行き交う船を見守ってきた。

江戸時代に物資輸送の大動脈であった大坂と
蝦夷地を結ぶ日本海航路。

野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であり、
領内の海産物、大豆、銅などを積み出す船や、塩、木綿、
日用品などを積み入港する船で賑わった。

湊には、湊役所、遠見番所、銅蔵、大豆蔵、台場(砲台)などの施設や、
廻船問屋の船荷蔵があり、船は沖合いに停泊し、
はしけ船によって船荷を運んでいた。




100noheji29

野辺地漁港

野辺地漁港で、背後は下北半島だ。

野辺地漁港は藩政期から南部藩の重要な交易港となっていたが、
昭和和7年に漁業組合によって整備され、
さらに、昭和44年に公共事業として整備が行なわれている。

主な陸揚魚種は、ほたてがい、うに、まなまこ、
とげくりがにとのことであった。

なお、この周辺一帯は、地方港湾「野辺地港」に指定されている。




100noheji31

野辺地橋

野辺地港の浜町常夜燈公園より、街道に復帰する。

正面の橋が、野辺地川に架かる野辺地橋である。
江戸時代も板橋が架かっていた。

道路標識には、
「直進 馬門、右 野辺地港、 左 青森」と記されてある。

この辺の地名は馬門道(まかどみち)と云い、
旧奥州街道100番目の宿場である馬門(まかど)宿へ続く道である。





詳細リンク:旧奥州街道629「野辺地町・野辺地港~馬門通」街道写真紀行
(野辺地町 野辺地 馬門道) 1206/1403

2014/03/26

野辺地町・八幡宮~野辺地港/旧奥州街道628

100noheji22

野辺地八幡宮

野辺地宿の出口にある野辺地八幡宮に参拝。

この本殿は、成徳4年(1714年)に再建されたものだ。
建築様式を損なうことなく建立当初の姿をそのまま留めており、
江戸時代中期の神社建築のありさまを示す文化財建造物として、
青森県重宝に指定されている。

なお、野辺地八幡宮は、慶長3年(1598年)の創建と伝えられている。

野辺地八幡宮境内にある金毘羅宮は、

仙台屋安田兵衛を始めとする野辺地宿の廻船問屋達により、
海上安全を祈願して文政5年(1822年)に勧請されたものだ。

本殿の大工棟梁は盛岡の畠山清八で、
建立当初の姿をそのまま残しているとの事。

青森県重宝に指定されている。




100noheji25

大湊線踏切

八幡宮より街道に復帰すると、程なくこのJR東日本大湊線の踏切を渡る。

大湊線は、野辺地駅と下北半島のむつ市大湊駅を結び、
延長58.4kmで、
大正10年に全線開業している。




100noheji26

野辺地港、常夜燈公園

大湊線の踏切を渡り、街道右側にある野辺地港に向かう。
正面に野辺地港にある、常夜燈公園が見えてきた。

盛岡藩の日本海航路への窓口として賑わった野辺地湊へ、
夜間入港する船への目印として、
旧暦の3月10日から10月10日までの間、
毎晩火が灯されていた。

この常夜燈は、野辺地の廻船問屋の野村治三郎、
関西の船主橘屋吉五郎が中心となって建立したとの事。

その常夜燈を中心に常夜燈公園として整備されているところだ。





詳細リンク:旧奥州街道628「野辺地町・八幡宮~野辺地港」/街道写真紀行
(野辺地町 野辺地 浜掛) 1206/1403

2014/03/22

野辺地町・99野辺地宿/旧奥州街道627

100noheji17

野辺地宿入口

野辺地川の橋を渡ると、旧奥州街道野辺地宿に入る。

橋を渡ったこの辺が、 野辺地宿の入口であったようだ。

野辺地宿は、盛岡藩最北の湊町でもあり、
また津軽藩に対する防衛の役割を担う重要な町でもあった。




100noheji19

野辺地宿、本町

野辺地町本町(現野辺地町字野辺地)で、
この辺が野辺地宿の中心部であった。

正面の野辺地郵便局の先の交差点辺りに高札場があった。

野辺地は、藩営の尾去沢銅山から産出される銅の積出港で、
ここから西廻り航路で大坂の銅座へ運ばれた。

また、領内の大豆、鰯〆粕や、
俵物の呼ばれる下北半島の特産品(乾しアワビ、イリコ等)の
積出港でもあり、街道の左右には大きな商家が軒を並べていたが、
今はその面影は全く感じられなかった。

この左手に中央公民館、図書館、歴市民族資料館があり、
盛岡藩の野辺地代官所のあったところだ。




100noheji21

野辺地八幡宮

正面に野辺地八幡宮があり、街道はここで右折となっている。

野辺地宿の出口付近で、道路が枡形となっているところだ。
この辺りに、防御のための同心組丁があった。

野辺地八幡宮は、慶長3年(1598年)の創建と伝えられている。

左には野辺地警察署があり、
ここの住居表示は野辺地町字新町裏なっている。

新住居表示で新町が消えたが、
ここの新町裏が字名としてそのまま残されているのは面白い。





詳細リンク:旧奥州街道627「野辺地町・99野辺地宿」/街道写真紀行
(野辺地町 野辺地 新町裏) 1206/1403

2014/03/20

野辺地町・野辺地駅~野辺地川/旧奥州街道626

100noheji13

青い森鉄道・野辺地駅

旧奥州街道の野辺地駅入口で、街道歩きを中断して駅に向かう。

野辺地駅は、青い森鉄道とJR東日本の大湊線の共同使用駅である。

開業は明治24年で、東京より694.6kmだ。
毎度のことながら、良くもここまで歩いてきたものだ一人感激している。

野辺地駅は、元はJR東日本の駅であったが、
平成22年東北新幹線が新青森まで延伸されたことで、
経営分離して青い森鉄道となった。

従来からの大湊線(野辺地~陸奥横浜~大湊)は、
そのままJR東日本であるため、
他のJR線と接続の無い孤立した路線となってしまった。




100noheji14

野辺地駅前常夜灯

野辺地駅前にある、町のシンボルとなっている野辺地港の
常夜灯のレプリカである。

背後の建物は、野辺地町立の観光物産PRセンターだ。

野辺地駅に隣接したインフォメーションターミナルで、
野辺地町をはじめ、上北・下北地域、青森県全域の
観光情報が集められている。

正面玄関を入ったホールには、
各地の観光パンフレットや名産品が並べられている。


物産販売コーナーでは、野辺地町のお土産を
手に入れることができるほか、軽食や休憩コーナーもあった。

今回は、予め予約してあった駅前の旅館コマイに投宿する。

丁度、七戸工業大学付属高校生の一行が、
試合のため宿泊していて、賑やかな夜であった。




100noheji15
野辺地川

翌朝7;00に旅館を出発。

旧街道に復帰すると、すぐ野辺地川の橋を渡る。
この橋を渡った所が、旧奥州街道99番目の宿l場・野辺地宿である。





詳細リンク:旧奥州街道626「野辺地町・野辺地駅~野辺地川」/街道写真紀行
(野辺地町 鳴沢 上小中野) 1206/1403

2014/03/17

野辺地町・松ノ木平~鳴沢/旧奥州街道625

100noheji07

はまなすライン

国道4号線より分かれて、はまなすライン(国道279号線)に入る。
恐山72km、むつ59km、横浜32kmと標識があった。

ここは車道であるので、歩道は左の細い道となっている。




100noheji08

青い森鉄道、野辺地駅方面

立体交差となっている国道279号線の跨線橋から、
青い森鉄道の野辺地駅方面を俯瞰した写真である。

旧奥州街道99番目の宿場野辺地宿のあったところだ。
その先には、陸奥湾(野辺地湾)が見えてきた。

旧奥州街道歩いていて、始めての海である。
野辺地から終点の三厩までは海沿いの快適な道となる。




100noheji09

野辺地町市街入口

青い森鉄道の跨線橋を渡ると、正面に野辺地市街が見えてきた。

野辺地町は、アイヌ語の「ノンベチ」(ヌブンベッとも)に由来している。
野なかを流れる清い川の意味とか。

江戸時代は南部藩の外港のあったところである。





詳細リンク:旧奥州街道625「野辺地町・松ノ木平~鳴沢」/街道写真紀行
(野辺地町 下松ノ木平 鳴沢 餅粟川原) 1206/1403

2014/03/14

東北町・家ノ前~野辺地町境/旧奥州街道624

100noheji02

野辺地町一ノ渡、旧奥州街道

国道4号線より分かれて、左側の旧奥州街道に入る。

標識は無いが、この辺から、
東北町・家ノ前から野辺地町・一ノ渡に変わるところである。




100noheji05

国道4号線、野辺地町境

国道4号線の野辺地町境で、ここから先が野辺地町である。

実は、旧街道はここよりかなり手前で、既に野辺地町に入っていたが、
国道に出ると、再び東北町湯田平となっており、
町境が入り組んでいるところである。

前方の分岐は、松ノ木交差点である。




100noheji06

松ノ木交差点


松ノ木交差点で、右がむつ、野辺地駅方面で、
左が国道4号線の青森、平内方面である。

右の道を進み、旧奥州街道99番目の宿場である野辺地に向かう。





詳細リンク:旧奥州街道624「東北町・家ノ前~野辺地町境」/街道写真紀行
(東北町 家ノ前 湯田平 野辺地町 一ノ渡 松ノ木平) 1206/1403

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