旧奥州街道8(岩手)

2012/05/18

矢巾町・高田~盛岡市境/旧奥州街道437

76yahaba11s  高田藤沢稲荷神社拝殿

稲荷神社は、藩主の崇敬も篤く、宝暦7年(1757年)以降は、
幕府巡検使も奉拝の社格となり、営繕は藩費で行なわれていたようだ。

なお、現在の拝殿は大正8年に建て直されたものである。




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稲荷神社石塔群

高田藤沢稲荷神社の境内にある石塔群。

右から「八幡大神、天照皇大神宮、春日大神」、「羽黒山、月山、湯殿山」、
「金比羅大権現」、そして一番左は庚申塔であった。




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盛岡市境

矢巾町から盛岡市境である。
前方には東北の主峰・岩手山(2038m)が見える。

手前の橋は、高屋敷堰、鹿妻本堰の合流点に架かる見前橋である。





詳細リンク:旧奥州街道437「矢巾町・高田~盛岡市境」/街道写真紀行
(岩手県矢巾町高田、盛岡市西見前) 1111/1204

2012/04/30

矢巾町・徳丹~藤沢/旧奥州街道436

76yahaba06s 徳丹城跡碑

徳田小学校の校庭前に「国指定史跡・徳丹城跡」と刻まれた石碑があった。
この辺が徳丹城の北辺城郭であった。

徳田小学校は明治6年創立の古い学校で、敷地は徳丹城跡の中にある。

国の指定史跡となっているため、2020年までには、
他の地へ移転されることになっているようだ。




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JR矢巾駅口

徳丹城跡から国道4号線を北上すると、西徳田交差点となる。
この交差点を左折し1.9kmのところに、JR東北本線の
矢幅(やはば)駅があるところだ。

矢幅駅は、明治31年開業で、東京駅より525.1kmの駅である。
なお、駅名は「矢幅」となっているが、自治体名は「矢巾町」である。

矢巾町は盛岡市と紫波町に挟まれた町で、昭和30年に
徳田、不動、煙山(けむやま)の三村が合併し矢巾村となり、
昭和41年に矢巾町となった。

水田が広く、徳田米が知られている。




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高田藤沢稲荷神社

東京より524kmの標識である。
左手は、高田藤沢稲荷神社である。

由来によると、康平5年(1062年)前九年の役の頃、征夷大将軍源頼義が、
蝦夷征伐の戦場跡であったこの地・狄森(えぞもり=現地名)の
鎮守ために熊野社を勧請したのが始まりである。 

その後、元亀3年(1572年)の頃、地元の高田氏が
屋敷内に棲む白狐を信仰していた。

狐は五穀豊穣の種物の神である稲荷神の召使であるので、
周辺の人々により稲荷社として祀られ崇拝されるようになった。

なお、毎年秋には狄森祭(えぞもりさい)が、
藤沢自治会館で行なわれているようだ。





詳細リンク:旧奥州街道436「矢巾町・徳丹~藤沢」/街道写真紀行
(岩手県紫波町矢巾町西徳田、東徳田、藤沢))
1111/1203

2012/04/23

矢巾町・徳丹城跡/旧奥州街道435

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徳丹城跡外郭西辺柵跡公園

東京駅発7:16の新幹線はやてに乗り、北上駅でJR東北本線に乗り換え、
古館駅に着いたのは10:43であった。

古館駅より、前回中断した旧奥州街道に復帰する。

古代の東山道を踏襲したと推定される一本道、現在の国道4号線を下ると、
左側に広大な徳丹(とくたん)城西辺柵跡公園が目に飛び込んでくる。

平安時代初期における岩手県の3城柵の一つで、
陸奥国北辺に律令国家が築いた最後の城柵である。

一帯は史跡公園(国指定史跡)として整備されている。

なお、徳丹(とくたん)は、元来は「とこたん」と呼ばれていたが、
後に徳丹の字が当てられることにより、「とくたん」が定着したようだ。

「とこたん」はアイヌ語の「ト・コタン」(集落、村)に由来するという。




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南部曲家

徳丹城址の一角にある民族資料館に隣接して、
文久3年(1863年)銘の棟札のある旧藤沢村肝煎佐々木家の
南部曲り家が昭和62年に移築されている。

東向きの母家の北端に南向きの馬屋がある典型的な南部曲家である。

藩政時代には村役を務めた農家で、建坪は90坪と大きな家で、
矢巾町指定有形文化財に指定されている。




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徳丹城政庁跡

街道を挟んで右側には、徳丹城柵の政庁跡がある。
この左手には徳田小学校のあるところだ。

延暦21年(802年)、北上川中流域に胆沢城(奥州市水沢)が築かれ、
翌年その北方に志波城(盛岡)が築かれた。

しかし志波城は雫石川の度重なる氾濫により移転を余儀なくされ、
弘仁3年(812年)、嵯峨天皇が派遣した
征夷将軍である文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)によって、
この徳丹城が築かれた。

徳丹城の外郭は一辺360mの築地塀で囲まれていたと推定されている。
胆沢城の670m、志波城の840mに比べると小さいがそれでも広大なものだ。

政庁は、一辺80mの板塀で囲まれていたようだ。





詳細リンク:旧奥州街道435「矢巾町・徳丹城址」/街道写真紀行
(岩手県紫波町中島、矢巾町間野々、東徳田、西徳田) 1111/1203

2012/04/18

紫波町・二日町~中島/旧奥州街道434

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国道4号線、紫波町高清水歩道橋

旧街道は現国道4号線と合流する。
ここからは、また古代の道路(東山道)を踏襲した真っ直ぐな
一本道となるところだ。

歩道橋には紫波町高水寺と記入されていた。
この左側に古館小学校のあるところである。

この先の交差点がJR古舘駅入口である。
今回は、ここで旧街道歩きを中断して、駅に向かった。




75siwa54s  JR東北本線古舘駅

JR東北本線の古館駅である。
実は、駅が分らなくて、地元の人に教えてもらった。
まさか、新幹線の高架下に駅舎があるとは思っていなかった。

古館駅は、昭和24年開業、東京から521.5kmの駅である。
今回はここから各駅で北上駅に戻り新幹線で帰京した。




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JR北上駅、「笛と乙女」像

乗換え時間があったので、北上駅前を歩いてみた。
写真は西口駅前で、「笛と女」と題する彫像があった。

北上駅16:43発はやて110号で、東京に着いたのは19:24であった。





詳細リンク:旧奥州街道434「紫波町・二日町~中島」/街道写真紀行
(岩手県紫波町・二日町田中、田中前、中島落合、桜田) 1110/1203

2012/04/11

紫波町・二日町古舘~御堂前/旧奥州街道433

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走湯神社拝殿

走湯神社拝殿。
走湯神社は高水寺の鎮守として、源頼朝によって文治5年(1189年)に
走湯権現を勧請した。

祭神は成哉吾勝勝速日天忍穂耳命
(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)で、
通称、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)である。

境内社は、諏訪神社、八坂神社、天満宮、八幡宮、
菊池稲荷神社、道祖神。

合祀社は、愛宕神社。



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木宮神社

走湯神社を出て、暫く進むと右側に大きな木がある。

木宮(きのみや)神社のあるところだ。
木宮神社のご神木である欅(ケヤキ)の巨木である。

この欅群は、紫波町の天然記念物として指定されている。




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木宮神社参道

街道右側にある木宮神社鳥居。

木宮神社は、延暦年間(782~806年)、征東将軍坂上田村麻呂が、
蝦夷征伐のため下向し、山地に志和城を築き、城内の鎮守として
伊豆国田方郡熱海の来宮神社を分霊勧請したのが始まりである。

その後、斯波氏、南部氏代々に崇敬されてきた。

祭神は迦具土命(かぐつちのみこと)である。

なお、この神社は「酒絶ち祈願」に御利益があるとのことだ。





詳細リンク:旧奥州街道433「紫波町・二日町古舘~御堂前」/街道写真紀行
(岩手県紫波町・二日町古館、御堂前) 1110/1203




2012/04/02

紫波町・二日町向山~古舘/旧奥州街道432

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高水寺跡

城山(標高180.6m)の北端である。
かつては、高水寺城の名前となった高水寺の広大な敷地のあった処である。

高水寺は称徳天皇の勅願によって、神護景雲2年(768年)に
創建された古寺である。

一時は、1山40余坊があったというが、戦火などで衰え、
後に頼朝軍が陣ヶ岡(現峰神社付近)に陣を構えた時には、
16坊のみであったようだ。

高水寺の隣は走湯(そうとう)神社となっている。




75siwa47s 方山寺観音堂/高水寺

建物には高水寺と書かれた大きな額が架かっているが、実際は違うようだ。

南部氏により高水寺は盛岡に移され、高水寺の跡に立つ寺は、
方山寺の資材を使って作られた旧観音堂とのことである。

この社殿の右側には、新しい観音堂が建てられている。
岩手県指定有形文化財の木造十一面観音像が納められているものだ。


藤原末期の作と推定される一木造りの観音像で、
当国33番目の7番の札所となっている。




75siwa42s_2  走湯神社、矢立の槻

高水寺の北側に隣接している走湯(そうとう)神社の参道である。

鳥居の左側に見えるのは矢立の槻(つき)で、
紫波町指定天然記念物になっている。  

吾妻鏡に、頼朝はこの樹の下に立つと走湯権現に奉納すると称して、
上や(うわや)の鏑(かぶら)二つを射立てられたと記されている。

それで、今は矢立の槻と呼ばれている。
推定樹齢は千年、幹周6.5mとのことだ。





詳細リンク:旧奥州街道432「紫波町・二日町向山~古舘」/街道写真紀行
(岩手県紫波町・二日町向山、古館) 1110/1203


2012/03/23

紫波町・二日町山子~大橋/旧奥州街道431

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城山/郡山城跡

国道4号線から右の城山公園方面に右折したところに
「大元帥陛下御幸新道」と書かれた道標がある。

大元帥は軍人の最高位の階級で、全軍を統率する大将に与えられる
称号である。

大日本帝国憲法で天皇が統帥権を持ち、
陸海軍の最高指揮官である大元帥となった。

昭和3年の陸軍特別大演習の時に整備された道のようだ。    

正面に城山(標高180.6m)が見えてきた。
かつての郡山城(高水寺城)のあったところだ。

高水寺城(こうすいじじょう)は、天正16年(1588年)に南部信直に
攻略されるまで、室町幕府管領家の一族である斯波氏の居城であった。

高水寺城の名は、「吾妻鏡」に出てくる古刹・高水寺の一角を
居館としたことによる。

建武2年(1335年)、足利尊氏が、南朝方の北畠顕家や
八戸南部氏を牽制するために、斯波家永を下向させたと伝えられている。

天正16年(1588年)、南部信直が斯波氏を滅ぼし、城名を
「郡山城」と改め、中野康実を城代とした。

九戸合戦後から盛岡城築城の間、南部信直の子利直の居城として
使われたこともあるが、寛文7年(1667年)盛岡城の完成と同時に
廃城となっている。




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二日町集落

旧街道は城山の西側を北上する。

前方に見えてきた山は岩手山(2038m)である。
盛岡が近くなってきた。




75siwa39s  二日町旧家

街道右側にある旧家。
この辺に「日詰長岡通代官所役屋(御仮屋)があったという





詳細リンク:旧奥州街道431「紫波町・二日町山子~大橋」/街道写真紀行
(岩手県紫波町・二日町向山、山子、大橋) 1110/1203

2012/03/16

紫波町・日詰郡山宿出口~向山/旧奥州街道430

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国道4号線合流点

宿場特有の枡形を抜けると旧鍛冶町に入る。
かつての日詰郡山宿の出口である。

日詰郡山宿を抜けると、旧街道は国道4号線に重なる。
この合流点の左側にあるのが、勝願寺である。




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勝源寺

勝源寺は慶長16年(1611年)に開基した曹洞宗の寺院。

本堂裏にある、カシワは「逆さカシワ」と呼ばれ、
国の天然記念物に指定されている。

高さ20mで、直立ではなく、地面際で4本に枝分かれし、
太い幹が地面を這うようにして生えている。

推定樹齢300年とのことだ。




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城山公園方面分岐

ここで国道4号線と別れ、旧街道は右側の道となる。
標識には、「右 城山公園」と書かれてある。

かつての郡山城(旧高水寺城)のあったところである。





詳細リンク:旧奥州街道430「紫波町・日詰郡山宿出口~向山」/街道写真紀行
(岩手県紫波町・日詰郡山駅、石田、朝日田、二日町向山) 1110/1203

2012/03/13

紫波町・日詰郡山宿仲町~習町/旧奥州街道429

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紫波町ふれあい公園、明治天皇聖跡碑

街道左側にある明治天皇聖跡碑。
今は、ふれあい公園と呼ばれている。

この場所はもと美濃屋(幾久屋)金子屋という大商人が衣類や小間物の他、
味噌や醤油を造って販売していたところで、南側には井筒屋小野家の
大きな店があり、酒造りをしていたところだ。

明治天皇は、明治9年と14年の行幸のさい、ここにあった幾久屋が
昼食の場となっている。

なお、日詰郡山宿の本陣は井筒屋と桜屋が担っていたとのこと。




75siwa28s  来迎寺

旧仲町を抜けると、来迎寺の前で左折となる。
枡形(鍵型)となっているところで、かつては市が開かれ、
高札場のあったところである。

枡形の北側の細い路地の先は、寺小路と呼ばれていたところだ。    

マリア観音で知られた来迎寺(浄土宗)は、日詰商店街の
北側の突き当たりに位置し、創建は江戸時代初期とのことだ。

背後にある郡山城(高水寺城)の南側の押さえの役目も担っていたようだ。

阿弥陀如来、観音菩薩、勢至観音の本尊と浄土観経曼荼羅が寺宝とのこと。




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習町駐車場

来迎寺の前の枡形を左に曲がると、右側に旧習町(ならいまち)駐車場がある。
この駐車場は「車置き場」の名付けられている。

紫波町名誉市民となっている野村胡堂の「銭形平次捕物控」に因み、
江戸の風情を現したとか。

なお、ここはもと紫波郵便局のあった処である。

習町は日詰の町の発祥の地で、今から600年以上も昔から、
約300年間斯波氏がこの地を支配しており、
この辺りに城下町を作ったのが始まりとのことだ。

その後、日詰の町は習町を中心に南の方に伸びていった。

駐車場入口には「銭形平次のふるさと紫波町」と書かれた
大きな木札の下には銭形平次の手形があった。

調べてみると、平次を演じた北大路欣也のものだ。
その側には「銭形平次ふるさとへ帰る」と刻まれてあった。     





詳細リンク:旧奥州街道429「紫波町・日詰郡山宿仲町~習町」/街道写真紀行
(岩手県紫波町・日詰郡山駅) 1110/1202

2012/03/10

紫波町・88日詰郡山宿/旧奥州街道428

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日詰郡山宿、平井邸

奥州街道88番目の宿場・日詰郡山宿に入るとすぐ左側に立派な建物がある。

木造2階建ての店舗併用屋敷で、豪商・平六商店(造り酒屋、現在の
菊の司酒造)の12代平井六右衛門が大正13年に建てたものだ。

平井家は、江戸初期から藩の御蔵宿(おくらやど)として志和4村の米を
預かり、江戸へ送るなどの倉庫業、運送業、そして宿屋を営んでいた。
6代目ころから酒造も始めている。

紫波町は岩手県では比較的古くから開けた地域で、坂上田村麻呂の
東征では蝦夷との抗争が繰り広げられ、前九年の役でも戦場と
なったところである。

中世の紫波町一帯は、斯波氏が納め、高清水城を拠点としていた。
斯波氏の支配は天正16年(1586年)に南部氏に滅ばされるまで続いていた。

南部氏は高清水城を郡山城と改名し、
寛文7年(1667年)に廃城となるまで続いた。

廃城後は、南部藩の代官所や御蔵が置かれ、奥州街道の宿場や
北上川の舟運の河岸として、商業中心の町として発展してきた。




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街の駅、「なんバザ・ホール」

白梅館(劇場)で賑わった旧新田地区である。

もりしん(盛岡信用金庫)は、かつての井筒屋彦兵衛店(薬、小間物屋)の
跡に建っている。

その向い(右側)には近江商人系の江戸時代から続いた
呉服店村谷屋や近江屋等が軒を並べていたところだ。

新田は、町の周辺に水田を持つ半農半商の商人が多かったことから
ついた町名とのことだ。
また新田には郡山駅(駅舎)があり、今も郡山宿という地名となっている。

写真は、日詰商店街の空き店舗を利用した多目的ホール。

日詰商店会の主婦たちが、地元の野菜や、惣菜、食料品、日用品等を
定期的に展示販売もしている。

平井家の分家、平岩長吉が明治43年にここの酒造店を開き、
「白梅」という名の酒を造っていたところだ。

娘婿の直衛(なおえ、金田一京助の弟)が、大正14年に白梅館という
芝居小屋をここに造った。

白梅館は昭和30年頃まで、存続し日詰だけではなく紫波郡の文化の
拠点として活用されていた。




75siwa25s 銭形平次会館

銭型平次会館と木札の架かった紫波町役場第3庁舎である。

銭形平次で知られた野村胡堂は、明治15年に紫波町で生まれ、
盛岡中学を出た後、東京帝国大学に進んでいる。

シルバー人材センターや、㈱よんりん舎ゆいっとサロン、
すこやか号バス待合所等ともなっている。

よんりん舎は、「しわ(4つの輪)が重なり合う」と言う意味とのことだ
。 



 

詳細リンク:旧奥州街道428「紫波町・88日詰郡山宿」/街道写真紀行
(岩手県紫波町・日詰郡山駅) 1110/1202

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