旧奥州街道7(岩手)

2011/11/25

北上市・相去町小糠沢~相去/旧奥州街道391

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相去、東北新幹線高架

正面に東北新幹線の高架が見えてきた。
この高架を潜ると、旧伊達藩最北端の町・相去(あいさり)となる。

地名は相去町相去だ。

次の道を右折すると江刺方面である。
もとの江刺市(現奥州市江刺区)で、平安時代末期に平泉に勢力を張った
奥州藤原氏発祥の地である。





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相去白山神社

東北新幹線高架の手前左にある相去白山神社だ。

宝永8年(1711年)伊達藩命により、仙台伊達藩と盛岡南部藩の
境界である相去に創建され、相去の鎮守として崇敬されてきた神社である。

もとは相去を見下ろす高前檀にあったが、明治23年に東北本線の
開通に伴い現在地に遷座された。

白山神社の例大祭の行事、鬼剣舞(おにけんばい)が知られている。
一人が白面を付け、他の人は赤、青、黒の面をつけて豪壮に舞うとのことだ。




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相去町並

東北新幹線の高架を潜ると、右手に「丁切」と書かれたバス停がある。
この辺が相去町の入口であったようだ。

写真は相去町の中心部である。
仙台藩の奥州街道最北端に位置し、足軽町であった。

街道左側に、相去番所跡碑があった。
説明によると、北境の備えとして、街道を挟んで両側に
軽臣(足軽)102名が配置されていたとのこと。

番所内には、捕手道具の他に、鉄砲10丁、弓10張、槍10本が
備えられており、武頭1名(ぶがしら、250石、百日交代で仙台より出張)と、
組頭2名、床頭1名、足軽4名が常勤していたようだ。





詳細リンク:旧奥州街道391「北上市・相去町小糠沢~相去」/街道写真紀行
(岩手県北上市相去町 小糠沢、相去、鬼柳町町分) 1110/1111




2011/11/20

北上市・相去町丙午~館下/旧奥州街道390

68aisari13s  奥州街道標識

岩の目公園の横の坂を下ると丁字路となる。
その角に不思議な標識があった。
右と左の両方とも奥州街道となっている。

右側は、今通ってきた道で、江戸時代の旧街道筋である。
しかし、この道は北上浄化センター前で道が消滅し通行止めとなっている。

左側は、北上川方面である。
後で地形図を確認したが、北上川沿いを通る迂回路があるようだ。
しかし、これはあくまでも迂回路で「奥州街道」ではない。




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県道相去飯豊線

丁字路を左折して進むと、県道254号線(相去飯豊線)に合流する。
旧奥州街道は、この道の右側にあったようだが、今は殆どが失われている。

県道より右に入り、旧街道沿いと思われるところに雲南権現社がある。
その先、300mのところには羽黒神社(牛頭天王社)があるところだ。  

街道右側に古道標と頌徳碑がある。
碑文によると、ここ本郷地区は相去町発祥の地で起元は1千余年前とのこと。
明治時代は上谷18戸、下谷22戸の部落であった。

毎年大関沢川の氾濫等で困窮していた本郷地区の耕地整理を
門脇準治翁が提唱し、当時の大地主と協力して明治39年に着工した。

その結果凸凹の土地は現在のような美田となった。
工事は丙午の年に施行されたので、のちにこの地区の字名を
丙午(へいご)と改めたとのこと。




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東北本線北上川鉄橋

広々とした相去町丙午の田圃である。
一部稲の刈り取りが始まっていた。

遠くに見える鉄橋は東北新幹線の北上川に架かる鉄橋である。





詳細リンク:旧奥州街道390「北上市相去町丙午~館下]/街道写真紀行
(岩手県北上市相去町 丙午(へいご)、本郷、館下(たてした)) 1110/1111

2011/11/14

北上市・相去町往還西~岩の目/旧奥州街道389

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相去町往還西

北上浄化センター正面から北上すると、如何にも旧街道らしい道筋となる。

この辺の、地名は相去町(あいさりちょう)往還西(おうかんにし)となっている。
往還は街道の意味であり、この辺が街道筋であったことからの地名であろう。

また、相去は南部藩と伊達藩で境界を決める際に、北と南から同時に進み、
出会ったところを境界としようと決めたことによるそうだ。

この先に南部藩伊達藩の境界塚がある。

街道左手に、焼石岳(1548m)、天竺山(1318m)、経塚山(1373m)、
駒ヶ岳(1130m)等が見えるところである。

この辺は、西の奥州山系と東の北上山系の丘陵に挟まれたところと
なっている。




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岩の目公園

やがて、街道は下り坂となる。
この右手に小公園(岩の目公園)があるところだ。

ここは千田力之助の屋敷があった処で、この屋敷で明治天皇が
明治9年の東北巡幸、明治14年の北海道巡幸の際に休憩された。

記録によると、その時、千田家へは金拾五円の御下賜があったとのこと。

岩の目公園の中ほどに明治天皇行在所碑が建っている。

見晴らしの良いところで、この右の崖下から湧き出る清水を明治天皇に
御膳水として差し上げ、以来この清水は御膳水と呼ばれるようになった。




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桜の老木

坂を下ると前方が開け、刈り入れ前の稲穂の波となっている。

その田圃を背に、一際大きな桜の老木がある。
木の根元には、古い巳己供養塔と庚申塔が立てかけてあった。





詳細リンク:旧奥州街道389「北上市・相去町往還西~岩の目」/街道写真紀行
(岩手県北上市相去町往還西、岩の目、丙午) 1110/1111

2011/11/07

北上市・相去町和田~往還西/旧奥州街道388

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県道254号線(旧国道4号線)

北上市に入り国道4号線から、斜め右の県道254線(相去飯豊線)に入る。

県道254号線は北上市相去町和田尻を基点として、北上市藤沢を結ぶ道で、旧国道4号線である。

やがて、右手にJR東北本線が見えてきた。
旧奥州街道はこの東北本線の反対側(東側)である。

東北本線を横断する場所を探していたら、畦道の先に
人が渡れる踏切が見えたので、その踏切(正作踏切)を渡る。

人が通れる巾しかない小さな踏切だ。




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北上浄化センター遠望

踏切を渡ると、田圃となっている。
左前方の建物が北上浄化センターである。

この建物の敷地内を、奥州街道が通っていた。

北上浄化センターは、昭和62年に処理能力2800立方m/日の
施設として、供用を開始した。

当初は北上市の下水道の汚水処理だけであったが、
平成2年には処理能力を増やし、花巻市も供用している施設である。




68aisari05s 浄化センター正面

北上浄化センターの正門だ。
この中を街道が通っていたので、少し遡上してみようかと思ったが、
正面の門に大きく部外者立入り禁止と書かれてあったので諦める。

多くの旧街道歩きの人たちが、通り抜けようとするのであろう。
通行禁止なら、せめて迂回路でも作っていただければと思うのだか、
そうもいかないようだ。





詳細リンク:旧奥州街道388「北上市・相去町和田~往還西」/街道写真紀行
(岩手県北上市相去町笹長根、和田、往還西) 1110/1111

2011/11/04

金ケ崎町・JR六原駅~北上市境/旧奥州街道387

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三ヶ尻西浦

旧奥州街道歩きを諦めて、畦道を通り国道4号線へ迂回する。

正面にJR東北本線の花沢踏切が見えてきた。
JR六原駅の南側となっている。


この踏切を渡り、六原駅前に出てから国道4号線に向かう。




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JR六原駅

花沢踏切から北側(下り側)を見た写真である。
目の前がJR六原(ろくはら)駅のプラットホームであった。

ホームの端に、「危険ですから改札口をお通りください」と書かれてあった。

JR六原駅は、東京駅より481.1kmの距離にある。
大正11年に三ヶ尻信号所として開設されたのが、昭和12年に
六原駅として開業した。

昭和40年には、六原駅から白河バルプ工業(現三菱製紙、
北上ハイテクペーパー)の北上工場への専用引込み線が竣工している。




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赤鳥居前、北上市境

六原駅より国道4号線に入り、北上すると、まもなく赤鳥井前交差点となる。
ここから先が、金ケ崎町から北上市相去町となるところだ。

この立派な赤鳥居は不思議だ。
肝心の神社が近くになく、地図にも載っていないのである。

気になり調べてみると、ここから西へ4.9kmも先の
二ツ森稲荷神社(金ケ崎町六原二ツ森)の鳥居であった。

延宝2年(1574年)伊達氏が勧請した神社である。





詳細リンク:旧奥州街道387「金ケ崎町・JR六原駅~北上市境」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町三ケ尻西浦、丹蔵堰、六原、北上市相去町) 1110/1111

2011/11/03

金ケ崎町・三ヶ尻瘤木丁/旧奥州街道386

67rokuhara23s  国道4号線迂回路

下渋川橋を渡り暫く歩くと、左側に鋭角に左折すると国道4号線、
直進は行き止まりの標識がある。

手元の地図では、未だ先に行けそうなので、標識を無視し直進する。

直進すると、また「この先300m行き止まり」と書かれた標識があるが
無視してさらに進む。




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藤神社

三ヶ尻瘤木丁(こぶきちょう)地区に入ると右側に赤い鳥居の奥に
小さな社があった。
藤神社と書かれてあった。

説明によると、かつてはここに馳倉社、乳冨久社、愛宕社があったとのこと。

境内左手には、山神、雷神、古峰山、金華山等の夥しい石塔が
集められてあった。




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奥州街道瘤木町絵図

かつての奥州街道瘤木丁の現在の案内図と、古い絵地図が描かれてあった。
地元の瘤木丁自治会が設立したものだ。

この地図によると、旧奥州街道はこの先の北上浄化センターの手前で
寸断され、先に進めないようだ。

今回はここで旧街道歩きを諦めて、絵地図に描かれた細い道を辿って、
JR六原駅に出て、国道4号線を迂回することにする。





詳細リンク:旧奥州街道386「金ケ崎町・三ヶ尻嶋田~瘤木丁」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町三ケ尻嶋田、瘤木丁) 1110/1111


2011/10/28

金ケ崎町・三ヶ尻十三本塚~後生平/旧奥州街道385

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三ヶ尻小学校

三ヶ尻十三本塚を進むと、右へ分岐する道ある。

金ケ崎町立三ヶ尻小学校は明治6年創立の伝統ある学校だ。
創立当初は民家を借用して、学童数は22人であった。

この校舎は平成18年に建てられたものだが、それ以前の建物は
十字型方形校舎のユニークなものであったようだ。




67rokuhara20s  高橋太吉翁頌徳碑

三ヶ尻谷起地区は、北上川の側で畑や原野のままであった。

高橋太吉(明治6年生まれ)は、この地を水田に変えるべく、
昭和3年に組合を作り耕地整理に着手し、昭和9年に75ヘクタールの水田を
完成させた人だ。

現在の三ヶ尻谷起地区は金ケ崎町を代表する米どころとなっている。

高橋太吉頌徳碑の右側には、当時の赤錆びた電気揚水機が設置されていた。
この揚水機で北上川の水を新田に注ぎ込んだとのこと。
昭和3年から昭和45年まで使用されていたものだ。




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下渋川橋

三ヶ尻の十三本塚から後生平に入る。
緑の多い気持ちよいところだ。

前方の橋は下渋川橋で、この写真の右手には後生平堤があり、
大きな溜池のあるところである。





詳細リンク:旧奥州街道385「金ケ崎町・三ヶ尻十三本塚~後生平」/街道意写真紀行
(岩手県金ケ崎町・三ケ尻十三本塚、下渋川、後生平) 1110/1110

2011/10/22

金ケ崎町・三ヶ尻谷地中~十三本塚/旧奥州街道384

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三ヶ尻谷地中

旧街道の左側の農道を少し入ったところの写真である。
金ヶ崎町三ヶ尻谷地中(みかじりやちなか)地区だ。

広々とした、気持ち良い景色となっている。




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千田正記念館

街道左側に千田正記念館がある。
千田正は明治23年生まれで、元岩手県知事を4期勤めた人である。

千田正遺族の好意で土地、建物が金ケ崎町に寄付され、
町が整備したた建物だ。

記念館は、旧宅と木蔵、そして正光館と呼ばれる岩手県知事公舎の
応接室からなっている。
生家と木蔵は昭和5年、正光館は昭和2年に建てられたものだ。

旧宅には、少年時台から知事時代までの資料や遺品が展示されている。




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三ヶ尻集落

千田記念館から街道に復帰する。
街道の両側にリンゴ畑が目に付くところで、大きな実をつけていた。

三ヶ尻谷地中から十三本塚地区に入る。

十三本塚は行倒れや、切られた人を祀ったと言われ、
この地の字名にもなっている。

十三の塚のうち五つの塚は今でもあるというが、判らなかった。





詳細リンク:旧奥州街道384「金ケ崎町・三ヶ尻谷地中~十三本塚」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町三ケ尻清水端、谷地中、十三本塚) 1110/1110

2011/10/20

金ケ崎町・三ヶ尻/旧奥州街道383

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三ヶ尻川口田

金ケ崎町根岸から宿根川を渡り、三ヶ尻地区に入ると右側が大きく開ける。
刈取り前の稲穂の波が、黄金色に輝き、気持ちの良いところだ。

東日本大震災があったが、この地区は今年も豊作のようだ。

道路の左側に、未だ新しい「奥州街道」と書かれた白い標識があり嬉しくなる。
旧街道歩きにとって、街道に関わる標識は実にありがたい。

地元の自治体の方に感謝である。




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川口田一里塚

右側(東側)にのみ残されている旧奥州街道の一里塚だ。
大きな杉の上部は綺麗に切られ、朽ちないように保護されている。

説明によると、この杉は樹齢400年とのことだ。
塚と杉の木の組み合わせで、現在も残されている珍しい例とのことで、
金ケ崎町の指定史跡となっている。

なお、仙台領では目印の木は杉であったが、南部領では榎か槻であった。
左端のバス停は、北都交通田園バス「加藤商店前」と書かれてあった。




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三ヶ尻清水端

街道沿いのコスモスが満開であった。
旧街道歩きは、これからが季節的にも快適な時季である。

右前方は、かつて丸子館のあったところである。
北上川西岸の金ケ崎段丘の東端に位置し、標高57m、
沖積地からの比高約10mで、ここに丸子館が立てられていた。

丸子館の規模は東西約200m、南北約150mで、
内部は堀で方形状に区画されていたようだ。

上の写真の右側の林となっているところに「丸子館入口」の標識が建っていた。

室町時代葛西氏一族の江刺氏の分家絵さ氏七郎清義が館主となり、
三ヶ尻と名乗った。
三ヶ尻氏は天正18年(1088年)の秀吉の奥州平定まで約150年間も続いた。





詳細リンク:旧奥州街道383「金ケ崎町・三ヶ尻」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町三ケ尻六本松、川口田、清水端) 1110/1110


2011/10/18

JR金ケ崎駅~宿内川/旧奥州街道382

67rokuhara01s  JR金ケ崎駅

東京発7:16の新幹線に乗り、一ノ関で在来線に乗換え、
金ケ崎駅に着いたのは10:56であった。

3/11(2011年)の東日本大震災で中断していた旧奥州街道徒歩の旅の
再開である。

駅前通りを東進し、矢来交差点に出る。ここから旧奥州街道に復帰である。
前回の街道歩きで、この先も少し歩いていたので、
一部ダブっての街道歩きとなった。




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宿内川橋、旧街道

県道270号線から右に別れ暫く進み、緩い坂を下ると、
正面に宿内川に架かる、宿内川橋が見えてきた。

この川を渡ると、金ケ崎町西根から三ケ尻地区となる。




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宿内川上流

宿内川の上流側である。

宿内川は、写真正面(金ケ崎町西方)に見える駒ヶ岳(1130m)と
鉢森山(602m)の山間を源流とし、千貫石溜池に流れ込んだ後、
この先三ヶ尻で北上川に合流している川である。

この宿内川と北上川の合流点に、金ケ崎城があった。
写真前方の白い建物は、地図によると雇用促進住宅金ケ崎宿舎である。





詳細リンク:旧奥州街道382「JR金ケ崎駅~宿内川」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町西根、三ケ尻) 1110/1110

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