旧奥州街道5(宮城)

2011/01/22

JR松島駅~仙台駅/旧奥州街道245

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浜街道・仙石線ガード

瑞巌寺参詣のあと、松島湾に並行している国道45号線を北上する。

国道45号線は仙台市から太平洋沿岸を経て、
青森市へ至る全長510.7kmの国道で、国道6号線の陸前浜街道に対し、
こちらは浜街道と言われている。

仙台、陸奥国府多賀城、松島、三陸海岸等を経由するため、
私も車を走らせたことがあるが、東北の観光ルートともなっている。

写真の前方はJR仙石線の高架で、右側は高城川である。
上流の品井沼干拓と鳴瀬川、吉田川の洪水予防のために、
松島丘陵にトンネルを開削して造られた人工河川で、
元禄11年(1698年)に最初の潜穴排水路が完成している。




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JR松島駅

JR仙石線のガードを潜り、その先を左に向かうとJR東北本線の
松島駅に着く。

明治23年に初代松島駅が設置されたのは、ここでは無く、
山沿いの「山線」と呼ばれたところであった。

昭和31年に現在のここ「海線」に新松島駅が設置され、
昭和37年に駅名がもとの松島駅に戻されている。

なお、初代松島駅の駅舎は、松島町健康館として今でも利用されている。

今回はここで、旧奥州街道徒歩の旅のオプションとして回った多賀城、
松島を終え、JR東北本線で仙台駅に戻った。





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仙台駅

JR仙台駅は、東北地方中心都市仙台の代表駅で、
東北地方最大のターミナル駅だ。
開業は明治20年で、東京からの距離は351.8kmである。

旧奥州街道終点の三厩までの鉄道の距離は773.4kmであるので、
約45%を踏破したことになる。

今回は、仙台駅前のホテルサンルート仙台に宿泊する。
明日よりは、再び旧奥州街道の仙台・芭蕉の辻に戻り、
徒歩の旅の再開である。

次は、いよいよ旧奥州街道後半の松前道である。





詳細リンク:旧奥州街道245「JR松島駅~JR仙台駅」/街道意写真紀行
(宮城県仙台市青葉区) 1005/1101

2011/01/17

松島・瑞巌寺/旧奥州街道244

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瑞巌寺・法身窟

法身窟(ほっしんくつ)は、瑞巌寺拝観受付を通り、左側にある格子の嵌った
洞窟で、鎌倉時代半ばに法身禅師と執権北条時頼が出会った処と
伝えられている。

窟内には、時頼の法名碑・当山中興雲居国師行状碑、
三陸海嘯(かいしょう)供養碑等が所狭しと治められてある。

海嘯は広辞苑によると、満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁となって、
激しく波立ちながら進行する現象とある。
リアス式海岸(三陸)で大潮か津波で大きな被害が出た時の供養塔であろう。

手前の大きな石に刻まれた観音像は、右が楊柳観音、左が鎮海観音と
呼ばれている。
楊柳観音は文政6年(1823年)、鎮海観音は寛政12年(1800年)に
建立されたものだ。

写真中央右側の青銅製六地蔵塔は、貞享5年(1688年)に
建立されたもので、竿中央部に嵌め込まれた円盤をまわすことによって、
地蔵菩薩が六道を輪廻し、未成佛霊を救済するといわれ、
後生車、地蔵車とも呼ばれている。




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瑞巌寺・庫裏

慶長14年(1609年)銘の棟札を持つ国宝の庫裏(くり)である。
切妻屋根に煙出(けむりだし)を置き、妻飾り白壁と木組みの対照が
見事な建物だ。
この庫裏には食堂(じきどう)があり、延暦元年(1326年)の
雲版(うんばん、国重要文化財)がかけられていた。

庫裏の奥の建物は大書院(おおじょいん)で、この左側に本堂があるが、
平成の大修理と言うことで非公開となっていた。

その代わり、大書院と写真右奥の伊達政宗の
正室陽徳院(愛姫)御霊屋(寶華殿)が特別公開されていた。




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石窟群、鰻塚

瑞巌寺石窟群の前に、大正12年に建てられた未だ新しい鰻塚があった。
当時の松島は天然鰻が多量に獲れたことから、
ここに鰻供養のための鰻塚が建立されたとのこと。

石碑の裏側には寄付金を出した北海道から東京までの蒲焼店や
卸問屋の名前が126人も刻まれているという。






詳細リンク:旧奥州街道244「松島・天麟院~瑞巌寺」/街道写真紀行
(宮城県松島町松島) 1005/1101

2011/01/15

松島・瑞巌寺参道~円通院/旧奥州街道243

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瑞巌寺門前町

松島五大堂から海岸を離れ、松島丘陵に向かう。
瑞巌寺前の門前町を抜けると、瑞巌寺境内に入る。

松島・瑞巌寺(国宝)は、天長5年(828年)慈覚大師の創建と伝えられ、
奥州随一の禅寺で、伊達政宗の菩提寺である。




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瑞巌寺参道

瑞巌寺参道は杉林の中を通っている。

この道に並行して約200mに亘って石窟群のあるところだ。

石窟には苔むした五輪塔や塔婆などや無数の墓標などが
安置されたり、壁面に彫り付けてある


石窟群の前に鉄道殉職者忠魂碑がある。
旧国鉄時代からの殉職者1600名余が祀られている。

碑の両側には、蒸気機関車の動輪が置いてあり、
「みたまやすらかに 仙台鉄道管理局」と刻まれた碑があった。



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円通院

瑞巌寺の左手には円通院があり、こちらは伊達政宗の嫡孫の光宗の
霊廟で、正保4年(1647年)瑞巌寺第百世洞水和尚により
開山されたものだ。






詳細リンク:旧奥州街道243「松島・瑞巌寺参道~円通院」/街道写真紀行
(宮城県松島町松島) 1005/1101

2011/01/12

松島・五大堂/旧奥州街道242

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松島・五大堂

松島のシンボルと言われている五大堂で、国の重要文化財に指定されている。
海岸から三つ目の島の上にあり、橋を渡って行ける様になっている。

五大堂は、大同2年(807年)坂上田村麻呂が東征のとき
毘沙門堂を建立したのが始まりである。

その後天長5年(828年)に慈覚大師円仁が
延福寺(現在の瑞厳寺)開基の際、「大聖不動明王」を中心に
「東方降三世」、「西方大威徳」、 「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の
五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになった。

五大堂への橋の袂に、日本三景碑が建っている。
御馴染みの陸奥松島、丹後天橋立、安芸宮島である。

宮島、宮津にも同じような三景碑があったことを思い出した。

碑の裏を見ると、平成6年に建立されたもので、
「日本三景観光連絡協議会創立二十周年記念」と刻まれ、
当時の松島町長、宮津市長、宮島町長の名前が刻まれてあった。



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五大堂、透かし橋

海岸から二つ目と三つ目の橋が、透かし橋となっており、
橋から下の海面が見えるようになっている。

五大堂への参詣には、身も心も乱れのないように脚下を良く照顧して、
気を引き締めさせるための配慮とのこと。




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五大堂

現在の五大堂は、慶長9年(1604年)に伊達政宗が再建したもので、
東北では最古の桃山建築である。

単層宝形造の屋根が特徴で、堂四面の蟇股(かえるまた)には
その方位に対して十二支の彫刻が配されている。

内部には、一木彫平安朝初期の作風をとどめる五代明王像が
安置されており、33年に1度開帳されるとのことである。





詳細リンク:旧奥州街道242「松島・五大堂」/街道写真紀行
(宮城県松島町松島) 1005/1101

2011/01/11

松島海岸駅~松島湾/旧奥州街道241

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JR松島海岸駅

仙台よりJR仙石線で松島海岸駅までくる。
松島にはいつも車で来ていたので、電車で来るのは始めてであった。

仙石線は仙台のあおば通駅から仙台駅経由で、
石巻駅を結ぶ全長52kmの路線だ。

この仙石線の松島海岸駅は、昭和2年に開業した駅である。
住所が「松島町松島字浪打浜」となっており、
松島湾を目の前に臨む海岸線の駅となっている。




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松島港

松島海岸駅から公園広場を横断して松島港に出る。
この辺は、ヨットハーバーや観光桟橋のあるところだ。

遠く、松島の島影が見えるところである。
松島は松島湾外に大小260余りの諸島のことを言っており、
日本三景の一つに数えられている。

仙台平野を南北に分ける松島丘陵の東端が沈水して出来た沈降地形で、
溺れ谷に海水が入り込み、山頂が島として残っている状態である。

なお、松島湾の水深は10m以内で、福浦島、経ヶ島、引通島、
双子島等、総ての島に名前が付けられているのには驚いた。




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松島湾

松島湾はここ北側の狭義の松島湾と南側の塩竈湾に分かれている。

塩竈湾は、古くは陸奥国府多賀城の外港で、江戸時代は仙台城下町の
外港として発展してきた。

現在の塩竈港は、近海マグロを主とする漁港となっている。





詳細リンク:旧奥州街道241「松島海岸駅~松島湾」/街道写真紀行
(宮城県松島町松島) 1005/1101

2011/01/10

多賀城・浮島/旧奥州街道240

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多賀城あやめ園

多賀城作貫遺跡から坂を下ると正面に、多賀城碑のある小丘が見えてきた。
ここから左側一帯が、多賀城あやめ園となっている。

奈良時代初期から東北地方の中心地として陸奥国の国府、
鎮守が置かれていた多賀城の外郭東南部のここに、
アヤメ、ハナショブなど250種200万本が植えられている。

アヤメ類は、古代からこの辺に自生する多年草で、古くは「多賀城古種」と
言われる品種があったとのこと。




46tagajo27s  浮島神社

多賀城あやめ園を横断し、国府多賀城駅に向かう途中左手に
浮島神社がある。

奥塩老翁神と奥塩老女神の2神を祀った神社だ。
創建は不明であるが、多賀城ができたころからあったらしい。 

またこの地は、平安時代に歌枕として詠まれた「浮島」の地である。
陸に浮かぶ島のように見えたことから浮島と言われ、
この辺の現在の地名も浮島となっている。

新古今集で浮島に因む歌として

  「塩釜の前に 浮きたる浮島の うきて思ひの ある世なりけり」

他が残されている。

曽良日記によれば、元禄2年(1684年)に芭蕉も
塩竈に向かう途中、この地を訪れているようだ。

46tagajo28s 忠雄歌碑

浮島神社より、JR国府多賀城駅に戻る。
写真は駅前にある扇畑忠雄の歌碑で
  「多賀城に 立ちて落日に 向かひけむ 家持をおもふ まぼろしの如 忠雄」

と刻まれてあった。

忠雄は元東北大の教授で、昭和17年に赴任して以来、長年にわたり
東北の花壇をリードしてきた歌人であった。




詳細リンク:旧奥州街道240「多賀城作貫~浮島」/街道写真紀行
(宮城県多賀城市浮島) 1005/1101

2011/01/09

多賀城・作貫地区/旧奥州街道239

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多賀城築地、多賀城神社

多賀城政庁の裏(北側)には一部であるが築地が復元されている。

右手の社は、多賀城神社である。
後村上天皇と南朝の忠臣、北畑親房、北畠顕家、伊達行朝、結城宗広等を
祀った神社で、昭和27年に創建されたものだ。

戦前に計画されていたが戦争の悪化で実現できず、
戦後になってやっと建立された神社とのことである。




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作貫地区遺跡

外郭東門へ行く途中の右側にある作貫(さっかん)遺跡である。

多賀城政庁の東側にあり、役所があった処で、母屋を中心にコの字型に
配置され、堀や土塁で囲まれていた。
規模からも陸奥国府の主要な役所であったようだ。

中世期は豪族の居館となり、江戸時代は塩釜神社の神官の屋敷として
使われていた。




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作貫役所跡・主屋

作貫地区役所の主屋跡で、廂(ひさし)付きの建物であったとのことである。



詳細リンク:旧奥州街道239「多賀城神社~作貫」/街道写真紀行
(宮城県多賀城市市川) 1005/1101

2011/01/08

多賀城政庁跡/旧奥州街道238

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多賀城政庁南門跡

多賀城政庁の正門である南門跡だ。
往時の礎石が発掘されている。

多賀城政庁は約100m四方の築地(ついじ)で囲まれ、
中央やや北側に正殿、その手前両側に東西脇殿が配置され、
建物で囲まれた空間は広場となっていた。

築地は、厚さ3m、高さ4mで、土を衝き固めて、
その上に屋根をかけた塀である。




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多賀城政庁跡

多賀城政庁跡である。手前は石敷き広場となっている。

多賀城には時期により異なるが、都から赴任してきた按察使(あぜちし)、
国司、鎮守府高官など20名前後の役人の他、書生、下級武士、工人、
兵士等がおり、全体で1200人位の規模であったようだ。




46tagajo15s 多賀城政庁正殿復元図

正殿復元図のパネルが掲示されていた。

正殿は政庁での中心的な建物で、礎石式の四面庇(ひさし)付きの
建物であった。、
ここで、重要な決済や儀式が行なわれていたと考えられている。

政庁正殿の裏側(北側)に後村上天皇御坐之碑(左側石碑)と
明治天皇記念碑が並んで建っている。

後村上天皇は、建武元年(1334年)多賀城で義良親王となり、
延元4年(1339年)3月吉野に戻り皇太子なり、
同年8月に父後醍醐天皇の譲位を受けて践祚(せんそ)した。

なお、践祚とは皇嗣(こうし)が天皇の位を継承することである。




詳細リンク:旧奥州街道238「多賀城政庁跡」/街道写真紀行
(宮城県多賀城市市川) 1005/1101

2011/01/07

多賀城碑~南北大路/旧奥州街道237

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多賀城碑覆屋

多賀城外郭南門跡を抜けると、右手に国の重要文化財に指定されている
多賀城碑覆屋(写真右端)が見えてくる。

多賀城碑は、多胡碑(群馬県多野郡吉井町)、
那須国造碑(大田原市湯津上)と共に、日本三古碑の一つに数えられている。

江戸時代初期に土中から発見されてと伝えられ、
歌枕の「壷碑(つぼのいしぶみ)」とされたことから、
多くの文人の注目を浴び、松尾芭蕉も元禄2年(1689年)に訪れ、
「泪も落ちるばかり」に感動したと、「おくのほそ道」に記している。




46tagajo07s  多賀城碑

多賀城碑覆屋の格子の中の碑である。
碑面には多賀城の位置から始まり、神亀元年(724年)に大野朝臣東人が
多賀城をおき、天平宝治6年(762年)に藤原恵美朝臣が修造したことが
刻まれている。

碑文の中に「京去千五里」とあるのが目に留まった。
奈良時代の一里は約535mであるので、802.5kmとなる。
蛇足であるが、この京は京都ではなく平城京(奈良)のことだ。



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多賀城南北大路

多賀城の南北大路の階段である。
多賀城の中枢部である政庁から外郭南門へまっすぐ通じる道路で、
多賀城の中で最も重要な道であった。

そして、政庁の南側斜面は、自然石を並べた階段が設けられ、
道路には排水用の暗渠も設置されていた。

階段横にある説明パネルには、発掘当時の写真と、南北大路と政庁を
示す絵図が載っていた。

説明によると奈良時代の大路の幅は12mであったが、
平安時代に大路に相応しく23mに拡幅されている。





詳細リンク:旧奥州街道237「多賀城碑~南北大路」/街道写真紀行
(宮城県多賀城市市川) 1005/1101

2011/01/06

JR国府多賀城駅~多賀城館前遺跡/旧奥州街道236

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JR国府多賀城駅

JR仙台駅から東北本線で国府多賀城駅に来る。
多賀城駅は地元多賀城市の請願により、平成13年9月に
開業したばかりの駅だ。

この駅の背後南口には、多賀城廃寺址と
平成11年開業した東北歴史博物館があるところだ。
旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を時代別に区分して
展示している。

その南口と北口を結ぶ自由通路は「悠久ロマン回廊」と名付けられている。

なお多賀城市は、明治22年の町村制施行に伴い、多賀城村が誕生、
昭和26年に町となり、昭和46年に市となっている。




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多賀城館前遺跡

写真は国府多賀城駅から国特別史跡に指定されている
多賀城館前遺跡を俯瞰したものだ。

神亀元年(724年)、多賀城は陸奥国の国府として整備され、
蝦夷(えみし)征討政策にあたった鎮守府が設けられた。

宝亀11年(780年)の伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)の
反乱で焼失したが、延暦21年(802年)に再建された。

延暦21年(802年)、鎮守府が坂上田村麻呂によって岩手県胆沢城に
移された後も国府の役割を果たし、北の要衝として、源頼義、義家父子の
治めるところとなっている。

南北朝時代には、多賀城に陸奥将軍府が置かれたが、多賀城の陥落後、
将軍府の中心的武将伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。


多賀城館前遺跡は、昭和54年の発掘調査で発見されたもので、
平安時代初期(9世紀前半)の建物6棟跡である。

その内の中心建物は4面に廂(ひさし)が付く格式の高いもので、
大きさは多賀城政庁正殿に匹敵するものであった。

多賀城に赴任した国司宅、または多賀城に関連する役所と考えられている。

館前遺跡は多賀城政庁との距離は600m、多賀城廃寺とは500mの
距離にあり、ほぼ中間に位置している。

台地上に位置する本遺跡から多賀城跡の南東隅までは
200mほどの距離となっている。



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多賀城南門跡辺

館前遺跡から多賀城に向かうと、小高い丘となる。
この辺が多賀城の南門につながる外郭築地塀があったところだ。
多賀城の外郭築地塀は約900m四方と広大であった。

多賀城の外郭築地塀には南、東、西の門跡が確認されており、
創建時は簡素な門であったが、奈良時代中頃以降は
格式の高い八脚門に変わっている。





詳細リンク:旧奥州街道「JR国府多賀城駅~多賀城館前遺跡」/街道写真紀行
(宮城県多賀城市浮島、市川) 1005/1101

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