旧奥州街道3

2010/03/18

JR日和田駅前/旧奥州街道90

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岩城街道追分

日和田宿基点の岩城街道(現県道115号線、三春日和田線)追分である。
ここを行くと高柴デコ屋敷がある。

旧三春藩高柴村に、代々継がれた人形師の家が5軒あり、
福島県の重要有形民族文化財に指定されており、
伝統の三春駒や張子人形を今でも作っている。

旧奥州街道は、左側の緩い上り道である。
日和田宿は坂の途中にある町である。




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日和田駅前

駅前通りの坂を下った所に、JR東北本線日和田駅がある。

写真は駅舎より撮影したもので、右手の建物が日和田行政センター、

日和田公民館である。

中央の大きな木のあるところが日和田宿鎮守の八幡神社だ。




23hiwada13s  JR日和田駅

日和田宿は明治30年に開業している。無人駅ではあるが、
ここでICカード「Suica」が利用できるのには驚いた。
Suicaは平成21年3月よりサービス開始されたばかりであった。 

日和田駅は東京駅から232kmである。
奥州街道の終点である青森県三厩駅までは
東京駅から783.7kmであるので、鉄道の距離でも
未だ550kmもある。

先を考えると、ぞっとするが、
今回はここで、
奥州街道15日目の街道歩きを中断した。

日和田駅より東北本線の各駅で郡山駅まで戻り、

新幹線を利用しての帰宅であった。



詳細リンク:旧奥州街道90「日和田宿~JR日和田駅」/街道写真紀行
(福島県郡山市日和田町) 0910/1003

2010/03/17

日和田宿/旧奥州街道89

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43日和田宿入口

藤田川を渡ると、旧奥州街道43番目の宿場・日和田宿となる。

藤田川は、額取山(1009m)東麓を源流とする川で、
郡山市を西から東に横断し、阿武隈川に流入している。

上流の喜久田町(JR磐越西線の喜久田駅付近)は、
桜の名所として知られている川だ。


写真は日和田宿の入口付近である。

日和田宿は、南北500mの坂の町で、
享保年間(1716~36年)の家の数は169戸であった。

町名主は佐藤、小野口の両家であった。

日和田は、近世以前は「部谷田(へやだ)」、「部和田(へわだ)」、
「辺和田」、「戸和田」と書かれていたが、天保元年(1830年)の相生集には、
現在の日和田と記述されている由。



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23hiwada10s  日和田宿旧家


日和田宿の中心部に残された古い民家である。
上の写真は未だ新しい赤いトタン屋根で、
下は青のトタン屋根となっているが、この下は茅葺屋根であったようだ。

日和田は、今でも古い家が多く残されている。




詳細リンク:旧奥州街道89「43日和田宿」/街道写真紀行
(福島県郡山市日和田町)  0910/1003

2010/03/16

富久山町・牛ヶ池/旧奥州街道88

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牛ヶ池、旧街道松並木

宝沢沼から緩い坂(普賢坂)を上ると、
街道沿いに古い松並木が断続的に残されている。
この辺で、手元の高度計を見ると、標高は250mくらいであった。

下り坂の途中、旧街道右側に「牛ヶ池の碑」がある。
江戸時代の文化年間(1804~1818年)に、この辺の開拓を行い
田畑が完成したことを記念しての石碑である。



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JR東北本線、日和田宿遠望

切り通しにJR東北本線が走っている。
前方の集落は、旧奥州街道43番目の宿場日和田(ひわだ)宿である。



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安達太良山

街道前方に、秀峰安達太良山(1699m、最高峰箕輪山1728m)が
見えてきた。
高村光太郎の「智恵子抄」で、すっかり有名になった山だ。

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」で始まる
「樹下の二人」は瑞々しく感動的であった。

またこの辺は、旧街道左側に丸永瓦、五十嵐鬼瓦、渋谷瓦、
中村鬼瓦と瓦屋の多いところである。




詳細リンク:旧奥州街道88「富久山町・牛ヶ池」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町八山田字牛ヶ池) 0910/1003

2010/03/15

富久山町・宝沢沼~照内川/旧奥州街道87

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宝沢沼

福原宿のはずれにある宝沢(ほうざわ)沼で、
正面には磐梯山が望める景勝地である。

この沼は、会津藩主蒲生秀幸が、寛永4年(1628)に領民の請願により、
宝沢沼の堤防工事に着手され、
同年加藤嘉明が四国より移封された加藤嘉明に引き継がれ、
寛永6年(1630年)完成したものである。

堤防の幅22m、延長は240mで、水利灌漑が便利になったことを喜び、
福原村民が、沼の北に水神宮を、南に恵比寿の宮を建て、
旧暦の7月20日にはこの土手の上で笛、太鼓を鳴らし踊ったとのこと。
近年まで土手の祭り(盆踊り)として続いたが、今は途絶えている。

沼の周囲が、郡山市により「一周ふれあい小路コース」として整備され、
休憩用の東屋も出来ている。




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照内川

水神社の前を通ると、照内川に突き当たる。
そこより川沿いに、奥州街道に復帰する。

その途中に、未だ新しい馬頭観世音が4体あった。
すべて昭和初期に建てられたもので、
牛馬が重要な陸送の手段であった頃が伺われる。
流石に太平洋戦争以降に建てられた馬頭観世音は見かけなかった。

写真は照内川の桜並木である。
この川は阿武隈川に流入しており、宝沢沼の氾濫を防ぐ為に利用されている。




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高江橋/照内川

照内川に架かる高江橋を渡って、次の宿場である日和田宿へ向かう。
旧奥州街道43番目の宿場である。





詳細リンク:旧奥州街道87「富久山町・宝沢沼~照内川」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町福原、八山田) 0910/1003

2010/03/10

42福原宿/旧奥州街道86

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42福原宿町並み

福原宿の中心部の町並みである。
赤瓦の見事な家並みで、まさに甍を争うようであった。

下の写真は柳沼醤油店の看板が出ていた。醤油醸造しているようだ。




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福原宿出口付近

街道や緩いカーブを描いている。
宿場出口付近の枡形跡であろうか、家並みが途切れてきた。

街道左側に宝沢沼養魚場がある。ここの鯉の甘煮は定評とのことであった。
この背後に、大きな宝沢(ほうざわ)沼のあるところである。




詳細リンク:旧奥州街道86「42福原宿」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町福原) 0910/1003

2010/03/09

福原宿入口/旧奥州街道85

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42福原宿入口付近

地名が富久山町久保田から福原に変わる。

この辺が、旧奥州街道の42番目の宿場・福原宿の入口付近であったようだ。
写真右の富久山郵便局の地名は富久山町福原字一里坦となっている



22koriyama38s  福原一里坦跡碑

郵便局のすぐ北側に「史蹟一里坦跡」と刻まれた石柱が建っていた。
一里塚跡である。

坦は「たいら」という意味の字だ。
この一里坦がそのまま小字名となっている。




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豊景神社

街道を挟んで反対側に豊景神社(とよかげ)がある。

祭神は豊斟淳命(とよくむぬのみこと)と鎌倉権五朗景政となっている。
永保3年(1083年)後三年の役と途次、
源頼家は当地が毒蛇の禍で、凶作に苦しんでいるのを知り、
武勲の誉れ高い鎌倉権五朗景政に命じて退治させた。

その後、凶作もなく暮らしも安定したので、感謝の念から
天養元年(1144年)に景政の御霊を合祀し、御霊宮とした。

以前は中世の古街道沿いにあったものを、徳川家康の街道整備政策による
新街道(仙台松前道)造成のおり、現在地に移されたようだ。

ここの、江戸時代から続く太々神楽は
福島県の重要無形文化財に指定されている。





詳細リンク:旧奥州街道「富久山町久保田~福原宿入口」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町久保田、福原) 0910/1003

2010/03/06

郡山・富久山町久保田/旧奥州街道84

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磐越西線

逢瀬川に架かる安積橋を渡ると、
郡山市富久山町久保田(旧久保田村)に入り、磐越西線のガードを潜る。

磐越西線は、郡山と会津若松経由新潟県の新津駅を結ぶ線で、
会津若松と新津間は「森と水とロマンの鉄道」という愛称が付けられている。

車両のラインカラーは写真のように茶となっている。




22koriyama32s  清酒・藤乃井

旧奥州街道左手に清酒藤乃井の(有)佐藤酒造店がある。

街道沿いに上質の井戸があり、その水を利用して
宝永7年(1710年)に酒造りを始めたとのこと。
当時の井戸は日吉神社境内に今でも残っているという。

また、酒名は二本松藩主丹羽氏が参勤交代の際に立ち寄り、
蔵の敷地に咲く藤の花を見て「藤乃井」と名づけたようだ。

なお、現在の蔵は100年ほど前に作られたもので、
今の社長は14代目とのことであった。



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日吉神社

街道左に日吉神社がある。
延暦20年(802年)、近江の日吉神社を分祀したものだ。
室町時代の館跡であったため、山王館とも呼ばれている。

天正16年(1588年)、久保田の合戦の時、
伊達政宗がここに本陣を構えた由。

久保田合戦は郡山合戦とも言われている。
伊達政宗、田村連合軍と
佐竹、芦名、岩城、二階堂、白河、石川各氏の連合軍との戦いである。
伊達側が勝利するが、その時に伊達軍の伊東肥前守重信が討死する。

境内には福島県の重要文化財に指定されている16基の石造塔婆と、
郡山市指定文化財となっている伊東肥前守碑が残されている。





詳細リンク:旧奥州街道84「郡山・富久山町久保田」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町久保田)  0910/1003

2010/03/04

郡山宿~逢瀬川/旧奥州街道83

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阿邪詞根神社

街道左側に古社、阿邪詞根(あさかね)神社。
由緒によると、康平年間(1058~1065年)、
伊勢国阿坂より勧請し道祖社として創建されたようだ。

寛治3年(1089年)、源義家の副将軍として、
前九年・後三年の役に出征した平忠通の霊をここに合祀し、
御両宮後御霊宮と改称された。
そして、寛政年間(1789~1801年)、領主の丹羽氏の時に
御霊大明神となり、明治22年に今の阿邪詞根神社となった。




22koriyama26s 曼荼羅供養塔、阿弥陀三尊塔婆

説明によると、源頼義・義家が奥州平定後の治暦3年(1067年)に
戦死者を弔うために建立されたもの。
高さ2.4m、厚さ30cmで、塔の表面は仏の姿を表す梵字を配した曼荼羅が
刻み込まれている。

わかりにくいが左下の柵の内側に高さ91cmの
石造浮彫の阿弥陀三尊塔婆がある。
鎌倉時代末期に作られたもののようだ。



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逢瀬川

郡山宿を抜けると、歌枕で有名な逢瀬川となる。
写真は逢瀬川に架かる安積橋より下流(東側)を見たものだ。
背後の高架は東北新幹線である。

逢瀬川は、郡山市逢瀬町の大滝渓谷が源流で、
この先で阿武隈川に合流している。
この川までが旧郡山村で、
橋を渡ると旧久保田村(現冨久山町久保田)となる。

次は旧奥州街道42番目の宿l場・福原宿である。

参考として、逢瀬川を詠んだ句を2,3列記する。
  逢瀬川 袖つくばかり 浅けれど 君許さねば えこそ渡らぬ・・・・源重之
  まだなれぬ 人にぞ今宵 逢瀬川 同じ流れを 思い渡りぬ・・・・李経集
  浅香山 さも浅からぬ 敵とみて 逢瀬の勇む 駒の足並み・・・・源頼義
  ほどなくも 流れぞとまる 逢瀬川 変わる心や 井堰ならん
                                  ・・・・新続古今和歌集

今も川底は浅いが、当時も浅かったようだ。





詳細リンク:旧奥州街道83「郡山宿~逢瀬川」/街道写真紀行
(福島県郡山市大町) 0910/1003

2010/02/27

郡山宿下町/旧奥州街道82

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郡山駅前大通り

大町交差点より、JR郡山駅方面を見た写真である。
幅30m、長さ300mの大通りで、歩道のアーケードは30年前に出来たという。
郡山を代表する柏屋、三万石、かんのや等の名物菓子店があるところだ。

郡山は、今でこそ福島県随一の町であるが、
江戸時代は二本松の方が発展していた。
その郡山が明治以降発展したのは、安積疏水などによる開拓もあったが、
何よりも大きかったのは、東北本線に郡山駅に
福島県を横断する磐越東線と磐越西線、それに水戸と結ぶ水郡線の
発着駅となり、文字通り福島県の交通の要衝となったことだ。

また、首都圏からも多くの企業が進出しており、
我が社の工場も郡山に進出して久しい。
出張で良く来たことがあり、伝説の乙女・萩姫ゆかりの
「美人をつくる湯」として知られた磐梯熱海温泉にも何度か泊まったことがある。




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郡山宿下町(現大町)町並み

江戸時代は、郡山駅前通りの大町交差点の北側を下町と呼んでいた。
写真は旧北町、現在の郡山市大町地区である。

上町(現中町)と違い、かつての旧宿場町の面影が残されているところである。
写真はさいとう呉服店、コクフン洋品店と、
旧家を改装したスナック羅針盤である。




22koriyama22s  双体道祖神

郡山宿北町出口付近の、木造の商家渡辺屋本店の軒下に
道祖神が置いてあった。
この辺では珍しい、手を取り合った石造双体道祖神である。



詳細リンク:旧奥州街道82「41郡山宿下町」/街道写真紀行
(福島県郡山市大町) 0909/1002

2010/02/24

41郡山宿上町/旧奥州街道81

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郡山宿中心街(中町)

宿場特有の枡形を通ると、郡山宿の中心街(中町)となる。

文政年間(1818~30年)には、人口3900人、旅籠の数は40軒以上あった。
本陣今泉家は、現在の和久屋ビルの一画にあり、
二本松藩の安積三組(郡山組、片平組、大槻組)の代官所跡は、
写真右手の現うすいデパートの裏手にあったようだ。


この先の大町交差点を右折すると
JR東北本線の郡山駅があるところだ。

江戸時代は、この大町交差点より南側(手前)を上町、
北側を下町と区別して読んでいた。




22koriyama13s  安積国造神社

左側に安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)がある。
創建は、13代成務天皇5年(135年)。
勅命により、比止禰命(ひとねのみこと)が、
安積国造(あさかのくにのみやつこ)に任ぜられ、
当時未開であったこの地を開き治めた時、
社稷(しゃしょく)の神として祀ったのが始まりとか。


坂上田村麻呂が東征の際、八幡大神が合祀され八幡宮とも呼ばれている。
なお、現在の拝殿は文化7年(1811年)に再建されたものである。



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郡山道路元標、郡山山水道


安積国造神社の参道入口付近にある
郡山道路元標(写真中央左石塔)である。
江戸時代は木製で、奥州街道の道標(みちしるべ)として、
江戸や会津までの距離が書かれていた。

その後、今の御影石に建て替えられたもので、
今でも秋祭りの際の神輿の宮入りの基点となっている由。

写真右側は、山水道である。
江戸期初期の郡山宿の飲料水は、水田灌漑用の皿沼の土手下に
水箱をおき、受け口から竹をつないで地下に埋め、各家に引いていた。
その後、町の人口が増えたため、明和年間(1760年頃)、
宿場の商家達が自弁で、現在の清水台、虎丸一帯の湧水の地に
井戸を掘り、山水道を引いた。

山水道は、地下を木管、竹管で継ぎ、商家の屋敷内まで引き
水井戸を作って利用した。
この山水道を導入した商家の水井戸から、
近所の人に自由に水を汲ませたという。

これが郡山の風物詩「貰い水」であった。

詳細リンク:旧奥州街道81「41郡山上町」/街道写真紀行
(福島県郡山市本町、中町)  0910/1002

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