近畿

2015/08/20

道頓堀/大阪

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道頓堀は、道頓堀川の南岸に沿う繁華街である

大阪の歌舞伎、義太夫、見世物などの芝居小屋総てが、
幕府の命によりここに移され、
芝居の本場として栄えたのが今の道頓堀の始まりである

道頓堀は、まさに江戸期より続いている芝居の街である。
それに加えて、映画館や、大阪を代表する多数の飲食店が
軒を連ねているところでもある。


道頓堀、この日も大勢の人で賑わっていた。

(大阪 道頓堀)0609/1508

2011/03/11

宮津・天橋立/京都

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天橋立遠景

タンゴ鉄道の踏切を渡るリフト乗場がある
上からの眺望の素晴らしいところである

天橋立、そして背後の丹後半島が目前に迫って見えるところだ

実は、古代では、ここから山道を下って天の橋立袂の渡船場に行った

海岸線は山地が海に入り込んでいて
飛び石伝いや波を被る道であったので
山越えの道を通るのが一般的であった

その為、ここの台地で天橋立を見下ろしながら休憩をしたようだ

我々も、ここで絶景を堪能した
日本三景に相応しい眺めであった





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一宮・籠神社

延喜式内社の丹後国一宮である籠(この)神社である

ここから西へ少し行くと国分寺跡がある

今でも敷地内には金堂、門、塔の礎石が残され
京都府立の丹後郷土資料館が設置されている

文字通り、古代の丹後国の中心であった処だ





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天橋立

天橋立の中が公園として整備されている

天橋立神社の他、磯清水、岩見重太郎仇討ちの場跡や
与謝野寛、晶子夫妻の歌碑等があった

なお、この天橋立は
日本の渚百選、日本の道百選、日本の名松百選、日本の白砂青松百選
ついでにもう一つ、美しい日本の歴史的風土百選にも選ばれていると言う

まさに日本の名所である





詳細リンク:旧丹後街道ぶらり徒歩の旅14「天橋立・文殊~府中・籠神社

/街道写真紀行    (京都府宮津市) 0712/0801/1103

2010/03/20

相生/兵庫

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JR相生駅

赤穂を訪れた後、JR赤穂線に乗り、相生駅で下車した。
相生駅は赤穂線の終点であるが、現在は山陽本線姫路方面と運用が
一体化され、当駅始発(終着)の列車は無くなっている。

なお、相生駅は明治23年に開業した当時は、那波駅であった。
ここは、旧街道の那波宿であったからである。
昭和17年に今の相生駅に改称されている。



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相生駅前

2001年から相生駅前が整備され、その一環として相生市の象徴である、
港町、造船に肖った二つのモニュメントが出来た。

一つは船のマストをイメージした白い柱(写真右端)で、
ステンレス柱に軽量のチタンをアンテナ状に取り付け、
風の向きにより方向が変わるようになっている。
京都・亀岡市の彫刻家西野康造氏の作品とのこと。

もう一つは、実際に使用された高さ2.5mの
大きな碇(上写真)そのものが黒く塗られ設置されている。



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狐塚古墳跡

相生駅を出て、南に向かうと、狐塚古墳跡がある。
この前を旧山陽道が走っており、ここに一里塚があったというが、
その痕跡は無かった。

埴輪を模った真新しい狐塚古墳跡記念碑が、出来ていた(写真右端)。



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相生市街(栄町)

狐塚古墳跡から南の港方面に向かう。
かつての那波宿、相生港に向かう旧道筋である。

相生は、播磨灘に臨む金ヶ崎(かながさき)と釜崎(かまさき)を
湾口とする相生湾の一番奥にある町だ。

湾の水深が6~7mと深く、また三方が山で囲まれている為、
大型船舶が出入りできる古くからの天然の良港で、
内海航路の風待港であった。  

江戸時代は赤穂藩の港として、また山陽道の宿場町として栄えて来た。
また明治40年には播磨船渠が創設され造船の町として繁栄し、
現在は石川島播磨重工業を中心に大小の造船関連工業が立地している。
 
なお、相生の地名は、長治元年(1104)、大嶋に城を構えた、
播磨海老名氏の祖、家季の生国が相模国であったことから、
ここの浦名として呼ばれていた「おお」に相模の「相」を組み合わせて
「相生(あいおう)村」としたのが始まりと伝えられている。

昭和14年に、元宿場の那波の町を編入した時に
「相生(あいおい)」と呼び方を代えた由。

全くの蛇足であるが、筆者が結婚式で利用した披露宴会場が
「相生(あいおい)の間」(東京・明治記念館)であった。



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鮎帰川

市街を歩いた後、旧街道沿いの鮎帰川(あゆかえりがわ)の鮎帰橋袂に来る。
なんとも洒落た川名である。

鮎帰橋より上流を見た写真である。
かつては蛍が飛び交い、子供達の水遊び場であったそうだが、
自嘲気味に、今は「鮎帰る 水もない 鮎帰川」とか。

佐多稲子の「素足の娘」は、大正期の相生が舞台で、
この川沿いの道がでてくるそうだ。




詳細リンク:兵庫「相生」/日本写真紀行
(兵庫県相生市)  0802/1003

2009/10/31

赤穂/兵庫

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赤穂城、大手櫓

赤穂城を見学した後、駅まで赤穂の町を歩いてみた。
写真は、赤穂城の大手門を出て、赤穂市街を見た写真である。
写真左は大手櫓だ。

正面の店は「かん川本舗」である。
江戸時代より続く、名物塩味饅頭「志ほ万」等を販売している土産店だ。



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加里屋川

赤穂市の中心部を流れている加里屋川で、かつては能見川と呼ばれ、
明治27年までは千種川の本流であった。
昭和50年頃までは、子供が中に入って遊べるくらい綺麗な川であったようだ。

現在、河川再生プロジェクトが進められ、一斉清掃や浄水作用のある蜆の
放流等を行っているとのこと。



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花岳寺

花岳寺(かがくじ)は正保2年(1645年)、
赤穂藩祖浅野長直によって建てられた寺である。
元禄事変後は、赤穂藩歴代藩主の永井家、森家の菩提寺となっている。

境内には義士の墓や、三十三回忌に刻んだ四十七士の極彩色の
木像がある。

写真右端の松は、大石名残の松二代目である。
もともとは、元禄4年(1691年)に大石内蔵助が母の冥福を祈り
植えた松で、元禄14年(1701年)に、赤穂を離れるとき、
この木の下で名残を惜しんだ為、後に名残の松と言われるようになったとか。



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JR播州赤穂駅

播州赤穂駅は昭和26年に開業した比較的新しい駅である。
開業当時、飯田線(長野)に赤穂駅(現駒ヶ根駅)があったため、
播磨国の別称である播州を冠し、播州赤穂駅となった経緯がある。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:兵庫「赤穂」/日本写真紀行
(兵庫県赤穂市加里屋南、加里屋)  0802/0910

2009/10/29

赤穂・大石神社/兵庫

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四十七義士石像

赤穂城の三の丸に大石神社が建立されている。
その参道の両側に、中国産黒大理石で作られた、
大石内蔵助以下討入り表門隊と、大石主税以下裏門隊の石像が
両側にずらっと並んで建っているのには驚いた。


製作は兵馬傭工芸技術伝承者と記されてあった。
なお、裏門隊の隊長大石主税は、義士の中で最年少の16歳で、
内蔵助の嫡男であった。



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堀部安兵衛(左)と吉田忠佐衛門石像

御馴染みの堀部安兵衛(左)と吉田忠佐衛門の石像である。

吉田忠佐衛門は討入りの時、63歳と言う当時としては高齢であった。
石高は200石で、原聡右衛門(300石)や、片岡源五右衛門(350石)より
少なかったが、武芸に秀でており、又人望もあり、
同士の間では内蔵助に次ぐ人物であったようだ



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大石神社

赤穂城三の丸の一画に大石神社がある。
明治天皇の宣旨を契機として、明治33年に神社創立が公許され、
大正元年に四十七士義士命を祀る神社として鎮座になった。
所謂武将神神社である。



詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:兵庫「赤穂・大石神社」/日本写真紀行

2009/10/28

赤穂城址/兵庫

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赤穂城・大手隅櫓

赤穂御崎に行った後、バスで赤穂城址に寄った。
赤穂城は正保2年(1645年)、浅野長直(ながなお)が、
5万3千石で、常陸国笠間から入封し築城、城下町、塩田を開発した。

しかし、元禄14年(1701年)、3代長矩の江戸城内での刃傷で改易となり、
その後は永井氏、森氏と続いた。

写真は赤穂城正面の大手隅櫓である。
 


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武家屋敷

元禄15年(1702年)の赤穂城内屋敷図によれば、
家老格の重臣の屋敷は、城の重要な門の近くに配置され、
それぞれの門の警護を受け持たされていた。


ここは赤穂城清水門の押さえとして、坂田式右衛門(800石、准家老格)の
屋敷があったところである。
武家門、築地塀、井戸屋形、杉皮葺あずまやを配し、
江戸時代の武家屋敷の様子を再現している。

濠の外(写真左端)には、蔵屋敷を模した歴史博物館が出来ていた。
平成元年に完成したもので、1階は製塩用具を中心とした赤穂の塩を
解りやすく展示されている。
2階は、赤穂城や城下町、赤穂義士等の絵図や模型、資料等が
展示されいた。
  


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本丸門

復元された真新しい本丸門(枡形門)を通り、本丸跡に入る。
本丸門は明治10年代後半に取り壊しまで、約230年間現存しており、
写真も残されている。

現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史蹟等整備特別事業として、
全国で始めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて、
総事業費6.7億円をかけて平成8年に完成したものだ。



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本丸跡

天守台跡に上って本丸跡を俯瞰した写真である。
浅野家断絶後赤穂藩主になった永井家の所蔵文書の
「赤穂御城御殿絵図」を元にした、間取りが再現されていた。

本丸の面積は15,114平方mあり、
その2/3は領主屋敷(表御殿、中奥、奥御殿)、番所、倉庫等の建物と、
天守台、池泉等で占められ、残りの1/3はくつろぎ(池泉を発掘調査)と
呼ばれる空き地になっていた。

本丸の建物跡は、床高だけ高くして、コンクリート盤上に部屋の
間仕切りを示し、板間、奥座敷、土間、敷居、廊下、柱、縁などを
解りやすく表現してあった。
なかなか手の込んだ復元であった



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本丸庭園

池泉回遊式庭園で、最近ホタルが生息していることが解った。

上手く繁殖させ、初夏の貴重な観光資源にと保護している由。
この池泉には蛍幼生の餌になるカワニナが生息しているとか。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:兵庫「赤穂城・三の丸」、「赤穂城・本丸」/日本写真紀行
(兵庫県赤穂市上仮屋旧城内) 0802/0910
 

2009/10/12

幼稚園運動会/大阪

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八尾市安中幼稚園

八尾の孫娘より、たどたどしい字で書かれた運動会の招待状が
届いたので、横浜より朝一番の新幹線で出かけた。

孫は初めての運動会で、張り切っていた。

驚いたことに、最近の幼稚園では、父母と一緒の競技は当然であるが、
祖父母との一緒の競技もあるのである。
私も、孫と一緒に紅白の玉入れを行い、楽しい一時を過ごしたが、
祖父母の来ていない人は、園児一人で玉入れとなり、一寸寂しい感じがした。
もっとも、殆どの祖父母が来ていたが・・・

今は、園児の父母の他に、祖父母までが招待されているので、
園児の数より、圧倒的に観客の方が多く、賑やかな運動会であった。
(園児一人に父母とその両方の祖父母で計6人)



(大阪府八尾市) 0910/0910

2009/07/14

赤穂御崎/兵庫

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赤穂御崎、赤穂海浜公園

JR赤穂線の播州赤穂駅で下車して、駅前よりバスに乗り
赤穂御崎で下車する。

赤穂御崎は赤穂市南東部の播磨灘に面する半島で
瀬戸内海国立公園の一部となっている。
写真は御崎より赤穂海浜公園方面を撮ったものだ。
元の東浜塩田跡である。園内には、塩の国科学館があり塩田や
製塩作業所等が保存されている。



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伊和都比売神社

御崎先端にある延喜式内社である伊和都比売神社がある。
御崎明神とも称され赤穂民族の祖神である。

なお、古くから若い男女による姫神信仰が盛んで、縁結び、
あるいは恋人を得るご利益のある「姫守」を受ける人が多く、
御崎の景色と共に今でも人気スポットとなっている様だ。



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小豆島

御崎の先端から小豆島の全景が見える。
小豆島は淡路島に次ぐ瀬戸内海第2位の島で、西は備讃瀬戸、
そして手前東側は播磨灘に面している。
古くは、「あずきしま」と呼ばれていたが室町時代辺りから
音読みの出「しょうどしま」となったようだ。
島の最高峰は星ヶ城山(ほしがじょうさん、817m)である。

幕末から発達した醤油や戦後の佃煮が特産となっている。
また、明治41年に移植されてからは、オリーブが島のシンボルとなっている。

小豆島と言えば壷井栄の「二十四の瞳」が忘れられない。高峰秀子主演の映画も良かった。
 

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家島諸島

御崎より南東の方向には家島(いえしま、えじま)諸島が見える。
東西27km、南北19kmもわたって大小40余の島が散在している
典型的な沈水地形で、家島湾などの溺れ谷は水深も大きく
自然の良港となっている。

また、男鹿山や西島等では砕石場が多い。
写真左端には岩肌が見える島が写っている。位置からして男鹿島であろう。

家島の名は、神武天皇が東征の時、暴風雨の難を避けようとして
入港した時に「波静かにして家の内にいる如し」と述べられたことによる由。



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大石名残の松

この下の船着場は、元禄14年(1701年)6月半ば、
赤穂開城を終えた大石内蔵助が、妻子を大坂表に送り出したところだ。
その後、内蔵助は6月25日に後を追って山科に向かったという。

その時の御崎の巌頭に立つ老松を見返りつつ名残を
惜しんだと伝えられ、「名残の松」と呼ばれるようになった様だ




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:兵庫「赤穂御崎」/日本写真紀行
(兵庫県赤穂市御崎) 0802/0907

2009/06/14

新世界・通天閣/大阪

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久しぶりに大阪のミナミに行った

新幹線の新大阪駅から地下鉄の御堂筋線に乗り
天王寺の動物園前で下車した

写真は、御馴染みの新世界・通天閣である
相変わらずの賑わいであった

うどん屋、酒屋、かつどん、串かつ、たこ焼き、お好み焼き、
ふぐ、カニ、すし、居酒屋、旅館、そして衣料品店や
おもしろグッズ、カラオケ、スナック、パチンコ、スマートボール(懐かしい)、
楽器屋等が所狭しとごちゃごちゃと並んでいる

この辺一帯は、第5回の内国勧業博覧会が行われ跡地を
利用して造成された歓楽地「新世界」で、その象徴として
通天閣(高さ103m)が作られたところである




詳細リンク:「大阪・ミナミ」/紀行写真集
       大阪「新世界」、「ミナミ」、「天王寺」/日本写真紀行

(大阪市浪速区恵美須東) 0609/0906

2009/05/26

余呉湖/滋賀

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JR北陸本線 余呉駅

東海道新幹線の米原でJR北陸本線に乗換え、、約30分で余呉(よご)駅に着く
昭和32年開業の新しい駅で、簡易委託駅となっている
幅広のプラットホームから余呉湖や賎ヶ岳(しずがたけ)が望める好位置にある駅だ



N71008

余呉湖方面

駅を下り、余呉湖に向かう
途中、余呉湖、賎ヶ岳
方面を見た写真である。広い田圃が印象的であった

余呉は古代、中世の郷名、荘園名である
平地は余呉川と高津川の谷底平野のあるこの辺一帯だけで
北部は山地となっており、日本最南端、かつ近畿以西唯一の
特別豪雪地帯に指定されている




N71006

余呉湖湖畔

余呉湖を挟んで対岸の山が賎ヶ岳(422m)で、
この東麓(左側)に越前に通じる北国街道が走り、戦略的にも重要地点であった
ここで、信長の跡目を巡る秀吉と勝家軍の激突したのが
賎ヶ岳の戦い(天正11年、1583年)である

生憎、賎ヶ岳の頂上は雲に隠れていた。頂上には賎ヶ岳戦跡碑が建っている
登山道も整備され、また大音の登山口からはリフトも出来ている

余呉湖には日本三大羽衣伝説の一つが伝えられている
今でも余呉湖の北岸(写真右方向)には衣掛けの柳の大木が残されている
他の羽衣伝説の多くは松の木であるが、此処だけは柳の木であった

また、最近では水上勉の「湖の琴」もこの余呉湖が舞台である
薄幸の娘栂尾さくと、松宮宇吉の切ない出会いとその結末の物語である




詳細リンク:滋賀「余呉湖」/日本写真紀行
(滋賀県伊香郡余呉町) 0710/0905

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