旧奥州街道

2009/08/03

那須町・大久保~陸奥国・境の明神峠/旧奥州街道25

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那須町・大久保集落

泉田の一里塚を出ると、左側に大久保の集落が見えてきた
手前の川は、芦野宿から続いている奈良川の上流である



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瓢石(ふくべいし)

旧街道左側の山沿いに石碑3柱

左端は大分風化して判り難いが、道祖紳の様だ
中央は「瓢石 勝五郎旧跡、初花清水従是二丁」とあり、右端が瓢箪の形をした石像だ

人形浄瑠璃
「箱根権現躄(いざり)仇討」の
主人公棚倉藩士、飯沼勝五郎が兄を滝口上野に殺され、
同じく上野を父の仇としていた初花と夫婦となった

仇を探している内に、足を病んだ勝五郎は、この地で療養した
その時に、慰みに山肌に刻んだのが瓢石(ふくべいし)とのこと
この背後の山肌に刻んだというが、判らなかった



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陸奥国国境、境の明神

目の前にかつての下野国と陸奥国の国境が見えてきた
現在では栃木県と福島県の県境である

境界の右の切通しの所に、松平定信が建てた領界石があった
「従是白川領」と刻まれている

また、「うつくしま、ふくしま、ようこそ福島県白河市」
と書かれた現在の大きな標識もあった

写真手前左は下野国(栃木県)側の境の明神である



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陸奥国側境の明神

国境を越えると、左側に陸奥国(福島県)側の境の明神がある
国境を挟んで、下野側と陸奥側に境の明神が2社並立している

由緒は不明で、文禄4年(1595年)に
当時白河を支配していた会津藩主の蒲生氏が
社殿を造営している

現存するのは、弘化元年(1844年)に建てられた小祠である
奥州、越後の諸大名や多くの商人、旅人の往来が盛んで
道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり
灯籠や碑の寄進が盛んに行われていた様だ

また、芭蕉の句碑や歌碑等も多く建立されている



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陸奥国側より見た境の明神峠

旧街道を挟んで、境の明神と反対側である
後ろを振り返って下野方面を撮影したものである

この辺に、かつては峠の茶屋「南部屋」があった
先祖は南部藩の家老であったが
金山経営に纏わる不祥事の責任を取って此処に来たと言う

切り通しの壁には大きな標識が掛かっており
「白河二所之関跡の碑」と書かれてあった

蛇足であるが、芭蕉もこの峠を越え、陸奥の国への第一歩を踏んでいる
そして、次の宿場である白坂宿から旗宿道を東に約4km程歩き
わざわざ歌枕となっている古代の白河の関跡を尋ねている

しかし7世紀半ばに設けられた白河関は
芭蕉が元禄2年(1689年)訪れた時は、廃止されて久しく、
その痕跡も判らない状態であった様だ

従って、折角訪れた芭蕉は拍子抜けしたせいか、句を残していない




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道25「那須町・大久保~陸奥国・境の明神」/街道写真紀行
(栃木県那須町大久保~福島県白河市白坂) 0905/0908

2009/07/29

那須町・脇沢~間宿・寄居/旧奥州街道24

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那須町・脇沢

前方に脇沢の集落が見えてきた

この脇沢の集落を抜けると
旧街道は現在の国道294号線(旧陸羽街道)に合流する



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間宿・寄居入口

旧街道は国道294号線(旧陸羽街道)から左の細い道となる


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間宿・寄居

寄居は間宿(あいのしゅく)であるが、下野最後の休憩所として
結構発展していたようだ

かつては、ここで下野国最後の休憩を取り
境の明神峠を越え、次の陸奥国最初の宿場白坂に向かった

しかし、現在の寄居には休憩するような店や、コンビニすら無かった
現在の旧街道歩きでは、街道筋に沢山あった店や茶屋等が
全く無く、江戸時代とは又別の気苦労がある



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旗宿道

寄居の集落を抜けると、再び国道294号線(旧陸羽街道)に合流する

写真左端にある木製の道標には、「右白河関」と書いてある
ここを右折すると、かつての旗宿(はたじゅく)道で、白河関へ行く街道である



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泉田一里塚

国道に合流して少し行くと左側に立派に整備された
日本橋より46番目の泉田の一里塚がある

那須町には夫婦石、板屋とここ泉田に一里塚が残されており
その中で、ここが最北端で下野国最後の一里塚であった

塚の上は、今は丸坊主であるが、かつては榎が植えられていた




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道24「那須町脇沢~間宿・寄居」/街道写真紀行
(栃木県那須町脇沢、寄居) 0905/0907

2009/07/26

那須町・峯岸~間宿・板屋/旧奥州街道23

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那須町・峯岸集落

芦野宿を出ると、広々とした田園地帯に出る
その一画に大きな石碑がある

「蘇る豊郷」と大きく書かれた碑だ
芦野地区圃場整備事業完成記念碑である

芭蕉か遊行柳を見ながら詠んだ句
「田一枚 植て立去ル 柳かな」の時は、一枚一枚の田は今より小さかった

碑文によると、昭和に入り従来の人馬に頼る農法から
機械化農法に移るために大規模の区画整理が行われた様だ

この辺は嘗ては黒羽藩の領地で、肥沃で良質な米の産地であった
しかし、奈良川の水不足等で時には悩まされる地域でもあったようだ
この水利も改良したと刻まれていた

写真前方は峯岸の集落だ




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べこ石の碑

街道左手に愛宕神社とべこ石の碑がある
嘉永元年(1848年)、芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠怒(ただひろ)が
撰文建立したものだ
戸村家は黒羽町須佐木の出身で、元禄年間(1688~1704年)に
芦野に移住し、酒造も行っていた様だ
元は佐竹氏の一族で、秋田移封の時、帰農し須佐木に定住した由

碑には、全文19段、約3500の文字が刻まれている
内容は、孝行の大切さと善行の勧め、堕胎の戒めと生命の尊重等を
実例や例え話を用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく説いている

嘉永元年の頃の世相を窺い知る事が出来る貴重な内容となっており
那須町の文化財に指定されている

なお、べこ石の碑とは、べこ(牛)に似た石(臥牛)では無く
自然石の両面を平に削り、文字と共に
神農(しんのう)氏と思われる牛面人身の姿が
刻まれているから、べこ石と呼ばれるようになった様だ(写真右端)

神農氏とは、民に始めて耕作することを教えた
中国の古伝説上の帝王のことだ
神農の母の女登は、人身にして牛面であったという



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間宿・板屋

奈良川を渡ると、間の宿であった板屋に入る
板屋の坂と呼ばれる、坂道沿いに開けた集落である



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諭農の碑

板屋の坂を上っていくと、街道左側に諭農(ゆのう)の碑がある
前述の「べこ石の碑」と同じく、嘉永元年に建立されたもので
戸村忠怒の農民を諭す文が彫られてある

内容は病害虫の駆除法や飢饉のための備忘法、飢人の救護法までだ

べこ石の碑や、この諭農の碑を作ったのは
中風を患っていた戸村忠怒の晩年の時であった

多くの死者を出した天保の飢饉や
大塩平八朗の乱、蛮社の獄、天保の改革
そして日本近海に通商を求める外国船が頻繁に現れ
異国船打払令が出された頃である

幕藩体制に綻びが出来、まさに内憂外患の時代背景に、
将来を憂い、碑を建てずにはいられなかったのであろう




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板屋の一里塚

板屋の集落を抜けると、街道の両側に一里塚が残されている
日本橋から44番目(約176km)の板屋の一里塚だ

現在は、切り通しになっている為、一里塚は街道より見上げる高さにある

写真は、後ろを振り返って撮ったものだ
一里塚跡は一寸判り難いが、切り通しの上にある



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蟹沢の集落

板屋の一里塚を抜けると、蟹沢の集落に入る
切通しとなっている街道の右上には新旧の馬頭観世音が4柱並んでいる

此の辺は、峠の上り口や頂上付近に馬頭観世音が多く見られる

今回は、ここで奥州街道を歩いている甲府の年配のご夫婦と出会った
若い時は横浜の小机に住んでいたという

東海道、中山道、日光道中をすでに踏破し
今は、ここ奥州道中を順番に歩いている由
今回は芦野宿から歩き始め、今夜は白河に泊まるという

今回で奥州道中を完了して、次は幕府管轄の五街道の最後である
甲州街道を歩く予定とのことであった

街道歩きで同好の氏と逢い、情報交換するのは楽しいひと時である



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高瀬の集落

蟹沢の集落を抜けると、気持ちよい街道筋となる
この辺を西行法師や芭蕉も歩いたと思うと感無量である

やがて前方に高瀬の集落が見えてきた

高瀬の集落の外れ、街道右手に高徳寺がある
資料には荒んだ古寺とあったが、本堂が真新しかった
立て直したばかりのようだ

ここで、小休憩した後に、次の間宿・寄居に向かう





詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道23「芦野町・峯岸~間宿・板屋」/街道写真紀行
(栃木県那須町峰岸、板屋、蟹沢、高瀬) 0905/0907

2009/07/20

芦野宿/旧奥州街道22

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那須町、奈良川

奈良川を渡り、左に直角に曲がると
奥州街道25番目の宿場・芦野宿である

長かった下野国の最北端の宿場で
この次は陸奥国の最初の宿場・白坂宿となる

芦野宿はこの奈良川に沿って並行して設けられている
また、此処からの奥州街道は、この奈良川沿いに遡上して
下野と陸奥の国境である境の明神峠まで続いている



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河原町地蔵尊、座り地蔵

川を渡ると左に大きな石地蔵尊がある
宿場の入口にあるお地蔵様だ

蓮華の上に腰掛、左足を前に出していることから
座り地蔵と呼ばれている

江戸時代に作られたもので、宿場の入口で、川の畔にあることから
水害水難除け、また道祖神的な役割も託したものと見られている

赤い腹掛には、「奉納 豊泉琉依」と書かれてあった
なお、芦野宿は出口のところにも大きな地蔵尊が建立されている



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25芦野宿

枡形を抜けると、芦野宿の中心街となる
中世の芦野氏の城下町で江戸時代は旗本芦野氏の知行地であった

芦野宿は下野最北の宿場で、本陣1、脇本陣1、旅籠40余の
比較的大きな宿場であった
江戸時代から大正10年代までは、この道の中央には用水堀が走り
流れに沿って松や柳等の木が植えられていた様だ

左の伊豆屋菓子店は聖天まんじゅうと茶まんじゅうが名物である
芦野宿の右側の高台に日本三聖天(しょうてん)の一つ三光寺があり
その聖天に因んだ饅頭である



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丁子屋、旧旅籠

芦野宿で、唯一残されている元旅籠である丁字屋(ちょうじや、写真右)
江戸次時代初期の創業で、今の当主は15代目とのこと

当時より鰻が名物で、今でも営業している
地元の余笹川や奈良川、黒川で獲れた鰻を用いていたが
今は、他所より仕入れているとのこと

奥には、江戸時代の蔵屋敷も健在である
江戸初期の創業で、今の当主は15代目とのことであった

左の建物は旧宝屋で、今は屋号を多可羅屋となっている



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石の美術館、本陣跡

地元の芦野石を用いた石の美術館、ストーン・プラザである
総芦野石作りの建築となっている

ここに、芦野宿・本陣があったという



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新町地蔵尊

芦野宿の出口付近で、この先で街道は直角に左に曲がっている

その角にあるのが、新町の地蔵尊だ
芦野宿には入口と出口に大きな石造地蔵尊がある

説明によると享保2年(1717年)の建立とのこと
開眼の導師は建中寺の住職であった

芦野宿の入口にあった河原町の座り地蔵と同じく
種々の災厄を芦野宿に入れない役目も担っていたようだ



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奈良川

奈良川を渡ると、旧街道は右に曲がる

左手の建物が、無料休憩所の遊行庵で2軒建っている
この裏手に、西行法師が休んだと言う遊行柳がある

ここで法師が詠んだ
「道野辺に 清水ながるゝ 柳陰 しばしとてこそ 立ち止まりつれ」
(新古今和歌集)の歌碑と、
芭蕉の「田一枚 植て立去ル 柳かな」の句碑が建っている

なお、遊行柳は室町時代に遊行上人がここで柳の精の老翁を
成仏させたという伝説があり、歌枕となったところである

下野国最後の宿場である芦野宿を後にして
国境を越え、次の宿場は陸奥国の白坂となる




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道22「25芦野宿~奈良川」/街道写真紀行
(栃木県那須町芦野) 0905/0907

2009/07/09

那須町・夫婦石~西坂/旧奥州街道21

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那須町・夫婦石

黒川より坂道を登ると目の前が開けて来た
谷戸となっているところだ

この辺で標高は280mである

道の右端(写真中央)に、夫婦石神社の道標があった
江戸時代はこの辺一帯は夫婦石村と呼ばれていたところだ




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夫婦石神社

田圃の畦道を辿って夫婦石神社に行く

神社由来によると
「今から数百年前、戦国の世に1組の男女あり
敵に追われ、この地に逃げ来り
あたりは一面の芦の茂みにて身を隠す処無く
ふと見ると、其の中に大きな石があり
男は女を抱えて此の巨岩の割れ目に身を隠した

その時、追手は此の石のそばに来た
すると白蛇が2匹現れ巨大な石がゆれ動くのを見て
恐れおののき逃げ帰った」とのこと

二人は、このお石様のおかげで命を救われ
この地に住みつき、二人仲良く田畑を耕して暮らしたと言う

そして何時の頃からか、この石をご神体・夫婦石として祀り
縁結びの夫婦石神社となったとか




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夫婦石一里塚

さらに、森閑とした坂を上ると両側に一里塚が見えてきた

日本橋より43里(172km)目の一里塚である



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西坂

峠を上り詰めると、視界が開けてきた
西坂地区である

地形的に芦野宿の西側にある坂という意味の地区であろう
ここから、次の宿場である芦野宿までは長い下り坂となっている



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芦野宿、御殿山

正面に芦野宿が見えてきた
この交差点の先が奥州街道25番目の宿場・芦野である

正面の山は芦野城跡、今は御殿山と呼ばれている
芦野城は、天文年間(1532~55年)、若しくは天正18年(1590年)に
那須氏一族の芦野氏によって築かれた城と伝えられている

江戸時代は旗本芦野氏3000石の陣屋であった
芦野宿はこの山裾に沿って出来ている




詳細は下記をご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道20「那須町夫婦坂~西坂」/街道写真紀行
(栃木県那須町夫婦石、西坂) 0905/0907

2009/07/05

那須塩原・石田坂~那須町・黒川/旧奥州街道20

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那須塩原・石田坂

余笹川の寺子橋を渡ると石田坂の集落となる

ここの電柱に、平成10年8月の増水時の水位が赤い線で表示されてあった
やや地形が高くなっているここで、此の高さであるから
左前方の家々は完全に水没であった



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芭蕉温泉、豊岡ランド

豊岡の集落の外れに「芭蕉温泉ランド入口」の大きな看板
ここを右折すると、豊岡芭蕉温泉ランドがある

温泉権付き別荘地で、全800区画と大型の別荘地となっている
また、温泉付き貸し別荘もあるようだ

なお、芭蕉温泉は国内では珍しいアルカリ単純泉で
肌がつるつるすることから美人の湯と呼ばれている



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那須町、那須塩原市境

豊岡から坂を上りきったところが、那須町と那須塩原市の境界となっている

山沿いにある大きな看板には
「ようこそ 芦野の里へ
歴史と奥の細道のまち

おくの細道 遊行柳
芦野城跡 御殿山
日本三大聖天 芦野聖天

那須町商工会芦野支部、那須町商工会」
と記されてあった

那須町は那須高原を占める町だ
昭和29年、芦野町と伊王野、那須の2村が合併して出来た町である

北西部に那須岳が聳え、大部分が山地となっている
南流する余笹川沿いに平地があり、米作と野菜と酪農の町となっている

なお、伊王野は古代の東山道の駅のあったところで
芦野は近世の奥州道中の宿場であった



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那須町・黒川集落

だらだら坂を下ると、前方に黒川の集落が見えてきた
那須町に入って最初の集落である

黒川の傍にある村で、かつては黒川端村と言われ
戸数が4戸の寺子村の枝村であった

この黒川端の中を奥州街道が通っており
旅人を山乗駕籠に乗せて川を渡す川越場があった
川が増水して川留めがあった時に泊まれる家もあったと言う

旧街道は、この先の黒川の土手で消滅している



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黒川

黒川の土手に出て、上流側に行き、黒川橋を渡る
写真は、黒川橋を渡り坂を登った途中より
黒川と黒川の集落を俯瞰したものだ

土手に階段のあるところが、旧街道の道筋で、昔の川越場のあったところだ
写真右手が現在の黒川橋である


黒川は那須岳(1915m)と赤面山(1701m)に源を発し
那須町沼の井で余笹川に合流している川だ

平成10年の洪水で、余笹川と共に、ここも大きな被害を受けたところである
現在は災害復旧工事が行われ、その後水害は起きていないとのことであった




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:奥州街道20「那須塩原・石田坂~那須町黒川」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市、那須町) 0905/0907

2009/06/29

富士見峠~間宿・寺子~余笹川/旧奥州街道19

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那須塩原・富士見峠

黒磯から25分で前回乗車したバス停「杉渡土(すぎわたど)」に到着する
前回中断した旧奥州街道に復帰である

ここから緩い坂道を登り、富士見峠(286m)越えである
次の宿場、芦野までは23坂7曲がりと呼ばれるしんどい道中となる



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寺子一里塚公園

富士見峠を下る途中の寺子十文字の右手前に
寺子一里塚公園が出来ている

元は50m程白河よりにあった、江戸より42番目の一里塚を
小学校建築と、道路拡張の為此処に移築した様だ

そして一里塚公園として整備され、まさに街道のオアシスとなっている



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間宿・寺子

寺子の集落である
旧奥州街道の間(あい)の宿であった

集落内にある會三寺(えさんじ)は、はしか地蔵で知られた所である

會三寺14代法印旺盛の頃、はしかが流行り幼児が沢山亡くなったので
これを憐れんだ法印が111体の地蔵を彫り、菩提を弔ったとのこと

境内にこの地蔵を納めた「はしか地蔵堂」がある



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余笹川・下流側

寺子の集落を出ると余笹(よささ)川に出る

平成10年8月の氾濫でこの左手にあった橋が流され、死者を伴う大きな被害が出たという
川の畔に、翌平成11年に天皇・皇后陛下が災害見舞いで
行幸行啓されたとの記念碑がある

この時の水害は大規模で、この余笹川や黒川、四ツ川、三蔵川が氾濫し
栃木県北部の那須町、那須塩原市で道路や通信が寸断され
死者・行方不明者は6名も出た

写真は、余笹川の下流側を見たもので
茨城県と福島県境にある八溝山(1022m)が見えた



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寺子旧街道、寺子地蔵

旧街道筋には石仏や地蔵尊が残されている

2枚目の写真は旧街道沿いにある寺子地蔵尊だ
お堂の横には新しい願い文が建てられている

「お地蔵さま 絶えない苦悩と切ない願いを聴いて下さい
悠々の余笹川の流れのままに生きぬく勇気を与えて下さい
良き縁を結んで下さい
可愛い子供を授けて下さい
そして幼な児と老いたる身を守って下さい
あなたにすべてを委縋して今日も臆することなく生きていきます
赤沼・石田坂・寺子講中」

と、記されてあった
委縋とは委ね、縋る(すがる)のことであろう



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余沢川上流

余笹川の上流側である
この辺がかつて渡河地であったようだ

遠く那須連山が見える景色の良い所である
源流は那須連山の旭日岳(1896m)で
那須町と大田原市の境で那珂川に合流している

天保年間(1830~44年)の余笹川は、川幅16間
増水時では倍近い30間もあったという
今は、穏やかな流れであるが、今も昔も相当の暴れ川であった様だ

なお、江戸時代には橋が掛けられたこともあったが
すぐ流されたので、徒歩や人の肩、輦台(れんだい)で渡ったとのこと

今回はここで旧道を戻り、新しい寺子橋を渡って対岸の石田坂集落に入る




上記は抜粋(ダイジェスト)です。詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道19「富士見峠~間宿・寺子~余笹川」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市寺子) 0905/0906

2009/06/21

那須塩原・那珂川~24越堀宿/旧奥州街道18

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那珂川・昭明橋

鍋掛宿の枡形を抜けると、那珂川河畔である

かつては徒歩渡しであったが、今は立派な橋・昭明橋が出来ている
昭和の新しい時代を明るくと願いを込めてのネーミングとか

橋の袂に、大きな昭明橋架橋記念碑があり
昭和46年竣工と刻まれてあった

この橋を渡り、左折すると旧奥州街道24番目の宿場・越掘(こえぼり)宿である
天領の鍋掛から黒羽藩の領地と変わる

橋を渡り右折すると、かつては関街道と呼ばれた道で
伊王野経由、古代の白河関に通じる道である
現在の県道60号線(黒磯棚倉線)だ

なお伊王野は古代東山道の黒川駅があったところと比定されている




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那珂川上流側

那珂川に架かる昭明橋より上流を見た写真である
那須連山が見えるところだ

那珂川は関東第3の大河で、関東随一の清流として知られている
特に鮭の遡上する河川として知られ、獲れた鮭は
江戸時代には水戸藩への献上品であった
また、秋には鮎が遡上し、鮎の友釣りが盛んである

那珂川の源流は那須岳で、茨城県の水戸を通り
ひたちなか市と大洗町との境で太平洋に注いでいる川である



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24越堀宿町並み

越堀宿の町並みである

寛永12年(1635年)、江戸に向かう仙台藩の行列が那珂川の増水の為
ここで、仮小屋を作り逗留したのが始まりで、後の宿場成立に繫がった

鍋掛宿より遅い正保3年(1646年)に正式の宿場となった
本陣1、脇本陣1、旅籠11、総戸数113軒の宿場であった

しかし、明治になって大火があり、宿場の面影は残されていない

街道左側の小食堂を営んでいる藤田家が
問屋を兼ねた元本陣とのことであったが判らなかった



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黒羽領境界石

浄泉寺境内のお堂の前に、黒羽領境界石がある(写真左)

黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにする為
文化10~11年(1813~14年)に境界石を造り、建てたものだ

丁度、増業が大坂城勤務の時であったので、大坂で作らせ船で運んだ由

この標柱には「従此川中東黒羽領」と刻まれてあり
背面には「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」とある

もともとは那珂川の左岸、越堀宿の入口にあったが
大正7~8年に保存の為、ここ浄泉寺の境内に移されたとのこと
那須塩原市の指定文化財となっている

大木の右側は明治天皇御駐輦の碑である



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越堀宿出口枡形の地

越堀公民館前にある石碑
「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」と彫られてあった
越堀自治公民館建設記念として、この石碑が建てられたようだ

下写真が越堀宿の出口付近である
この先、道は右に大きくカーブしている

今回は、この先のバス停「杉渡土」で、街道歩きを中断して
15:54発のバスで黒磯駅に向かった(30分、200円)

那須塩原地域バス「ゆーバス鍋掛線」で
一日4本(平日は7本)の貴重なバスである




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JR東北本線・黒磯駅

黒磯駅を境に北側は交流電化で
南側(宇都宮側)は直流電化区間となっている
このため、東北本線の運転系統がこの駅で分断されている

上野から続いている「宇都宮線」の愛称もこの駅までとなっている

黒磯発16:35の快速上野行で、帰宅した




詳細リンク:旧奥州街道18「那須塩原・那珂川~24越堀宿」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市鍋掛、越堀、本町) 0904/0906

2009/06/18

那須塩原・23鍋掛宿/旧奥州街道17

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那須塩原・鍋掛十文字

旧奥州街道23番目の宿場、鍋掛宿の入口である

この交差点を鍋掛十文字と言う
この辺は十文字と言う例が多いようだ

旧奥州街道沿いにも練貫十文字、寺子十文字等がある



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清川地蔵尊

鍋掛十文字を渡り、左の坂の上に清川地蔵尊がある

延宝7(1679年)に建立されたもので
子育て地蔵として、近辺の女性に信仰されている

毎年4月24日の祭礼には地元の女性が集まり
清川地蔵だけに唱える念仏が行われる様だ



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鍋掛宿、町並み

往時の面影は無いが、歩道と車道の境が
ガードレールでは無く、馬つなぎ石の様な石が並んでいた

この辺の左側に、かつては本陣があったというが遺構は無かった
本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸であった様だ

鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり
川留めの時など、大いに賑わったという
那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインで、ここ鍋掛は天領であった


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賀茂神社

加茂神社境内左に芭蕉句碑があった

文化5年(1808)年に地元の俳人菊地某他数名によって建てられたもので
「野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす ばせを」
と刻まれていた

那須塩原の野間辺りで詠まれたものであろうか

昔の那須野の狩を思い起こし、武将になったつもりで
いばって命令してみようかという心境を詠んだ句の様だ



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鍋掛宿出口、枡形

鍋掛宿の出口付近の枡形である
旧街道は右側で、この先で枡形になっている

左側は那珂川に架かるアーチ型の昭明橋への道である

江戸時代初期、那珂川は徒歩渡りで
水が多いときだけ船渡しであった
江戸時代後期になると、舟橋や土橋となっていた様だ




詳細リンク:奥州街道17「23鍋掛宿」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市鍋掛) 0904/0906

2009/06/15

那須塩原・野間~鍋掛十文字/旧奥州街道16

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野間・旧奥州街道、那須連山

那須塩原市(旧黒磯)野間(のま)に入る
如何にも高原を歩いているような感じとなる

野間は、芭蕉が黒羽の余瀬から那須へ向かう途中
借りて乗ってきた馬を返したところの様だ

芭蕉に同行した曽良の日記に
「馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス」と記されている

そして、ここから那須の高久へ向かっている
暫くは、芭蕉の歩いた道を歩くことになる

奥の細道によれば、当時は野原の中を真っ直ぐな道が縦横に走っていたようだ
今でも、辺りは広々としており、実に爽やかな道であった

左手には姿の良い那須連山が良く見えるところであった
中央のピークが茶臼岳(1915m)である



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大野牧場

右手に大野牧場
この先には、競走馬の生産で知られたなべかけ牧場等がある

この辺は、古代の大野郷、大野室で、大野一族の支配地であった
その後、羽田領野間村となった経緯がある

大野牧場は、所縁の人の経営であろうか



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八溝山

右手に八溝山(やみぞさん、1022m)が見えた

八溝山は茨城県と福島県の県境にある山で
茨城県の最高峰である

奥州街道を歩いていて始めて見えた



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愛宕峠、鍋掛一里塚

愛宕峠の切り通しの中腹に鍋掛一里塚がある

江戸より41番目の一里塚である
一里塚は、道路拡張で少し移動(西へ11m)されたようだ

道の幅を広げた為、掘り下げられ
元の街道よりは低い道路となっている



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鍋掛十文字

鍋掛十文字である
ここが奥州街道23番目の宿場・鍋掛宿の入口となっている

この十文字(交差点)を左折すると、JR黒磯駅である
距離で、4.9kmである




詳細リンク:旧奥州街道16「那須塩原・野間~鍋掛十文字」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市、野間、鍋掛) 0904、0906

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