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2014年10月

2014/10/29

映画「ふしぎな岬の物語」

平成26年10月
横浜ムービル




タイトル キャスト コメント
ふしぎな岬の物語
        
     2014年 
        日 本
         
     監督
        成島 出


 吉永 小百合

 阿部 寛

 笑福亭 鶴瓶

 竹内 結子

 笹野 高史

 米倉 斉加年


       


  
海と花畑に囲まれた岬の突端にあるカフェの女性店主がいれるコーヒーを目当てに集まってくる人々との交流・・・
  店の隣に住む甥は、何でも屋をやりながら、そんな店主を見守っている・・・
  仄々とした味が出ております。千葉県明鐘岬(みょうがねみさき、富津市と碧南町境)を中心にしたロケもいいですね。

詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2014/10/27

青森市・104油川宿/旧奥州街道681

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油川・浄満寺

 

旧奥州街道104番目の宿場・油川宿入口付近に集められている
寺社の最後が、この浄満寺である。

一番油川宿中心部に近いにところにあり、
津軽半島で最古の寺と言われている。

寺宝の円空作木彫釈迦牟尼如来坐像は青森市文化財に指定されている。
戦国時代の油川城主・奥瀬氏の菩提寺であった。

豪族奥瀬氏は、南部氏配下で、ここを拠点に外ヶ浜を治めていたが、
天正13年(1585年)、津軽為信(大浦為信)に追われて南部に去った。

浄満寺境内には、青森湊を開いた森山弥七郎の供養塔や、
本堂裏に天明3年(1783年)の飢饉で餓死した人々を
埋葬した千人塚がある。

天明の飢饉では、津軽藩全体で約8万2千人が餓死したといわれ、
油川とその隣の後潟地区と合わせ、
全住民1万8600余人の3分の2が死亡したという。




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天田内川、大浜橋

 

天田内川(あまだないがわ)に架かる大浜橋を渡る。

手元の地図では小浜橋となっているが、
橋の欄干には大浜橋と刻まれてあった。

油川は、以前は大浜と呼ばれ、
この辺の字名は今でも大浜となっている。
かつての油川宿の中心部であったようだ。

前述の浄満寺付近に、油川代官所があった。

また、享和2年(1802年)、沿岸測量でこの地を通った伊能忠敬は、
浄満寺近くの近江屋・平井津兵衛宅に2泊したという。

 

天田内川は、
青森市西郡の魔ノ岳(まのだけ、474m)を源流とする川で、
ここ油川で陸奥湾に流入している。

天田内川べりに、菊谷栄文学碑がある。

「菊屋栄文学碑
    春の日暮れるまで 花の散るまで 日傘も二人 唄もふたりで」

と刻まれてあった。

菊谷栄は、明治35年東津軽郡油川村生まれで、
油川小学校を経て、青森中学校を卒業。
画家を目指して上京し、日本大学文学芸術学科を卒業。

エノケンこと榎本健一と知り合い、一座の舞台美術担当として活躍。
後、組織替えしたプペ・ダンサントの文芸部から菊田一夫が去り、
菊谷が脚本を担当するようになった。

エノケン劇団在籍7年間で、軽妙なタッチで、
風刺性のある傑作80編の音楽劇とショーを書き上げ、
日本を代表するレビュー作家として活躍した。

応召され、昭和12年華北戦線で戦死。
菊谷の霊は、明誓寺に眠っている。




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油川宿・西田酒造店

 

街道右側に、銘酒「田酒」、「喜久泉」で知られた西田酒造店。
明治11年創業の、青森市唯一の酒蔵である。

西田家は、油川後潟両組の大庄屋で、もともとは近江商人で、
北前船が上方から運んでくる綿や呉服などを商っていた。

油川は羽州街道との合流点でもあり、
弘前から青森への道筋であったため、豪商たちが.屋敷を構え、
北前船の船乗りたちのための船宿や飲食の店があった。

明和2年(1765年)の油川には、造り酒屋が11軒もあったという。





詳細リンク:旧奥州街道681「青森市・104油川宿」/街道写真紀行
(青森市 油川・大浜)   1206/1410

2014/10/20

青森市油川・柳川~浪返/旧奥州街道680

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油川・柳川、イタリア館

 

青森市油川の柳川地区に入る。
バス停の名前が「油川下町」となっていた。

旧油川村で、油川宿のあったところだ。

油川の地名の由来は、鶴の子が野火に襲われ、
それを助けようとした鶴の親が共に焼け死んで、
その鳥の油が流れだしたことによるとの伝承があるようだ。

街道左側には、むつみ窯元がある。
青森県出身の女流陶芸家三浦幸美氏の工房と展示室である。

むつみ窯の特徴は、ほんのりピンク色のリンゴ釉と、
貝の粉で作ったほたて釉を使用した陶器とか。

今では青森名産となっている。
ここで、体験陶芸教室も開かれているとのことであった。

 

そして、街道右手にあるイタリア館。
赤レンガの洋館であるが白く塗装されている。

大正17年、イタリア人ジュセップ・ファブリーが、
陸奥湾のイワシが良質とのことで、
ここに大規模な缶詰工場を建設した。

会社名はフランコ・イタリアン会社であった。
写真は、その時の工場事務所兼住宅として使われていた建物であろ。




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油川・明誓寺

 

青森市油川字浪返(なみがえし)に入ると左側に貴船神社がある。
創建は天和3年(1683年)とのことだ。
祭神は高おかみ神、綿津見神で、水や海に関わる神だ。

油川は、羽州街道と合流する交通の要衝であり、
青森港が開かれる前は、外ヶ浜第一の港であった

 

貴船神社に並ぶようにある浄土真宗の明誓寺(上写真)。
尼僧・妙誓の庵があったところが前身とか。

この本堂は、1827年のもので、青森市最古の建造物とのこと。

この寺の境内には、イタリア館を建てたファブリーの墓がある。
台座の上に直径1メートルくらいの半球の形をしたものが据えられ、
その上に十字架が建っている。

この半球の形は、缶詰工場の蒸し釜を模ったものとか。




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油川神明宮

 

続いて、左側にある油川神明宮。
この辺は、油川宿の入口付近で、寺社が集中して建てられている。

油川神明宮は、安政2年(1855年)の記録には、
嘉永年間(1624~1645年)に再建されたと記されている由。
創建は、不詳のようだ。

油川神明宮の境内には猿田彦大神の石像と、
その両隣には猿が浮刻された石像が建立されている。

猿田彦大神は、ものごとの最初に出現、
万事最も善い方へ導いてくれる神だ。

土地開発、家業繁栄、開運、交通祈願等の神として祀られたのであろう。





詳細リンク:旧奥州街道680「青森市油川・柳川~浪返」/街道写真紀行
(青森市 油川・千刈 柳川 浪返)   1206/1410

2014/10/19

映画「蜩ノ記」

平成26年10月
横浜ムービル




タイトル キャスト コメント

蜩ノ記
        
   2014年 
    日本
         

.  監督
     小泉 堯史

 

 役所 広治

  岡田 准一

  原田 美枝子

  堀北 真希

  寺島 しのぶ


  
      

  
7年前に前例のない事件で、蟄居を命じられ、藩の歴史をまとめる家譜の編纂を命じられていた。そして3年後には切腹を命じられていた。
    決められた切腹までの監視役を命じられた若侍は、切腹を命じられた一家と共に暮らすうちに、事件の真相を知り・・・
  蟄居生活を送る武家一家と監視役の青年との交流がなかなかいいですね。良く練られた脚本で最後まで緊張感が保たれております。

詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2014/10/15

青森市・沖館~新城川/旧奥州街道679

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青森港、フェリー埠頭入口.

 

青森市沖館地区に入る。
次の信号を右に入ると、青森港である。

旧街道は直進で、標識には竜飛、蓬田と書いてあるところだ。

青森港は、陸奥湾の最奥部に位置する、波浪の少ない天然の良港だ。

江戸時代初期の寛永元年(1624年)、
弘前藩2代藩主津軽信政により、開港奉行に任じられた森山信実が、
当時外ヶ浜の一漁村であった善知鳥村に港が開かれた。

その後、江戸時代を通じて藩の商港として栄えた。

明治後期以降は、青函連絡船の就航により、
本州と北海道を結ぶ港となった。
青函連絡船の運航終了後も、
北海道と本州を結ぶフェリーの発着地となっている。




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新城川下流、新井田橋

 

新井田橋の上から、新城川下流(河口側)を見た写真である。

この新城川が旧新城村と旧油川村の境界となっている。

新城川(しんじょうがわ)は、大釈迦(だいしゃか)丘陵を源流として、
鶴ケ坂、新城をJR奥羽本線に沿って貫流して、
ここで陸奥湾(青森湾)に流入している。




105aburakwa11s 薬師如来像と地蔵堂

 

新城川の新井田橋を渡ると、青森市油川に入る。
油川は大字名で、旧奥州街道104番目の宿場油川のあったところだ。

油川入口付近右側に薬師瑠璃如来石像があり、
その奥には地蔵堂がある。

この背後には共同墓地があり、
如来像の左側は、青い鳥保育園となっている。





詳細リンク:旧奥州街道679「青森市・沖館~新城川」/街道写真紀行
(青森市 沖館 新田 油川)   1206/1410

2014/10/12

映画「柘榴坂の仇討」

平成26年10月
横浜ブルグ13


タイトル キャスト コメント
柘榴坂の仇討
        
    2014年 
        日本
         
    監督
      若松 節朗


 中井 貴一

  阿部 寛

  広末 涼子

  高嶋 政宏

  中村 吉右衛門


        


  安政7年、主君である井伊直弼の近習として仕えていたが、登城途中の桜田門外で、主君が暗殺されてしまう。
  責任から切腹をしようとしたが認められず、暗殺犯の仇討の密命を受ける。
  仇を探し続け13年が経過した明治6年、政府の仇討禁止令がでるなか、やっと最後の仇を捜しだす・・・
  主君の仇討を命じられた武士の不器用な生きざまを通し、幕末から明治へと時代が激変する中、武士として、人としての誇りと覚悟を持って生きる侍たちの姿を感動的に描いている。




詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2014/10/10

青森市・柳川~沖館川/旧奥州街道678

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青森森林博物館

 

旧街道右側に、一際目立つ建物の青森市の森林博物館。

青森県産ヒバ材を利用し、明治41年に建てられた
ルネサンス式木造建物の青森営林局庁舎を利用したものだ。

なお、青森ヒバは、日本三大美林の一つとされている。

昭和53年市制施行80周年事業の一つとして、
青森営林局庁舎が新築されるのを機会に、
この旧庁舎を転用して、昭和54年に森林博物館として開館した。

自然・森林と人間生活の関わりあいや、
緑化・林業知識の普及を図るための
全国初の森と木を考える博物館となっている。




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沖館川下流

 

沖館橋より沖館川下流を見た写真だ。
右側の建物は、青森森林博物館である。

沖館川は、青森空港北部の青森市岩渡付近の丘陵地を源流とする川で、
青森市柳川と沖館の境界から青森湾(陸奥湾)に流入している。

 

この川の上流には縄文時代の集落跡が発見され、
三内丸山遺跡として残されている。




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沖館稲荷社

 

沖館川に架かる沖館橋を渡ると、左側に沖館稲荷社がある。

正規町天皇の御代に、藤原家の子孫が陸奥国平定の命を受けたとき、
上方より背負い来た御神体を、沖館村と古川町の産土神として
祀ったのが始まりとのことだ。

主祭神は、命の根、イネの精霊である「倉稲魂命」、
父神「須佐之男命」、母神「太市姫命」とのこと。

境内には、二宮金次郎の石像と、
津軽生まれの太宰治「走れメロス」の一文を
太宰治の長女である園子が直筆した石碑が建っている。





詳細リンク:旧奥州街道678「青森市・柳川~沖館川」/街道写真紀行
(青森市 柳川 篠田 沖館)   1206/1410

2014/10/06

映画「るろうに剣心/伝説の最期編」

平成26年9月
横浜ムービル




タイトル キャスト コメント
るろうに剣心/伝説の最期編

  2014年 
         日本
         
  監督
   大友 啓史


 


 佐藤 健

  武井 咲

  伊勢谷 友介

  蒼井 優

  福山 雅治

  小澤 征悦

  藤原 竜也

        
 

 
海を漂流して流れ着いたところを、剣術の師匠に助けられた剣心は、今は陶器作りに励む師匠より剣の奥義の教えを乞う。
  そして、激動の明治初期、日本転覆を企む一派と壮絶な死闘に挑む・・・
  後半の個々のアクション・シーンは見応えがあるが、だらだらとしたアクションの連続は一寸うざい。
  娯楽大作とはなっているが。


詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2014/10/05

青森市・青森駅前~篠田/旧奥州街道677

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青森駅前

 

旧奥州街道は、青森駅に遮られているので、
左(南側)に大きく迂回して跨線橋を渡ることになる。

写真は青森駅の東口正面前だ。
朝の8:00で、未だ人通りは少なかった。

駅前の店(写真左端)の大きな看板には、
「特選ねぶた漬/ヤマモト食品」と書かれてあった。

旧奥州街道の102番目の宿場・野内宿の入口にあった
ヤマモト食品(株)本社(青森市野内字浦島)の前を歩いてきたので、
何となく懐かしかった。

ねぶた漬は数の子のしょうゆ漬けのことである。
その下には「お年をとれば鬼も福」、
「今日もいいことがある」と大きく書かれてあった。




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青森駅跨線橋

青森駅の東口の前を進むと、右側に大きな跨線橋があった。
ここを渡って、駅の反対側(西口)に回り、旧奥州街道復帰となる。




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青森駅操車場

青森駅の跨線橋より右側(北側)を見た写真である。

この右先、青森ベイブリッジの支柱の先には
かつての青函連絡船の八甲田丸が見える。

今は撤去されているが、
青森駅と青函連絡船の乗り場が長いホームで繋がっていた。

そして、手前の操車場は、青函連絡船が現役のころの名残だ。

青函連絡船は、荷物を積んだ貨車をそのまま運んだため、
ここで貨車の入れ替え作業を行っていた。


青森駅の南側にある跨線橋を渡り、西口に出て、
再び旧奥州街道に復帰する。
地元の人たちが、外浜道、松前道と呼んでいるところだ。




詳細リンク:旧奥州街道677「青森市・青森駅前~篠田」/街道写真紀行
(青森市 柳川 篠田)  1206/1410

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