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2014年4月

2014/04/30

平内町狩場沢・白畑~檜沢/旧奥州街道635

101hiranai06s  狩場沢小学校記念碑

街道左側にある旧狩場沢小学校の創立は百周年記念碑。
      
 「松緑こき四つの森 遠き昔を忍びつつ 
  明るく清くたくましく
  新しき世に夢のせ われら学ばん 
  
  碑文佐々木光清、平内町町長舟橋茂書」

と刻まれてあった。

「四つの森」は南部・津軽藩境塚のことだ。
百年も続いた小学校が、時代の流れで東小学校に統合され、
閉校となってしまったのは寂しい。




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狩場沢駅


狩場沢駅は、平内町狩場沢字檜沢にある駅だ。
東京より701.1km、明治27年開業の古い駅である。
      
平成22年に東北新幹線開業に伴い、
JR東日本より青い森鉄道に移管されている。
   

 

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国道4号線、檜沢


街道に復帰し、暫く進むと右側に木村ほたて直売と書かれた店がある。
      
平内町は、夏泊半島に位置する町で、
白鳥飛来地である浅虫海岸や、夜越山スキー場等でも知られているが、
ホタテ養殖発祥の地でもある。
      
なお、平内町の地名は、アイヌ語の「ピラナイ」からで、
ピラは崖、ナイは川を意味しているとか。
      


詳細リンク:旧奥州街道635「平内町狩場沢・白畑~檜沢」/街道写真紀行
(平内町狩場沢 白畑 檜沢) 1206/1404

2014/04/29

映画「リベンジ・マッチ」

平成26年4月
新宿ピカデリー



                                                             
タイトル キャスト コメント
    レベンジ・
       マッチ

      
    2013年 
          アメリカ
      
   
監督
      ピーター・
         シーガル
      
      
     ロバート・
         デ・ニーロ
      
     シルヴェスター・
         スタローン
      
     ケヴィン・
         ハート
      
     キム・
         ベイシンガー
      
        

     1980年代初頭ピッツバーグ。互いに対抗心をむき出しにし、チャンピオンを目指して連戦連勝を重ねてきた二人のボクサーがついに決勝戦を迎えることになったが、試合前夜に片方が引退表明をしてしまう。
     多くの謎を残した上に、決着もつかないまま30年が経過し、ついに雌雄を決するファイナルマッチをすることになる。
     これは、いい映画ですね。最後まで楽しめます。

      
      




詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2014/04/25

平内町境~狩場沢/旧奥州街道634

100noheji53

平内町境

津軽藩境塚より国道に復帰し、
国道上の平内町境まで戻って撮影した写真。
丁度、ここが東京日本橋より700km地点であった。

南部藩津軽藩の藩境塚(はんきょうづか)が、高台ではなく、
崖下の海岸ベリに作られた理由がわかるところだ。

藩の境界を流れる二本又川(境の川)が谷川となっており、
橋を掛けない限り津軽藩から南部藩に行けない地形となっている。




101hiranai01

狩場沢、旧奥州街道

国道4号線から左側にある狩場沢の旧道に入る。

この辺は、台地の高いところであるためか、
「てんじょう」とも呼ばれていたようだ。

この坂の手前上り口に、津軽黒石藩の狩場沢番所があったようだ。

街道右側に、立派な祠の中に2体の地蔵尊が祀ってあった。

津軽に入ると、祠に入った一対の地蔵尊が村の入口にあり、
どれも綺麗な着物を着ている。

ここの地蔵尊も、真っ赤な着物を着ていた。
2体の地蔵尊は、道祖神と同じ役目を担っているのであろうか。




101hiranai05

旧狩場沢小学校前

部分的に残されていた旧道より、国道4号線に入る。
左側は、狩場沢小学校跡だ。

黒光りの石碑が建っており(写真左部)、
「平内町立狩場沢小学校創立百周年記念」と刻まれてあった。

百年も続いた小学校が、時代の流れで東小学校に統合され、
閉校となってしまった。



詳細リンク:旧奥州街道634「平内町境~狩場沢」/街道写真紀行
(平内町狩場沢 関口 堤ヶ沢 白畑) 1206/1404

2014/04/17

野辺地町~平内町境/旧奥州街道633

100noheji47s  馬門番所、高札


馬門番所に掲げられた高札で、
特産品を他領へ持ち出すことが禁じられていた。

なお、実際の馬門番所はこの場所では無く、南東1kmのところにあった。

高札に書かれてあった内容は、

----------

 覚 
  
武具類くろがね類
紅花紫根黄連
蝋染油
錦麻からむし
箔椀同木地
銅鉛硫黄塩硝酸皮之類
男女 牛馬

右之通無手形他領へ出候事
堅ク被停止事若脇道通過者
於有之八可捕上
為御褒美其持料可枝下候者也


宝暦六年

 織笠弾正
 桂 和泉
 東 中務
 北 民部
----------




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津軽藩、南部藩境塚

馬門番所の横から急な崖を下ると、
海岸べりにある南部津軽藩境塚(はんきょうづか)が見えてきた。

江戸期の旧街道は、高台にある馬門番所から急な坂道を下って、
海辺にある藩境塚より津軽領に入ったようだ。

古墳のように土で盛った大きなもので、南部藩側に2基、
そして対抗するように、津軽藩側にも2基作られている。

写真手前の小さな川(二本又川、境の川とも)を渡ると、
津軽藩の藩境塚が二基並んで作られている。

川を挟んで、「従是東南盛岡領」、
「従是西北津軽本次郎領分」と書かれた木製の標識が2つ建っていた。

直径、底面にて約10m、
高さ3.5mの藩境塚(はんきょうづか、通称四ッ森)は、
青森県の指定史跡となっている。




100noheji51s   菅江真澄歌碑


藩境塚から狩場沢の坂を上っていくと、右側に菅江真澄の歌碑が建っていた。

  「あら波のよるきしこぼれさしながら にでらで花のかけやうつさん」

と刻まれてある。

菅江真澄は、
宝暦4年(1754年)三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)生まれの
旅行家、博物学者、そして民俗学の先駆者だ。

信濃、東北、蝦夷地を遊歴し、
その紀行を「真澄遊覧記」として残している。

真澄は1797年、弘前で開設されたばかりの藩校稽古館で、
薬事係りに任命された。
真澄の本草学の知識を利用し、
弘前藩の薬草の自給自足を図る為であった。

しかし、2年後には盛岡藩の間者と疑われ解任されている。
その間に「岩城山物語」、「善知鳥物語」、「浪岡物語」等を著している。

弘前藩を追放された後は、秋田で30年間過ごしたようだ。





詳細リンク:旧奥州街道633「野辺地町~平内町境」/街道写真紀行
(野辺地町 柴崎、 平内町 狩場沢) 1206/1404

2014/04/16

映画「神様のカルテ2」

平成26年4月
横浜ムービル



タイトル キャスト コメント
神様のカルテ2

 2014年 
      日本


 監督
  深川 栄洋
 
 櫻井 翔

 宮崎 おおい

 藤原 竜也

 要 潤

 池脇 千鶴

 柄本 明
  大学時代の同期でエリート医師が、地方病院に赴任してきた。だが、彼は勤務時間が終了すると直ぐ帰宅し、時間外の呼び出しにも全く応じない医師としての態度が理解できなかった・・・
  それぞれの事情を抱えた3組の夫婦の葛藤を真摯に描いている。




詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2014/04/14

野辺地町・馬門~柴崎/旧奥州街道632

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馬門交差点、国道4号線合流点

馬門地区は、江戸時代は馬門村で、明治22年の町村制の施行により、
野辺地村、馬門村、有戸村が合併して野辺地村が発足。

そして、明治30年に町制施行している。

旧街道を進むと、ここで国道4号線に吸収される。

写真は、旧道と国道4号線が合流する馬門交差点を
振り返って撮影したもので、左側の道が旧街道である。




100noheji45

平内町境

野辺地町のはずれ柴崎に入る。
正面の標識は平内村と書かれてあり、ここが野辺地町と平内町との境界だ。

その境界の手前右側(写真右端)に、高札場と馬門番所が再現されていた。

東京・日本橋から699.9kmのポストである。
あと100mで丁度700kmの地点である。




100noheji46

馬門御番所、高札場

街道右側に再現されている馬門御番所と高札である。

もっともこの建物は実際の御番所とは異なり、
番所風トイレとなっていた。

馬門番所は南部藩が津軽藩の藩境に設けた施設だ。

復元された高札には、手形がないと武具や火薬、人、染料、
蝋などは持ち出すことを堅く禁じる旨の覚書きが記されてあった。

津軽藩に入るには、馬門番所で許可を得てから坂の下に降り、
南部津軽藩境塚(はんきょうつか)を越えて
むつ湾沿いに伸びていた奥州街道を通り、
津軽領の狩場沢番所でさらに許可を得なければならなかった。





詳細リンク:旧奥州街道632「野辺地町・馬門~柴崎」/街道写真紀行
(野辺地町 馬門 中渡 八ノ木台地 柴崎) 1206/1404

2014/04/10

野辺地町・近沢川~100馬門宿/旧奥州街道631

100noheji37

野辺地町・近沢川上流

近沢川(ちかざわがわ)を渡ると、
野辺地町鳥井平(とりいたい)から馬門(まかど)地区に入る。

写真は近沢川の上流側をみたものだ。
この上流左側(右岸)の段丘上の標高30~40mのところに
縄文遺跡(槻ノ木遺跡)がある。

野辺地には、烏帽子岳や山間から流れる小さな川が
筋状に陸奥湾に流入し、各河川に河岸段丘が発達して、
それらの段丘上には縄文遺跡が集中している。

有戸鳥井平遺跡、向田遺跡等、
野辺地町内には、全部で120ヶ所の遺跡が確認されているという。

近沢川を渡ると、左側に赤い鳥居があった。
稲荷神社であろうか。

丁度この辺が馬門集落の入口付近となっている。




100noheji39

馬門、陸奥湾

街道右側が開け、陸奥湾が良く見えるところだ。

街道右側の海岸沿いは、まかどコミュニテイ広場として整備されていた。
陸奥湾が目の前に広がり、実に気持ちの良いところであった。




100noheji41

100馬門宿、家並

街道に復帰して、少し歩く。

この辺が、旧奥州街道100番目の宿場・馬門宿の中心部であろう。
右手に入ると、陸奥湾に面し、
馬門公民館、馬門児童公園のあるところだ。

幕末の馬門宿は、戸数約30で、粟や稗などの農業と
ホタテ貝を中心とした漁業が主であった。

盛岡南部藩の最北端の宿場で、藩の番所が置かれてあった。



詳細リンク:旧奥州街道631「野辺地町・近沢川~100馬門宿」/街道写真紀行
(野辺地町 鳥井平 馬門) 1206/1404

2014/04/07

野辺地町・馬門通~鳥居平/旧奥州街道630

100noheji32


野辺地川 河口

野辺地川に架かる野辺地橋より見た河口である。

奥羽山脈を源流として、枇杷野川、与田川、日本木川などの
支流と合流して、ここで陸奥湾に流入している。




100noheji33

鳥居平、集落

野辺地川を渡ると、鳥井平の集落に入る。

この右手に入ったところに戊辰戦争史跡のあるところだ。

正面の店は、青森のほたて屋さん、㈱マルイチ横浜の看板がでていた。
マルイチ横浜は、ほたて全般を扱っているようだ。

青森のホタテは、北海道に次いで、全国第2位の生産量となっている。




100noheji34

野辺地戦争戦死者墓所

案内標識には、野辺地戦争戦死者墓所と書かれてあった。

戊辰戦争で東北地方の諸藩は、官軍に対抗して、
奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、
秋田藩、弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。

明治元年9月、弘前藩の軍勢約180人が
突如南部領に侵攻。

南部領の本道を通った一隊は、南部藩境の
馬門(まかど)宿に火を放ち野辺地村に迫った。

藩境の防備に当たっていた盛岡・八戸藩連合軍は、
これに応戦し銃撃。

夜明けまで続いた戦いの後、弘前藩の軍勢は、
40余人の死傷者を出して敗走。

野辺地戦争の翌年、弘前藩は、
戦死者27人の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てた。

墓碑には、弘前藩銃卒 大川豊太郎利清、佐野佐吉芳成他、
計27人の名が刻まれている。

官軍についた弘前藩の墓所で、
賊軍となった盛岡藩の墓碑は、ここには無かった。





詳細リンク:旧奥州街道630「野辺地町・馬門道~鳥井平」/街道写真紀行
(野辺地町 馬門道 下御手洗瀬 鳥井平) 1206/1404

2014/04/06

映画「LIFE!」

平成26年4月
横浜ムービル



タイトル キャスト コメント
LIFE!

 2013年 
      アメリカ


 監督
  ベン・
   スティラー

 ベン・
   スティラー

 クリステン・
   ウィグ

 キャスリン・
   ハーン

 シャーリー・
   マクレーン

 ショーン・
   ベン

  
  雑誌「LIFE」の写真管理部(ネガの管理)で働くが、凡庸で空想癖のある小心な中年男が、要求された最終号の表紙に使用する写真のネガが見当たらないことに気付く。
  撮影したカメラマンを探すため、ニューヨークからグリーンランド、アイスランド、ヒマラヤと奇想天外な旅を続けていくうちに、自分の人生を変えていく。
  主人公のたどる奇跡のような旅と人生・・・・、いいですね。




詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

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