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2012年10月

2012/10/30

岩手町境田~川口/旧奥州街道477

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明円寺

川口の集落入口付近右側にある柏樹山明円寺。
曹洞宗の寺院だ。

前述した、北上川永井橋袂の「一字一石供養塔」所縁の寺である。
ここの鐘楼にある梵鐘は、寛永21年(1644年)の作とのことだ。

なお、現在の地名は岩手町川口第15地割となっている。




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川口集落、IGR岩手川口駅口

この先の丁字路を左折すると、IGR岩手川口駅がある。
この辺が、かつての川口城下町の中心部であろうか。

岩手川口駅は、明治31年に川口駅として開業している。

昭和8年に、埼玉県の京浜東北線「川口町」駅が川口市となったことから、
駅名が「川口」となり、それに伴い、
こちらは翌昭和9年に「岩手川口」駅と改称された。

なお、岩手川口駅は、東京から562.2kmである。
毎度のことながら、ここまで良く歩いてきたものだと、一人感心している。




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川口稲荷神社

旧川口村の集落の北の外れにある、稲荷神社。

毎年秋の例祭には、 700年の歴史ある大名行列(通称どっこい)が、
神輿の先導となり、あわせて神楽、狐踊りなどの郷土芸能や、
山車が練り歩くとのこと。





詳細リンク:旧奥州街道477「岩手町境田~川口」/街道写真紀行
(岩手町川口第9地割、第15地割、第8地割) 1111/1210

2012/10/27

岩手町草桁~二つ森/旧奥州街道476

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岩手町川口分岐

ここで、旧街道は国道4号線と別れ、右側の細い道となる。

旧地名は岩手町草桁であるが、現在は川口第13地割(ちわり)となっている。

岩手県に多い、この「地割」という表示は、
地元の人にとっては便利なのかも知れないが、
どうも無味乾燥で味気ない。




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園井恵子像

川口の集落に入ると、左側の岩手町働く婦人の家の前に、
岩手山を背にした、園井恵子ブロンズ像が立っている。

本名は袴田トミで、往年の名女優である。

大正2年岩手郡松尾村生まれで、翌年川口村に越してきて、
地元の川口村尋常小学校に入学、
盛岡市岩手女子師範付属小学校高等科を経て、
昭和4年に宝塚音楽歌劇学校に入学。

宝塚少女歌劇団で初舞台を踏んでいる。
映画「無法松の一生」では、板東妻三郎と共演している女優だ。

戦争中、移動劇団「さくら隊」に加わり各地を慰問巡演中、
広島で被爆し落命。

享年32歳であった。




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川口旧家

川口集落にある旧家。
長い板塀にぐるりと囲まれた、門構えの立派な屋敷であった。

旧川口村は、川口城の城下町でもあったところである。





詳細リンク:旧奥州街道476「岩手町草桁~二つ森」/街道写真紀行
(岩手町川口第13地割、第12地割) 1111/1209

2012/10/23

盛岡市・玉山区~岩手町境/旧奥州街道475

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永井橋/北上川

街道は盛岡市玉山区巻堀から寺林地区に入る。

写真は、北上川に架かる永井橋だ。
この写真の右手に小さな小屋でできた寺林水位観測所がある。

左前方の山は、平らな山頂が特徴の送仙山(472m)である。
この山の北西部には、奈良時代後期の浮島古墳群(円墳)があるところだ。




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一字一石一禮供養塔

永井橋の袂にある、一字一石禮供養塔(写真手前左側)で、
「大乗経典全部、一字一石一禮供養」と刻まれてあった。

北東北地方は、しばしば凶作や飢饉に見舞われている。
特に江戸時代の元禄、宝暦、天明、天保年間における大飢饉の際には、
夥しい餓死・病死者が出た。

この供養塔は、これらの大飢饉による死者を合わせ供養したものであり、
安永7年(1778年)に建立されたものだ。

基底部の土中には、
法華経典を一つの石に一字ずつ書写した小石が多数埋められている。

これらを書写・供養したのは、岩手町川口にある明円寺の
第14代住職である実秀和尚である。

背後の石塔は二つとも、「湯殿山供養」と刻まれてあった。




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岩手町境

長かった盛岡市玉山区を抜け、ここから岩手町川口となる。

岩手町は昭和30年に沼宮内町、川口村、御堂村、一方井村が
合併し岩手町となった。

平成24年で、総人口は14490人である。





詳細リンク:旧奥州街道「盛岡市玉山区~岩手町境」/街道写真紀行
(岩手県盛岡市玉山区寺林、岩手町川口) 1111/1209

2012/10/21

映画「ツナグ」

平成24年10月
横浜ムービル


タイトル キャスト コメント
ツナグ
 
 2012年 
     日本
 
 監督
  平川 雄一朗
  松阪 桃季

  樹木 希林

  八千草 薫

  桐谷 美鈴

  橋本 愛

  遠藤 憲一

  仲代 達矢


  生きている者と、すでに亡くなってしまった者のとの再開の機会を設けることができる「ツナグ」と呼ばれる使者の見習いとその師匠である祖母。
  ガンで逝去した母と会う中年男、けんかしたままで事故死した親友と会う女子高生、事故死した婚約者等々・・・
  人と人とのつながり、家族の絆等、生死を深く見つめた映画となっている。
  原作は辻村深月の吉川英治文学賞新人賞受賞作品。





詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2012/10/19

盛岡市玉山区・巻堀神社/旧奥州街道474

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巻堀神社

街道から右側の階段を登ったところに巻堀神社がある。
巻堀、馬場、永井村の村社であった。

祭神は猿田彦命、伊佐那岐命となっているが、
これは明治3年に巻堀神社となってからで、
それ以前は南部金精大明神であった。

もともとは、男性のシンボルの形をしたご神体を信仰していた。
それが、明治の大教宣布で、天皇中心の神道へ集約する為に、
古くから民間に伝わる信仰を「淫祀邪教」として禁止し、
代わりに猿田彦命、伊佐那岐命が祭神として祭られた。

なお、大教宣布は明治3年に出された詔書で、
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、
日本を祭政一致の国家とする国家方針を示したものだ。




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境内社

巻原神社拝殿横に小さな境内社がある。
どうやらこれが、かつての金精大明神なのであろうか。

境内社の中を覗いて見ると、予想通りかつての金精大明神に
奉納された男根が祀ってあった。

江戸時代の金精大明神のご神体は、鉄製の立派な男根であったようだ。

金精神は、勃起した男根の形をしており、「金」は金色に輝くように、
「精」は精力絶倫な男根を意味している。

豊饒や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まって、
子宝、安産、縁結びや、下の病などにも霊験があるとされている。

写真上部の神棚には、「巻堀神社御守護」と書かれた御札が貼ってあった。




81tamayama09sa 巻堀神社大銀杏

巻堀神社境内にある真新しい子安神がある。
子授け、安産、子の成長を守護する石神と刻まれてあった。

金精神を蔑ろにした後悔からか、金精神と同じようなご利益のある
石神・子安神を、新たに祀ったようだ。

写真は、巻堀神社の境内にある2本の大公孫樹である。
黄葉した公孫樹の葉が、境内一面を黄色の絨毯としていた。

左の公孫樹の木の背後に幽かに見える山が岩手山で、
下の町並みが巻堀の集落である。





詳細リンク:旧奥州街道474「盛岡市玉山区・巻堀神社」/街道写真紀行
(岩手県盛岡市玉山区 巻堀字本宮) 1111/1209

2012/10/16

盛岡市玉山区・馬場~巻堀/旧奥州街道473

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姫神山登山口

街道から右側に伸びるこの道が、姫神山(1124m)への登山道である。

この先に盛岡市高木牧場(玉山区馬場)がある。
高木牧場は、放牧事業66頭、採草事業579梱包とのことであった




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玉山区・巻堀

玉山区馬場から巻堀(まきぼり)字新田地区に入る。
かつての岩手郡巻堀村(現盛岡市玉山区巻堀)だ。

東京より560km、岩手町まで11kmの標識のあるところだ。

左側前方に、巻堀小学校が見えてきた。

巻堀小学校は、創立は明治9年と伝統のある学校だ。
現在の生徒数は43人とのこと。

その左側には玉山歴史民族資料館が出来ている。

巻堀小学校創立100周年記念事業の一環として、設けられたもので、
収集された民俗資料、考古歴史資料等が収蔵・展示されている。




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巻堀水準点

右側に共同墓地とその手前には
4個の小石に囲まれた国土交通省国土地理院の水準点があった。

前述の巻堀小学校で、標高200mである。

左側の石塔には、「石段奉納」と刻まれてあった。





詳細リンク:旧奥州街道473「盛岡市玉山区・馬場~巻堀」/街道写真紀行
(岩手県盛岡市玉山区馬場 巻堀 字新田 中道 巻堀) 1111/1209

2012/10/14

芸術祭十月大歌舞伎:「国性爺合戦」、「勧進帳」/新橋演舞場

平成24年10月
新橋演舞場

演 目 役 者 観 劇 記
近松門左衛門作
国性爺合戦
(こくせんやかっせん)

 獅子ヶ城楼門
 獅子ヶ城内甘輝館
 同 紅流し
 同 元の甘輝館
  
    
   二幕四場
 
和藤丸
    松 禄

甘輝
    梅 玉

錦祥女
    芝 雀

老一官
    歌 六


    秀太郎

  和藤内は、父老一官の祖国再興のため、父と母の渚と共に中国に渡る。父老一官の娘錦祥女の婿である、勇将誉れ高い甘輝に加勢を頼む。
  しかし、甘輝は妻の縁で反旗を翻したとなっては武士の恥辱となるため、妻を殺して加勢するという。
  錦祥女は、皆の大望のため自ら命を絶ち、和藤内と甘輝は悲しみを乗り越え、敵の韃靼(だったん)王打倒を誓い合うことになる。
  荒事味溢れる和藤内の豪快さを、若さ溢れる松禄が演じきった。

  
歌舞伎十八番の内
勧進帳
(かんじんちょう)

 長唄囃子連中
武蔵坊弁慶
    團十郎

富樫左衛門
    幸四郎

源義経
    藤十郎

亀井六郎
    友右衛門

  都を落ち行く義経一行。義経は強力に、弁慶らは山伏に姿を変えて奥州を目指していたが、安宅の関で富樫左衛門の詮議を受けることになる。
  富樫は、一行を義経主従と見破りながらも、主君を守る弁慶の命懸けの振る舞いに心打たれ、関所の通行を許す・・・
  御馴染みの歌舞伎十八番で一番人気のあるのがこの「勧進帳」だ。團十郎と幸四郎のやりとりは見事であった。

   なお、七世松本幸四郎は、九世市川團十郎の薫陶を受け、その芸を継承すると共に、新しい試みにも積極的に挑んだ。中でも、「勧進帳」の弁慶は当たり役として、1600余回も演じた由。

詳細リンク:「演劇」/悠々人の日本写真紀行

2012/10/04

盛岡市玉山区・馬場状小屋/旧奥州街道472

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馬場状小屋、旧街道

かつての飛脚便の中継店のあったという玉山区馬場の
状小屋集落を抜ける。

気持ちよい旧街道である。

道の傍らには、
手書きで「この道は昔の奥州街道です」と書かれた案内標識があった。




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状小屋・あづき研ぎ石

右側にあづき研ぎ石がある。

手書きの説明によると、旧街道のこの石の近くを歩くと
ザックザック、ザラザラーと音がしたそうだ。

旅人は恐れて、何とか無事に通してもらおうと、
この先50mの所に供養塔を建立したとのことだ。




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状小屋地蔵尊

街道右側にその小さな祠があった。

中には地蔵尊と、寛延4年(1751年)と刻まれた奉納庚申供養塔があった。
左側の石塔は、判読できなかった。





詳細リンク:旧奥州街道472「盛岡市玉山区・馬場状小屋」/街道写真紀行
(岩手県盛岡市玉山区馬場 字川原、字状小屋) 1111/1208


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