« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年12月

2011/12/31

花巻城址/旧奥州街道408

73hanamaki39s  花巻小校庭、二の丸跡

大手門から枡形を通り、緩い坂を上ったところである。
今は、花巻小学校の校庭となっているが、かつては花巻城の
二の丸のあったところだ。

古絵図によると、手前に稽古場があり、その先に馬場があったようだ。




73hanamaki43

花巻城/本丸西御門

平成7年に、花巻開町400年を記念して、本丸の西の
入口である西御門が復元された。

門の形式は「桝型脇戸櫓門」(ますがたわきどやぐらもん)と呼ばれ、
木造2階建となっている。

この花巻城は、平安時代末期の安倍頼時が最初に築城した。
当時は鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)と呼ばれていた。
その後、奥州藤原氏、稗貫(ひえぬき)氏と続いている。

天正19年(1591年)の秀吉の奥州仕置で、小田原攻めに参陣しなかった
稗貫氏は領地を没収され、浅野長政の家臣浅野重吉が入城した。

その後、鳥谷ヶ崎城は花巻城と改められ、南部藩家臣の北秀愛が
城代となるが、急死したため、代わって父の北松斎信愛が城代となる。

慶長18年(1613年)、北松斎の死後は、南部利直の次男政直に
2万石を与え、花巻城主とした。

その政直が、花巻城を近世城郭として完成させ、本丸に二層二階の
櫓や多くの重層の城門を建立させた。

一国一城令の後も、南部藩の抱え城として認められ、政直歿後は
城代が置かれ明治を迎えている。




73hanamaki44

花巻城/本丸跡

西御門を入ると、本丸跡である。

花巻城は、本丸、二の丸、三の丸の三廓で構成され、本丸には
藩主が宿泊する御殿と城代以下の役人が詰める御用の間があった。





詳細リンク:旧奥州街道408「花巻城址」/街道写真紀行
(岩手県花巻市花城町) 1110/1112


2011/12/30

花巻城・大手門/旧奥州街道407

73hanamaki34s   花巻市役所

上町の交差点を抜けると、正面に花巻市役所がある。
街道は、ここで右折である。

花巻市は人口約10万人で、盛岡市、一関市、奥州市に次いで
県内で人口の多い市だ。

昭和29年に花巻町と、湯本、湯口、矢沢、太田、宮野目の各村が合併し、
市制を敷いた。
その後、平成18年に、隣接した石鳥谷町、大迫町、東和町と合併して、
現在の花巻市となっている。




73hanamaki35

花巻城大手門跡

花巻市役所の前を右折すると、正面に花巻城大手門跡が見えてくる。

ここが、花巻城の正面入口であった。




73hanamaki36

花巻城時鐘

大手門跡にある花巻城の時鐘である。

正保3年(1646年)、南部氏28代目の城主重直が、盛岡城の時太鼓を
鐘に改めた時、時鐘として作ったのであるが、小さいので花巻城に
移したものである。

明治維新までは、二の丸(現花巻小敷地内)にあったが、ここに移され、
午後6時に打鐘して時を報せている。

なお、この時鐘は、当時の冶工鈴木忠兵衛、忠左衛門によって
造られたもので、市の指定文化財に指定されている。





詳細リンク:旧奥州街道407「花巻城下・花城町~大手門」/街道写真紀行
(岩手県花巻市花城町) 1110/1112

2011/12/29

花巻城下・双葉町~上町/旧奥州街道406

73hanamaki29as  松庵寺本堂

松庵寺の山門を潜ると、目の前に独特な形状をした本堂がある。
外観は石造り、屋根にはインド、ネパール等の寺院にあるパゴダ(仏塔)が
立っている。

この寺は真言宗の学寮であったが、永禄5年(1560年)に念仏庵となった。

慶長5年(1600年)、花巻城夜討の折、当時の住職が止宿中の
津軽浪人3名と共に城を守った功績によって、
城代である南部藩家臣北松斎(きたしょうさい)から寺名に
「松」の一字を貰い、「松庵寺」としたとのこと。




73hanamaki30s  松庵寺記念碑、餓死供養塔

松庵寺境内にある松庵寺と題した高村光太郎記念碑(右側)と
三基の飢餓供養塔(左背後の石塔)。  

写真右は高村光太郎の記念碑である。
光太郎は、昭和20年、宮沢賢治の実家を頼り、花巻に疎開して
晩年の7年をすごした。

その時、妻智恵子と父母の法要をここ松庵寺で行なった。
その折に光太郎が記した「松庵寺」が刻んである。

一部引用すると
   「奥州花巻といふひなびた町の
    浄土宗の古刹松庵寺で
    秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
    まことにささやかな法事をしました
    
    花巻の町も戦火をうけて
    すつかり焼けた松庵寺は
    物置小屋に須弥壇をつくつた
    二畳敷のお堂でした
    
    雨がうしろの障子から吹きこみ
    和尚さまの衣のすそさへ濡れました
    和尚さまは静かな声でしみじみと・・・ 」


その背後にあるのは、三基の餓死供養塔である。
写真左端の供養塔は天保4年(1833年)と読めた。

宝暦、天明、天保と飢饉が続き、その時の多くの死者が当寺に埋葬され、
その時の供養塔である。  


境内には名匠高橋勘次郎翁父子壽碑も建立されていた。

説明によると、高橋勘次郎は、親子3代にわたり名匠の名に恥じない
数々の業績を残した岩手県が生んだ最も著名な大工棟梁とのことである。  

三嶽神社、稲荷神社、鳥谷ヶ崎神社弁慶堂、安浄寺、江差市伊手の
八幡薬師神社、平泉中尊寺本坊等々を手がけ、往時の大工棟梁の
第一人者であった。

その他、嘉永5年(1852年)に建てられた、両刃の珍しい形をした

芭蕉句碑がある。

  「物言へは 唇寒し 秋の風」
と刻まれてあった。

73hanamaki33

上町商店街

松庵寺を出ると、双葉町の商店街となる。

江戸時代は、この奥州街道沿いに吹張御組、向御組などの下級武士の
屋敷が配されてあった。

写真は上町の交差点より、右(東側)を見たものだ。
花巻市のメイン商店街で、歩道はアーケードとなっている。

秋の花巻まつりの「おまつり広場」となるところだ。
花巻まつりは、文禄2年(1593年)、花巻の祖北松斎を敬い、
町の人々が山車を作り、町を練り歩いたのが始まりとのこと。

400年も続く、花巻市最大のイベントとなっている。

京都祇園囃子の流れをくむ優雅な花巻囃子の音色の中、絢爛豪華な
風流山車、140基にもおよぶ勇壮な神輿や樽神輿、岩手を代表する
郷土芸能の鹿踊(ししおどり)や神楽権現舞、気品溢れる花巻囃子踊りなどが
繰り広げられる。

宮沢賢治は、花巻まつりを
  「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる」
と記している。





詳細リンク:旧奥州街道406「花巻城下・双葉町~上町」/街道写真紀行
(岩手県花巻市双葉町、上町) 1110/1112

2011/12/28

映画「聨合艦隊司令長官 山本五十六」

平成23年12月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
聨合艦隊司令長官
山本五十六


 2011年 日
    
 監督
    成島 出
  
   役所 広司

   玉木 宏

   柄本 明

   香川 照之

   阿部 寛

   原田 美枝子

   宮本 信子

 
   

  昭和14年夏。日独伊三国同盟を巡り、締結を主張する陸軍だけでは無く、国民の大半も同盟に希望を見出していた。
  そんな中、海軍次官の山本五十六は、海軍大臣米内光政、軍務局長井上成美は陸軍の圧力や世論にも信念を曲げることなく同盟に反対の立場を取り続ける。しかし第二次大戦は勃発する。
  真珠湾攻撃によって、自ら開戦の火蓋を切って落とす一方、戦争に反対し続けた聨合艦隊司令長官・山本五十六を淡々と誠実に描いている。
  サブタイトルとなっている「太平洋戦争70年目の真実」は、オーバーであった。




詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/12/27

花巻城下・豊沢川~双葉町/旧奥州街道405

73hanamaki24

国道4号線交差点

花巻城下の南関門である同心屋敷から旧奥州街道に復帰する。
前方に国道4号線の交差点が見えてきた。
旧街道は、このまま直進である。

右手の赤い建物は真言宗の天龍山偏照院(へんじょういん)である。
天台宗白楽院と、高野山大師教会子安講岩手県支部を前身として、
昭和26年に開山した、まだ新しい寺院である。




73hanamaki25

豊沢川上流側

国道4号線を渡ると、すぐ豊沢川に架かる豊沢橋を渡る。

豊沢川はナメトコ山(850m)南東麓を源流とする川で、
花巻市東部で北上川に流入している。
上流には豊沢ダムがあり、花巻市の水田の灌漑用と、
市民の飲料水用として利用されている。

豊沢川を渡ると、左側の民家の前に一里塚跡の標識がある。

日本橋より130里(510.9km)の一里塚で、高さは15尺(4.5m)もある
立派なもので、城下町花巻の表玄関に威容を誇っていた。
別名錦塚とも呼ばれていた。 




73hanamaki28s  松庵寺

豊沢枡形を左折すると、正面に松庵寺(しょうあんじ)があり、
街道はここで右折となる。

松庵寺は浄土宗の寺で、阿弥陀如来座像は、宝暦11年(1761年)、
京仏師左近の作とのこと。 

境内には、文化12年(1815年)等の餓死供養塔群が建っている。

松庵寺は、江戸時代の凶作・飢饉などの際には、
施粥釜(せがゆかま)を据えて救済に当たっていたようだ。

また、高村光太郎所縁の寺としても知られており、
境内には記念碑が建っている。




詳細リンク:旧奥州街道405「花巻城下・豊沢川~双葉町」/街道写真紀行
(岩手県花巻市桜町、豊沢町、双葉町) 1110/1112

2011/12/25

花巻城下・南関門/旧奥州街道404

73hanamaki17

花巻城下、同心屋敷

街道右手に、2軒の茅葺き曲り家の向御組町・同心屋敷が保存されてある。

向御組町(現桜町)同心の始まりは、天正19年(1591年)、
豊臣秀吉による九戸政実攻略後、浅野長政支配下の一隊30人が、
当地に置いて南部氏に仕え、花巻同心組みとなったことに由来する。

当初は、花巻城の東、馬場口門に居住していたが、
延宝8年(1680年)にここ向御組町に移された。

同心屋敷は、奥州街道を挟んで東西に15軒ずつ配置され、
花巻城下の南関門を守っていた。

写真は、その内の江戸時代後期に立てられた2軒である。




73hanamaki19

同心屋敷正面

同心屋敷の正面に回ってみた。
江戸時代後期の典型的な同心堂新屋敷で、右が旧平野家、
左が旧今川家である。

共に間口5間で、奥行3間となっている。




73hanamaki23

宮沢賢治文学散歩の道

同心屋敷の正面前に、「新奥の細道」と題した大きな説明板があった。

宮澤賢治が独居自炊して、農業・芸術を説いたところから、
賢治の業績などを紹介している宮沢賢治記念館への道を、
「賢治文学散歩の道」として遊歩道が整備されている。

説明板には、
「道の途中には、賢治作品の根源である花巻の山や川があり、
いわば賢治の時代と現代を結ぶ道かもしれません。

このみちが「あなたのすきとほった ほんたうのたべものになることを、
どんなにねがふかわかりません(「注文の多い料理店」より)」」と記してあった。

写真の道を右に200mほど行くと宮澤賢治の、「雨ニモマケズ」の
詩碑のあるところだ。
道の所々に賢治所縁のモニュメントが設えてあった。





詳細リンク:旧奥州街道404「花巻市・花巻城下南関門」/街道写真紀行
(岩手県花巻市桜町) 1110/1112


2011/12/24

花巻市・旧奥州街道名残の松/旧奥州街道403

73hanamaki12s  旧奥州街道名残の松(笠松)

街道右側にある旧奥州街道名残の松(傘松)である。

この付近の街道には昭和20年代までは往時の松並木が残っていたが、
道路の拡幅、風による倒木などでほとんどその姿を消し、わずかにここと、
この先の南城小学校の敷地内の3本の松を残すのみとなっている。




73hanamaki13

旧外台村

街道右手が大きく開ける。
街道ある台地と北上川の間の氾濫原に広がる、
外台(とだい)地区(旧外台村)である。

昔も人家が無かったが、今も建物は無い。
この外台は、台地の外側と言う意味であろうか。




73hanamaki14

名残の松/南城小学校

南城小学校の敷地内にある奥州街道名残の松である。

この付近の松並木は、寛文5年(1665年)、南部藩士奥寺定恒が
自費で苗木を買入て、花巻から伊達藩と境界である鬼柳まで
松並木を整備したという。


宮澤賢治が
  「青い松並 萱(かや)の花 古いみちのくの断片を保て」
と詠んでいる。


なお、これら奥州街道名残の松は、花巻市の天然記念物に
指定されている。

背後の建物は、南城小学校である。
明治5年の開校という歴史ある小学校だ。


街道右側に上館跡の標識あり、そこからこの南城小学校にかけての
一帯に館があった。


前九年の役(1051~1062年)の時に、大和朝廷の源頼義が、
陣所を置いたところと伝えられ、その後、この地を領した諸氏が
館を構えていたとのこと。  

南城地区から桜町に入ると、右手に洒落た建物がある。
花南地区コミュニティ消防センターである。

この建物の背後に同心屋敷が今でも残されており、この辺が花巻城下の
南の入口付近であった。






詳細リンク:旧奥州街道403「花巻市南城~桜町」/街道写真紀行
(岩手県花巻市南城、外台、桜町) 1110/1112

2011/12/22

花巻市・十二丁目~南城/旧奥州街道402

73hanamaki07

外台川原

街道右手が大きく開ける。
外台川原地区と、その先が北上川に架かる花巻南大橋である。

旧外台村(とたいむら)は、一段高いところにある旧奥州街道と、
北上川の間の氾濫原で、人家の一軒も無い珍しい例として
知られた村であった。




73hanamaki09s 通り抜け不可

旧街道を歩いていると、良くあることであるが、ここでも「この先
通り抜けできません~花巻市」の標識がある。

手持ちの双眼鏡で確認すると、国道4号線の新しいバイパスができていて、
横断できないようになっていた。

仕方ないので、左に大きく迂回する。


 

73hanamaki10

花巻東バイパス交差点

旧道から左に迂回した所の立派な市道である。
街道歩きで、歩道がこれだけ広い道は珍しい。

正面の信号が、国道4号線の花巻東バイパスの交差点である。
左は、奥州・北上方面、右は二戸・盛岡方面と書かれてあった。

真っ直ぐが旧街道で、花巻市市街地方面である。

花巻東バイパスを横断して、暫く歩くと、道はかつての奥州街道を
思わせる狭い道となり、歩道も無くなった。
 




詳細リンク:旧奥州街道402「花巻市・十二丁目~南城」/街道写真紀行
(岩手県花巻市十二丁目、外台、南城) 1110/1112

2011/12/21

花巻市・成田~十二丁目/旧奥州街道401

73hanamaki01s  宿内排水路

宿内排水路を渡る。
農業用排水路で、この先で北上川支流の飯豊川に流入している。

写真は、街道より下流方向を撮影したものだ。




73hanamaki02

花巻市成田

街道右手が開け、気持ちの良い光景となっている。

写真中央の方形の屋根は昌光寺のようだ。
昌光寺は、真言宗智山派の寺院で、
住所は花巻市成田第十四地割78となっている。




73hanamaki04s  十二丁目薬師神社

十二丁目に入ると、右側に薬師神社がある。
江戸時代までは薬師堂であった。
開基は寛文(1661~1673年)の頃と伝えられている。

明治になり、大穴牟遅命、少彦名命、大山津見命、伊邪奈岐命、
伊邪奈美命の5柱を祭り、村社となった。  

薬師神社境内には、古い石仏や石塔が並べてあった。

薬師神社の所在地は花巻市十二丁目1143となっている。
変わった町名であるので調べてみると、この十二丁目は室町時代の
陸奥国稗貫郡の武家の名前らしい。

稗貫氏の家臣であったとのことだ。





詳細リンク:旧奥州街道401「花巻市・成田~十二丁目」/街道写真紀行
(岩手県花巻市成田、十二丁目) 1110/1112

2011/12/20

演劇「年忘れ喜劇特別公演」

平成23年12月
新橋演舞場


演 目 役 者 観 劇 記

館 直志作
浅香 哲哉演出

銀のかんざし
 (ぎんのかんざし)

髪結い・おかつ
    藤山 直美

亭主・清之助
    坂東 薪車
       

    小島 秀哉
    小島 慶四郎
    大津 嶺子


  大正の末、髪結いの女房を持つ清之助は文字通りの左団扇で、終日のらりくらりしている。年上女房のおかつは、気が強い上に、この上ないやきもち焼ときているから、清之助の行く末を安じる大家はやきもきし、清之助を働きに出そうと画策するが・・・
   久しぶりの観劇となった、上方喜劇で、まさに年忘れ爆笑喜劇であった。直美と薪車の熱演に拍手喝采。


館 直志作
「駕や捕物帳」より
佐々木 渚脚本
浅香 哲哉演出

殿様茶店の恋日和
(とのさまちゃみせのこいびより)

領主前田能登守、
盗賊・赤鞘主水
    坂東 薪車

茶屋の娘・おはな
奥方・藤江
女盗賊・おりょう
    藤山 直美

    小島 秀哉
    小島 慶四郎
    大津 嶺子
    いま 寛大
    曾我廼家
       玉太呂
  城下のはずれの茶店に、嫉妬深い奥方・藤江から逃れた領主・前田能登守がお忍びで現れ、茶店の娘おはなに一目惚れ。
  城下を荒らしまわっていた盗賊の首領赤鞘主水の人相書きに似ていたことから、駕籠かき二人は能登守を強盗と勘違いして役人に通報する。
  そこへ、役人に追い詰められ盗賊赤鞘や女盗賊・おりょうまでが現れ、てんやわんやの大騒動となる。
  もうめちゃくちゃな演出と、演技で流石に、見ている方も少し辟易した。坂東薪車と藤山直美の七変化は見応えがあった。





詳細リンク:「演劇」/悠々人の日本写真紀行

2011/12/18

北上市・成田一里塚~花巻市境/旧奥州街道400

72narita02

成田一里塚

成田の坂を上り詰めたところが丁字路となっている。
尾根に沿うように、旧街道はここで左折となっている。

丁字路を左折すると、目の前に大きな檜と、かつての原形をとどめた
一里塚が目に飛び込んでくる。

江戸時代の一里塚が、昔のまま対で残されているのは、全国でも
この成田一里塚と、一つ手前(江戸より)の二子一里塚(前述)のみである。

日本橋より129里(506.6km)、盛岡まで10里(39.3km)。
右側(東側)の塚の高さは、塚の裾より3.2m(道路面より5.5m)で、
左側(西側)は、高さ3m(道路面より5.5m)である。

南部藩の奥州街道の幅員は、江戸幕府の小海道の基準である
3間(5.46m)となっている。
因みに大海道は6間(10.92m)であった。




72narita03

成田石塔群

成田一里塚を過ぎると、海道は下り坂となり、左側に多数の石塔が
集められてあった。

観世音や、湯殿山、出羽山、湯殿山等の石塔が多かった。




72narita04

花巻市境

坂を下ると、正面が開けてきた。
左側に成田小学校のあるところだ。

前方の横断歩道のところで、北上市から花巻市に変わる。

花巻市は元稗貫(ひえぬき)郡花巻町で、昭和29年に湯口、湯本、矢沢、
宮野目、太田の5村と合併して花巻市となった。

そして、平成18年に大迫町、石鳥谷(いしとりや)町、東和町と合併している。

花巻市境には花巻市と書かれた標識があった。
旧奥州街道86番目の宿場・花巻宿のあるところである。





詳細リンク:旧奥州街道400「北上市・飯豊~花巻市境」/街道写真紀行
(岩手県北上市成田、飯豊、花巻市) 1110/1112

2011/12/17

映画「RAILWAYS/愛を伝えられない大人たちへ」

平成23年12月
横浜ムービル



タイトル キャスト コメント
RAILWAYS/
愛を伝えられない大人たちへ

 2011年 日
    
 監督
  蔵方 政俊
  
   
   三浦 友和

   余 貴美子

   小池 栄子

   米倉 斉加年
 
  
   西村 雅彦

 
   

  富山県の冨山地方鉄道を1ヶ月後に定年退職する運転手と、癌検診で再検査となったことをきっかけに自分の人生を見直し、以前やっていた看護師の仕事に就きたいと行動を起こす妻。
  富山県の風景をバックに展開される定年を迎えた夫婦の葛藤をたんたんと描いている。余貴美子の熱演が光った作品となっている



詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/12/16

北上市・北工業団地~成田/旧奥州街道399

71murasakino12

北上工業団地

工業都市北上のシンボルとして、北上川流域テクノポリスの
中心的役割を担っている工業団地。
岩手県内では、先陣を切り、昭和63年にできた工業団地である。

団地総面積127ha。
シチズン東北や岩手スリーエム、岩手東芝エレクトロニクス、
東京製綱、明治製菓等の工場があり、現在全部で29社の工場がある。

街道は、その工業団地の中央を歩く感じとなっている。

写真左の建物は、北工業団地の入口付近にある北上市技術交流センターで、
昭和61年に建てられたもの。

研修や企業間の交流を通して、企業の技術向上や受発注体制の確立を図ることを目的にして建てられたものだ。

その先、左手にあるのが開発の碑。
(財)北上市開発公社が建立した碑である。

昭和36年に地域開発の推進を目的として北上市開発公社が設立され、
これが北上市の工業都市としての発展の契機となり、以来35年が経った。

当初の目的を達成したので当公社を閉じ、市勢発展に貢献した足跡を
偲ぶため、平成7年にこの記念碑を建立したと刻まれてあった。




71murasakino15

飯豊川

大きな北上工業団地を抜けると、正面に飯豊川に架かる成田橋が見えてきた。
北上市成田地区に入る。

成田橋より下流を見た写真である。
八方山(717m)東南麓を源流とする川で、この先で北上川に流入している。




71murasakino16s  成田の坂

成田橋を渡ると、街道は緩い登り坂となる。
気持ちよい街道歩きのできるところである。





詳細リンク:旧奥州街道399「北上市・北工業団地~成田」/街道写真紀行
(岩手県北上市北工業団地、成田) 1110/1112

2011/12/15

北上市・二子町~村崎野/旧奥州街道398

71murasakino6

二子町・五輪壇

二子一里塚を過ぎると、右側(東側)が大きく開けている。

堰を開削し、原野を開拓した藩政時代の人々の苦労が偲ばれるところである。




71murasakino7s  JR村崎野駅

左側にJR村崎野駅がある。
東京より492.2kmで、大正8年に村崎野信号所として開業して、
昭和25年に駅に昇格している。

駅の住所は、「北上市村崎野15地割513」となっている。
この地割という表現は、岩手県に入ると、急に多く目にするようになった。

どうやら地番の上位区分で字名に相当するようである。
因みに地図で数えてみると、村崎野だけで1地割から26地割まであった。




71murasakino9

伊勢神社参道

街道右側にある天照御祖神社(通称伊勢神社)。

南部藩士奥寺八左衛門定恒の勧請した神社である。
奥寺は前述の奥寺堰を開削した人だ。

和賀地方の開拓に尽力した人だ。

秋の例祭には、五穀豊穣や無病息災を祈願して、村崎野大乗神楽、
門屋大神楽、飯豊鬼剣舞神楽などの伝統芸能が奉納されるとのことである。

参道の階段を登ったところには、真新しい千木の伊勢神社拝殿がある。
昭和54年に改築されたものだ。





詳細リンク:旧奥州街道398「北上市・二子町~村崎野」/街道写真紀行
(岩手県北上市二子町、村崎野) 1110/1112

2011/12/13

北上市・二子一里塚/旧奥州街道397

71murasakino1

広野橋/新堰川

JR東北本線に架かる常磐台跨線橋を渡り、線路に並行して北上する。

新堰川(用配水路)に架かる広野橋を渡ると、村崎野地区に入る。

この新堰川の上流側となる奥寺堰は、「疏水百選」にも選ばれている疏水で、
今から340年前の藩政時代に開削されたものだ。

奥寺八左衛門定恒が、村崎野一体の原野の開墾のために
開削したものである。




71murasakino2

二子一里塚

新堰川を渡ると、前方に二子一里塚(東塚、高さ2.5m))が見えてきた。

現在、奥州街道で残っている一里塚はわずか20ヶ所で、
その中でも原形のまま残っているのは、次の成田一里塚と、
この二子一里塚だけとのことだ。

日本橋より128里(503km)、盛岡まで11里(43km)の
位置にある貴重な遺跡である




71murasakino3s  左側(西塚)一里塚

街道を挟んで左側(西塚、高さ2.3m)にも、往時のままの
一里塚が残されており、街道を挟んで対となって
残されている珍しい例である。

二子一里塚の西塚の背後には、塚腰稲荷神社が鎮座している。
紅い鳥居を潜り、階段を登ったところに小さいな祠がある。

稲荷神社の境内には「神楽伝承百周年記念」碑、文久2年(1862年)の
馬頭観世音と、文政2年(1819年)の庚申塔があった。





詳細リンク:旧奥州街道397「北上市・上野町~二子一里塚」/街道写真紀行
(岩手県北上市上野町、二子町、村崎野) 1110/1112 


2011/12/11

北上市・黒沢川~常磐台跨線橋/旧奥州街道396

70kurosawjr19s  常磐台

間宿・黒沢尻宿を出て、黒沢川に架かる本宮橋を渡ると、
県道39号線から左に分かれ常盤台地区に入る。

右側にJR東北本線が走っているところだ。

この道の左側には進学校として知られた黒沢尻北高校(大正11年創立の
旧制黒沢尻中学校)がある。




70kurosawjr21

JR東北本線常磐台跨線橋

JR東北本線に架かる常磐台跨線橋である。

丁度登校時間で、小学生がグループを組んで歩いていた。
尋ねてみると黒沢尻小学校の生徒であった。


線路沿いにある旧街道は、この橋を渡って、今度は線路の右側(東側)となる。



70kurosawjr22

跨線橋より上り方面

常磐台跨線橋より、今歩いてきた黒沢尻宿方面を見た写真である。

街道はこの跨線橋を渡り、すぐ左折だ。
次の宿場は、奥州街道86番目の宿場・花巻宿となる。





詳細リンク:旧奥州街道396「北上市・黒沢川~常磐台跨線橋」/街道写真紀行
(岩手県北上市本通り、常盤台) 1110/1112

 

2011/12/08

黒沢宿本通り~諏訪神社/旧奥州街道395

69kurosawjr14

諏訪町アーケード

街道左側に「新町のおこり」と書かれた説明板が建っていた。

江戸時代中頃の貞享3年(1685年)、
本町に接して奥州街道沿いに造られた町だ。
新田町ともいわれ、伝馬、人夫の負担、市の開設等宿駅の機能を
本町と分担していた。

新町の三浦屋が脇本陣を務めていた。

そして、右側にあるのがPIA諏訪町アーケード。
諏訪神社の門前町である。

このPIAは、Pはpleasurable、Iはinteresting、Aはavenueとのことだ。
楽しく面白い通りとでも訳すのであろうか。




70kurosawjr15

諏訪神社

諏訪町アーケードから諏訪神社に参拝する。

諏訪神社は、開発の守護神である建御名方神(たけみなかたのかみ)を
祭神として、坂上田村麻呂により勧請されたと伝えられている古社である。

享保19年(1734年)、本宮の地(北上市幸町)から現在地に移り、
南部藩から領地を与えられ近郷の総鎮守となっている。

川岸剣舞は、前九年の役で滅んだ黒沢尻五郎正任の亡魂を鎮めるために
踊ったのを始まりとする悪魔退散の諏訪神社の神事であった。

諏訪神社境内にある芭蕉句碑があった。
「 初時雨 雨猿も小蓑を ほしけ也 」と書かれている。

黒沢尻の俳人グループ「玄皐連(げんこうれん)」が天明元年(1781年)に
建てたものだ。


70kurosawjr17s  JR北上線踏切

街道に復帰して、北上するとJR北上線の踏み切りを渡る。
この辺が、黒沢尻宿の出口付近であった。

北上線は、北上駅と秋田県横手駅を結ぶ全長61kmの
JRの鉄道路線である。
電化はされておらず全線気動車によるワンマン運転を行なっている。





詳細リンク:旧奥州街道395「黒沢尻宿・本通り~諏訪神社」/街道写真紀行
(岩手県北上市本通り、諏訪町) 1110/1112

2011/12/06

JR北上駅~間宿・黒沢尻/旧奥州街道394

69kurosawjr08

JR北上駅

街道歩きを中断して、JR北上駅まで歩いてきた。
激しい雨が降っていたが、西の空が明るくなってきた。

北上駅は、東北新幹線、東北本線、そして北上線が乗り入れている接続駅だ。
明治23年の創業で、東京から487.5kmである。

今夜の宿、ホテルルートイン北上駅前に向かう。




69kurosawjr10

ホテルより北上市街

ホテルルートインの10階の部屋から南西方向を見た写真である。
北上市は人口9万人で、県内では盛岡、一関、奥州、
花巻市に次いで5番目に多い。

背景の山並みは、天竺山(1318m)、経塚山(1373m)、
駒ヶ岳(1130m)だ。

夜は、街に出て居酒屋で夕食を取る。
疲れた身体を癒しながらの一杯と食事は旨かった。




69kurosawjr12

黒沢尻・本通り

翌朝、6時にホテルを出発。
人も車も殆ど通っていなかった。

毎度のことながら、ホテルの無料朝食バイキングサービスを
受けずにの出発である。

旧街道に復帰して、本通りに入る。
この辺がかつての旧奥州街道間宿・黒沢尻の中心部であった。

黒沢宿には、間宿ではあったが、本陣と脇本陣が置かれていた。
和賀川の川留めや事故に備えたものであったようだ。

また、黒沢尻宿は北上川舟運の重要な中継拠点で、黒沢尻河岸があった。
盛岡城下方面に往復する小型の舟と、河口方面を往復するひらた船とが、
黒沢河岸で荷物を積み替えていたという。





詳細リンク:旧奥州街道394「北上市・JR北上駅~本通り」/街道写真紀行
(岩手県北上市大通り、青柳町、本通り) 1110/1112

2011/12/05

北上市・和賀川~黒沢尻/旧奥州街道393

69kurosawjr01s  九年橋/和賀川

東北新幹線と東北本線の高架下を潜ると、街道は右にカーブして、
この和賀川に架かる九年橋となる。

九年橋は、明治9年の明治天皇巡幸のときに始めて架橋されたのを
記念してのネーミングとのことだ。




69kurosawjr02

和賀川下流

九年橋より見た和賀川の下流。
このすぐ先で、北上川に合流しているところだ。
前方の鉄橋は東北新幹線と東北本線である。

九年橋が架かるまでは、丁度この辺で船渡しであった。

和賀川は北上川最大の支流で、秋田県境の
和賀岳(1440m)の南麓を源流とする川だ。

鮎も遡上する綺麗な川である。

上流の和賀川グリーンパーク内に、
岩手県川口村(現花巻市)生まれの詩人、童話作家である
宮沢賢治の詩碑が建てられている。

「冬のスケッチ」より一節
  
  「  和賀川のあさぎの波と 
    天末のしろびかり
    緑青の東の丘を
    われは見たり  」




69kurosawjr04

黒沢尻

九年橋を渡ると北上市市街となる。

北上市は、昭和29年に黒沢尻町、飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、
相去村、福岡村が合併して新しくできた市である。

中心部のここは、旧奥州街道の間宿の黒沢尻のあったところだ。

雨が降ってきたので、街道右側にある下川原児童公園の
大きな木の下のベンチで雨支度をする。

北上市は、内陸性の気候の特性で積雪量が多いせいか、
市内の公園は冬季閉鎖と書かれてあった。

今回は、この先で旧街道歩きを中断して、
今夜の宿である北上駅前のホテルに向かう。





詳細リンク:旧奥州街道393「北上市・和賀川~黒沢尻」/街道意写真紀行
(岩手県北上市鬼柳町、九年橋、若宮町) 1110/1112

2011/12/04

映画「コンテイジョン」

平成23年11月
新宿ピカデリー


タイトル キャスト コメント
コンテイジョン

 2011年 米
    
 監督
  スティーヴン・
   ソダーバーグ
  
  マリオン・
    コティヤール

  マット・デイモン

  ローレンス・
    フィッシュバーン

  ジュドー・ロウ
 
  
      

  接触によって感染する強力なウィルスが世界各地に拡大していく中で、社会が混乱し、人々が異常なパニック状態に陥っていく様子をリアルに描いている。
  香港への出張後にシカゴで、元恋人と密会していた人妻が、咳と熱の症状が出始める。同じ頃、香港、ロンドン、東京で似た様な症状で亡くなる人が続出・・・
  パニックムービーであるが、淡々と記録映画のようにモンタージュして行く手法は、緊迫感を盛り上げ、問題点を浮き彫りにし、奥の深い映画となっている。



詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/12/01

北上市・相去町~鬼柳町/旧奥州街道392

68aisari24s  領境塚/南部領と伊達領

街道左側にある伊達藩と南部藩の境界にある領境塚が再建されている。
ここより右(北側)は南部領で、左側が伊達領であった。




68aisari26

本郷川堤

南部領の鬼柳町に入る。

写真は鬼柳を流れる本郷川の土手で、ここにか架かっている橋が本郷橋だ。
この本郷橋の手前左手に、南部藩最南端の鬼柳関所があったところである。

鬼柳御番所とも言われ、江戸方面の関門として南部藩の中で、
最も重要な関所であった。

また、鬼柳には藩主・公儀用の宿泊・休憩施設である御仮屋と、
馬を継ぐ伝馬所などの小規模な宿駅の機能も備えていたようだ。




68aisari27s  南部藩鬼柳関所跡

鬼柳関所跡には標柱と、説明板、ベンチが置かれてあった。

説明によると、関所には二人の役人の他、同心、足軽が
常駐していたとのこと。

ここで、小休憩させていただく。
ベンチはありがたい配慮で、地元の方に感謝であった。





詳細リンク:旧奥州街道392「北上市相去町~黒柳町」/街道写真紀行
(岩手県北上市相去町境、鬼柳町町分) 1110/1112

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ