« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2011年9月

2011/09/27

秀山祭・九月大歌舞伎

平成23年9月
新橋演舞場



演 目 役 者 観 劇 記

再春菘種時
舌出三番叟
 (しただしさばそう)


  長唄囃子連中
三番叟
      染五郎

千歳
      歌 昇
       (種太郎改め)

             

  荘厳な音楽が奏でられ、舞台の幕が開くと、千歳と三番叟が座についている。鼓の音に浮かれて三番叟が舌を出して舞い、千歳も加わり、子々孫々栄えることを寿ぐ。
  秀山祭、そして中村歌昇改め三代目中村又五郎、中村種太郎改め四代目中村歌昇襲名披露の幕開けに相応しい格調高い祝儀舞踊である。


恋飛脚大和往来
新口村
(にのくちむら)

  一幕
忠兵衛
      藤十郎

孫右衛門
      歌 六

梅川
      福 助

忠三郎女房
      吉 弥
  大坂淡路町飛脚問屋の忠兵衛は、遊女梅川を身請けするために商売の金に手を付け、追われる身となる。
  梅川とともに生まれ故郷の大和の新口村に辿り着く。追われる身を隠す忠兵衛と、その父孫右衛門の間を梅川が取り持ち、父子の再会が叶ったのも束の間、追っ手が迫ってくる。
  何度見ても、良い芝居だ。親子最後の対面を惜しみながら、二人は降りしきる雪の中に消えて行くシーン、死に行く男女の悲恋と親子の情愛を描いた、まさに上方和事の名作である。


菅原伝授手習鑑
寺子屋
(てらこや)

  一幕
松王丸
      吉右衛門

千代
      魁 春

武部源蔵
      又五郎 
       (歌昇改め)

戸浪
      芝 雀

春藤玄蕃
      段四郎
  武部源蔵と妻戸浪は、寺子屋を営みながら、流罪となった主人・管丞相の子、管秀才を匿っている。
  それを知った、敵の藤原時平は管秀才の首を差し出すように命じる。窮地に陥った源蔵は、今日、寺入りしたばかりの小太郎を管秀才の身代わりとし、検分役の松王丸と春藤玄蕃の前に首を差し出す・・・・
  これも、10回以上見ているが、何度見ても良い名作である。歌昇改め又五郎の熱演が光った。


勢獅子
(きおいじし)

  常磐津連中
鳶頭鶴吉
      梅 玉

鳶頭雄吉
      歌 昇
       (種太郎改め)

鳶頭亀吉
      松 禄

  江戸三大祭りの一つ、日枝神社の山王祭り。町内の御神酒所へ、鳶頭をはじめ、手古舞、鳶の者たちが勢ぞろいし、ほろ酔い気分で、曽我兄弟の仇討ちの物語や江戸前の威勢の良い踊りて盛り上がったところへ、獅子舞がやってくる。
  そして、獅子の狂いを披露し、祭り気分もそのままに一同揃って舞納めをする。  
  今回は舌出し三番叟に始まり、上方和事や寺子屋を挟み、勢獅子で大団円と、こちらまで楽しい一日であった。




詳細リンク:「歌舞伎」/悠々人の日本写真紀行

2011/09/25

JR岡山駅前/岡山

03okayama7  桃太郎像

新横浜発6:00の新幹線に乗り、岡山に到着したのは9:21であった。

岡山駅は良く利用している駅だ。
岡山では学会が何度もあり、その度に出席した。

また山陰、四国へ行く時も、岡山駅で乗り換えて行くことが多かった。
特に四国は、以前は飛行機であったが、瀬戸大橋ができてからは、
宇野線(瀬戸大橋線)で、四国入りすることが多くなった。

今回は、ここ岡山駅で写真仲間と待ち合わせしていたが、
少し時間があるので駅前を歩いてみた。

東口を出ると、目の前に岡山のシンボルともなっている桃太郎像が
建っている。
御馴染みの犬と猿と雉を従えて、鬼ヶ島(香川県女木島)方面を望む像だ。

昭和46年、岡山西ロータリークラブの寄贈で、作者は岡本錦朋である。
猿の頭上や台座の上には沢山の鳩が羽を休めていた。 




03okayama8  六高生記念像

旧制第六高等学校(現岡山大学法文科、理学部)の創立100周年を
記念して、平成12年に建てられたものだ。

高下駄、黒マント、弊衣、破帽の六高生の立像である。
台座に「青春感謝」と刻まれ、左側面には六高寮歌「北進歌」の一節、
「胸に無限の覇気あらば、守れ不屈の意気と香を」と刻まれてあった。




03okayama5  東口噴水

こちらは奇妙な形をした噴水である。孔雀をイメージしたようだ。

このすぐ近くに、洒落たウォーター・ステーション(水飲み場)ができている。
「水道のおいしい都市」にも選ばれた岡山市の水道水を
利用した水飲み場である。




03okayama9_2  岡山駅前

駅前の写真で、左側に岡山電気軌道(路面電車)の岡山駅前電停が
写っている。

なんと明治4年に開業した歴史の或る路面電車である。
地元の人は、岡電と呼んでいるようだ。

この写真の右側が桃太郎大通りで、駅前と岡電の城下駅を結ぶ約1kmの
目抜き通りである。





詳細リンク:岡山「JR岡山駅前」/悠々人の日本写真紀行
岡山県岡山市  0804/1109

2011/09/20

JR金ケ崎駅/旧奥州街道381

66kanegask22

金ケ崎駅前通

金ヶ崎西根檀原より、再び矢来交差点まで戻り、JR東北本線の
金ケ崎駅前通りを駅に向かう。




66kanegask20

JR金ケ崎駅

JR金ケ崎駅駅舎である。
平成16年に改築されたばかりの駅舎で、中には金ケ崎商工会と
岩手ふるさと農業協同組合金ケ崎支店が入っている。

金ケ崎駅は、明治30年の開業で、東京から477.7kmの駅だ。

今回はここから、東北本線の上り14:13の電車で一ノ関駅まで行き、
一ノ関から東京行きの新幹線に乗換え、帰宅した。




66kanegask21s  駅舎内

駅舎内に、地元の産業等の紹介展示がしてあった。
金ケ崎栄町振興会と書かれてある。

金ケ崎には大規模工業団地(岩手中部工業団地)がり、
そこの企業(関東自動車工業、富士通、アイシン東北、塩野義製薬、他)が
紹介されてあった。

ここで、金ケ崎町観光協会発行のタウンマップと、
金ケ崎観光案内を頂く(謝)。





詳細リンク:旧奥州街道381「JR金ケ崎駅」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町西根) 1012/1109

2011/09/18

金ケ崎町矢来~檀原/旧奥州街道380

66kanegask16

矢来交差点、JR金ケ崎駅入口

金ケ崎宿の本町から矢来に変わる。
矢来は、竹や丸太を縦横に粗く組んだ囲いの意である。

ここには、商人では無く、足軽が住んでいたところだ。
金ケ崎宿は商人町(町屋)である本町を挟んで、北の出入り口(矢来)と、
南の出入り口(南町)は足軽が住み、防備集落となっていた。

ここの交差点は「矢来交差点」で、この信号を左折すると、
JR東北本線の金ケ崎駅のあるところである。

 矢来交差点を抜けたところが金ヶ崎宿の出口付近であった。
江戸時代はそれこそ矢来が組んであったのであろう。




66kanegask17

檀原前分岐

やがて西根檀原(だんばら)前の分岐となる。

ここで、旧街道は県道108号線と別れ、右の道となる。




66kanegask19

旧街道/西根檀原

西根檀原の街道を進むと、次は金ケ崎西根地区から
三ケ尻(みかじり)地区となる。

次の宿場は、仙台藩から盛岡藩に変わり、間宿・黒沢尻宿(現北上市)だ。
なお、旧奥州街道の86番目の宿場は花巻宿である。

今回は、ここで旧街道歩きを中断して、JR東北本線の金ケ崎駅に
今歩いて来た道を戻る。





詳細リンク:旧奥州街道380「金ケ崎町・矢来~檀原」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町西根矢来、檀原前、檀原) 1012/1109

2011/09/17

映画「日輪の遺産」

平成23年9月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
日輪の遺産

 2010年 日
    
 監督
  佐々部 清

    堺 雅人
     
    中村 獅童

    福土 誠治

    八千草 薫

    森迫 永依

    ミッキー
       カーチス

   
   

  太平洋戦争終結真近の夏、祖国の復興を願い、フィリッピンから持ち出した、GHQ最高司令官マッカーサーの金塊を隠蔽する密命を受けた陸軍参謀本部少佐は、勤労動員として駆り出された教師と20名の少女たちとの極秘任務を遂行する。
  思い切った設定であるが、脚本もしっかりしており、安心して見られる大人向けのエンターテイメントとなっている。





詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2011/09/15

金ケ崎宿・本町/旧奥州街道379

66kanegask11

江刺街道追分

街道右側の江刺金ヶ崎線(県道108号線)の追分である。

この道を少し進むと、白糸まちなみ交流館があり、
その先が金ケ崎城(要害)のあったところである。

北上川に架かる金ケ崎橋の袂で、宿内川との合流点に、
自然の地形を利用した堅固な城(要害)であったようだ。

その金ケ崎城の南と西側に武家屋敷が広がっていた。
この辺一体は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている地域である。
ただ、保存地区内の武家屋敷は今も家人が暮らしており、
殆どが非公開となっている。




66kanegask12s  金ケ崎町役場

街道左側に、金ケ崎町役場が見えた。
金ケ崎町は、大正14年に金ケ崎村が町制施行し、
胆沢郡金ケ崎町となった古い町である。




66kanegask15_2

諏訪小路入口

本町より、諏訪小路への入口である。
諏訪小路は武家屋敷のあったところだ。

正面の赤い鳥居は、金ケ崎神社で、もとの諏訪神社である。
諏訪神社は、前九年の役の際、源頼義が諏訪の大神に勝利祈願して
勝利を得た為に、ここに勧請したと伝えられている古社である。





詳細リンク:旧奥州街道379「金ケ崎宿・本町」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町西根本町) 1012/1109

2011/09/14

金ケ崎宿・南町~本町/旧奥州街道378

66kanegask07s   奥州街道三十三里半杭跡

最初の枡形を曲がる。

街道左側に「奥州街道三十一里半杭跡」がある。
伊達政宗が幕府から命じられた一里塚の他に、
独自に仙台青葉城を起点として一里杭、半里杭を建て、
仙台藩領内統治の目安としたものだ。

従って、三十一里半とは、青葉城から約126kmの地点を示している。
なお仙台藩北端の相去御番所(相去村足軽町)の三十三里半杭が
最終杭となっている。

街道はここで右折(手前方向)となる。




66kanegask08

南町枡形

三十一里半杭の前を右折したところの写真である。

街道は、左から来て、ここで上方向(北)となり、この先の丁字路で
今度は右折(東)となる。

各曲がり角に標識杭が建っているのは、ありがたかった。



66kanegask10

江刺街道追分

最後の5番目の枡形を抜けると、かつての金ケ崎宿の中心街・本町となる。

金ケ崎は、この写真の右手に北上川と宿内川の合流点近くに、
自然の地形を利用した金ケ崎城(要害)があり、その前に武家屋敷が
展開している。

写真の街道筋は町屋(商人町)となっており、ここ本町がその中心部である。

この信号を右折すると江刺(県道108号線)だ。
江刺は旧江刺市で、平成18年の大合併で奥州市となっている。




詳細リンク:旧奥州街道378「金ケ崎宿・南町~本町」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町西根南町、本町) 1012/1109

2011/09/11

金ケ崎・西根~85金ケ崎宿/旧奥州街道377

66kanegask01

金ケ崎、泰養寺

金ケ崎町に入って、街道を進むと右手にどっしりとした構えの泰養寺がある。
永禄元年(1558年)開山の曹洞宗の寺院だ。

近世に入り、伊達藩家臣大町氏が金ヶ崎要害に300石で入ると、
この寺が家臣ともどもの菩提寺として庇護され、城下町に組み入れた。

泰養寺は、中世の舟形館の跡に建っているため、四方が堀に囲まれ、
金ヶ崎要害の南端に位置することから金ヶ崎要害の出城的役割を
持たされていた。

金ケ崎は、伊達藩の北端で、北側の南部藩と接するため、
北方警備の軍事的拠点として要害屋敷(金ケ崎城)が築かれた。

伊達領は広大であったため、領内の重要拠点に21箇所の
要害が設けられていた。
一国一城令がでるまでは支城であった。




66kanegask03

金ケ崎宿入口

泰養寺の前を通り、県道270号線から左に分岐したところである。

この道に入ったところに、「金ケ崎宿南町」の白い標識があった。
この先が、旧奥州街道85番目の宿場金ヶ崎宿の入口付近だ。

この先で、道は右に曲がりさらに右に曲がり、そして左、右、左と曲がっている。
宿場入口特有の分り難い枡形になっているところだ。

南町に入って右側に「松本甚之輔屋敷跡」と標柱に書かれた屋敷がある。
説明板のよると、かつての鉄砲、刀鍛冶の屋敷跡とのことだ。



66kanegask05s  南町道標

南町に入って、枡形を右折するところに、「奥州街道」と
書かれた道標が建てられてある。
旧街道歩きにとって、実にありがたい道標である。

南町のこの辺は古地図によると、町屋では無く「御足軽屋敷」となっている。
金ケ崎の宿場の出入り口には守護を兼ね、足軽屋敷が配置されていたようだ。





詳細リンク:旧奥州街道377「金ケ崎・西根~85金ケ崎宿」/街道写真紀行
(岩手県金ケ崎町西根寺下、南町) 1012/1109

2011/09/07

奥州市・胆沢川~金ヶ崎町/旧奥州街道376

65mizusw75

三代清水

胆沢城の西北端から胆沢川に向かう途中の河岸段丘の上に三代清水がある。
写真の畑の背後は、胆沢川が流れているところである。

三代清水は、胆沢城を建立した坂上田村麻呂、
前九年の役(1051~62年)で陸奥の豪族阿部頼時、貞任を討った
源頼義、源義家の3代の飲用に供された清水から
命名されたと伝えられている。

段丘の上に降りてみると、段丘崖のところに清水がある。
説明によると、昭和20年頃までは、地元の人の生活用水として
使用されていたようだ




65mizusw78

胆沢川

三代清水の上の狭い道を通ると、すぐ胆沢川に架かる再巡橋袂に出る。

胆沢川は、江戸時代初期までは徒渡りで、以後は船橋や舟渡しであった。
増水で渡れなくなった時の臨時の宿、「川留宿(かわどめやど)」が
河岸に設けられてあった。

再巡橋は、明治天皇の東北巡幸に備えた橋だ。
最初に架けた橋が流失し、再度巡幸される時に架け直されたため、
「再巡橋」と名付けれらた。

写真は再巡橋より下流を撮影したもので、

この先で北上川に合流するところだ。

写真右手が鎮守府八幡宮、胆沢城跡とあるところである。

胆沢川は、奥州市と金ヶ崎町の境界を流れる川で、奥羽山脈の
焼石岳(1548m)北麓を源流として、この先で北上川に合流している。

前九年の役(1051~62年))で、安倍貞任一族が、
胆沢川を楯にして戦ったところである。

この写真の少し上流の黒沢川の合流点に、安倍氏12柵の一つ、
鳥海柵(とのみのさく)があり、前九年の役では安倍宗任が柵主となっていた。




65mizusw79

金ヶ崎町境

胆沢川に架かる再巡橋を渡ると、今までの奥州市から
胆沢郡金ヶ崎(かねがさき)町となる。

左前方の集落が、旧奥州街道85番目の宿場のあった金ヶ崎だ。
塔のある白い建物は金ヶ崎町役場である。

金ヶ崎町は、西部の奥州山系の駒ヶ岳のある山岳高地から
東部の平坦地まで、1300m以上の標高差があり、町の中心部は
西から東への緩い傾斜地となっている。

平成の大合併で、金ヶ崎町、江刺市、北上市との3市町合併話も
あったが沙汰止みとなっているようだ。





詳細リンク:旧奥州街道376「奥州市・胆沢川~金ヶ崎町」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区佐倉河、金ヶ崎町西根) 1012/1109

2011/09/06

奥州市・鎮守府八幡宮/旧奥州街道375

65mizusw69

鎮守府八幡宮

胆沢城の鬼門に当たるところにある鎮守府八幡宮である。

創建は延暦20年(801年)で、坂上田村麻呂が蝦夷征討の時、

その成就を願って豊前国l宇佐の八幡神を肝臓氏、東北経営の守護神とした。

数ある神宝のなかで特に嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、
坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の
太刀などが特に貴重なものとなっている。




65mizusw71s  八幡宮社殿

八幡宮は、旧奥州街道沿いにあるため、街道を行く幕府巡検使や
仙台藩主、盛岡藩主、さらに幕末には函館奉行所へ赴任する幕府役人等が
多数参詣している。

八幡宮の社殿(上写真)。
由緒によると現社殿は文化8年(1811年)、仙台藩筆頭の八幡神として
造営されたものである。

当宮の神は国を鎮護し学問産業経済を盛んにし、災難を消滅させ
人の一生を守る八幡大神であり、御神体は最霊石と呼ばれる霊石
とのことである。 




65mizusw73

胆沢城外郭北端

胆沢城外郭の北端から、胆沢城跡を見た写真である。
実に、広漠とした感じの城跡だ。

平泉で、
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
と詠んだ芭蕉も、この地を訪れていたら、どんな句を残したであろうか。

胆沢城外郭西北端にある、史跡胆沢城跡と書かれた大きな標柱のところで、
胆沢城跡から別れ、旧奥州街道85番目の宿場金ヶ崎宿に向かう。






詳細リンク:旧奥州街道375「奥州市・鎮守八幡宮」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区佐倉河字宮ノ内、沼ノ町) 1012/1109

2011/09/05

奥州市・胆沢城政庁跡/旧奥州街道374

65mizusw64

65mizusw65

胆沢城政庁地区

胆沢城厨地区の北側に政庁地区がある。

政庁は、1辺が90m前後の土塀で囲まれた地域で、胆沢城の
中心となる施設である。

土塁には南門、政庁前門(殿門)と東門、西門が設けられ、
北側の土塁には北辺建物が取り付けられていた。

胆沢城には、弘仁6年(815年)には役人等の他に、軍団の兵士400人と、
健士(こんし)300人の計700人が駐屯していた。

兵士は60日、健士は90日の交代制で、常時700人の兵力が
維持されていたようだ。

なお、健士とは、陸奥国の辺境を警備した兵士で、租税を免ぜられ、
食料を支給されていた。




65mizusw68

胆沢城外郭北東端

政庁跡を出て、北部に向かい、茂井羅北堰にかかる九蔵川橋を渡る。

茂井羅堰は前述したが、元亀年間(1570~72年)に開削された用水である。
当然、胆沢城があった時代よりもずっとあとに掘られたものである。

茂井羅北堰を渡り、暫く進むと胆沢城外郭の北東端(上写真)となる。
白い標柱には「史跡胆沢城跡」と大きく書かれてあった。

このすぐ前方は北上川で、左側は胆沢川が流れている。
白い標柱の背後で、北上川と胆沢川が合流しているところである。





詳細リンク:旧奥州街道374「奥州市・胆沢城政庁跡~外郭北東端」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区佐倉河字渋田、沼ノ町) 1012/1109

2011/09/04

映画「ツリー・オブ・ライフ」

平成23年9月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
ツリー・
  オブ・ライフ

 2011年 米
    
 監督
  テレンス・
     マリック

  ブラッド・ピット
     
  ショーン・ベン
 
  ジェシカ・
     チャステイン              
  
  フィオナ・ショウ

   
   
  1950年代、3人の子供と、テキサスの小さな町で平凡な生活していた夫婦の40年間にわたる日々を描く。
  父親は子供達に厳しく接し、母親は細やかに愛情を注ぎこんでいた。一見幸せそうに見える家族の中で、長男は孤独を感じていく・・
  普通の平凡な生活の中の何気ない映像と、伏線として折り込まれる天地創造等の映像。
  人生の根源的な意味を問いかけてくる。見終わってから、じわっと心に響いてくる作品となっている。


詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/09/03

奥州市・胆沢城跡/旧奥州街道373

65mizusw61

鎮守府胆沢城、埋蔵文化財調査センター

谷地川を渡ると、左手に鎮守府胆沢城(いさわじょう、いさわのき)、
埋蔵文化財調査センター(写真左端)がある。

胆沢城跡や市内に埋もれた埋蔵文化財の発掘調査と研究、
出土品の保管展示を行なっている。
また、この辺が胆沢城の南側入口である外郭南門のあったところだ。

調査センターの中には、地元水沢区の英雄、アテルイ(阿弖流為)の
コーナーもできている。

侵略してきた朝廷軍に対し、蝦夷のリーダーとして
勇敢に立ち向かった人物である。

特に、延暦7年(788年)から翌年にかけての巣伏(すぶし)の戦いで、
征東大使紀古佐美(きのこさみ)率いる5万余りの朝廷軍を破ったことで
一躍有名になった。

最後は、征夷大将軍である坂上田村麻呂に降伏し、都へ送られ
処刑されている。




65mizusw62 65mizusw63

胆沢城厨地区跡

街道右側に広大な胆沢城跡が広がっている。

胆沢城は、平安時代はじめの延暦21年(802年)、坂上田村麻呂によって
この胆沢の地(現在の水沢市佐倉河渋田)に造られた古代城柵(じょうさく)だ。

外郭線の規模は、ほぼ方6丁(約44万8900㎡)。
築地塀で区画され、塀の内側と外側には溝が掘られてあった。

その後、鎮守府が国府がある多賀城からここ胆沢城に移転し、
永保3年(1083年)、後三年の役あたりまで鎮守府として機能していた。

上の写真部分は、胆沢城の厨(くりや)地区である。

説明板(下写真)によると、胆沢城の食料の管理や調理を担当しており、
宴会の料理等はこの厨で用意されていたとのこと。

この写真の後方(北側)に儀式を行う中心施設、政庁があった。





詳細リンク:旧奥州街道373「奥州市・水沢区佐倉河~胆沢城跡」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区佐倉河字薬師堂、外和田、九蔵田、渋田) 1012/1109

2011/09/02

奥州市・水沢区佐倉河/旧奥州街道372

65mizusw53

佐倉河中ノ町分岐

国道4号線(陸羽街道)に合流して暫く歩くと、中ノ町交差点となる。
ここから、右へ旧道が残されているところである。

旧道に入ると、すぐ左側に菅喜製材所(㈱スガキ)の大きな看板がある。
このまま旧道を歩くと、正面に陸羽街道(国道4号線)東バイパスの

高架を潜る。



65mizusw56s  茂井羅堰中堰

陸羽街道の高架の下の県道270号線を進むと、
茂井羅中堰に架かる橋を渡る。

胆沢平野の開拓の中心を占めていた2大用水の一つである茂井羅堰だ。
因みに、もう一つは寿安堰である。

茂井羅堰の歴史は古く、元亀年間(1570から72年)に
北郷茂井羅という女性が開削したと伝えられている。

写真は、茂井羅堰の上流を見た写真で、右前方の白い建物は
薬師堂温泉である。




65mizusw57_2

陸羽街道、薬師堂温泉入口

茂井羅中堰に架かる橋を渡るとすぐ、薬師堂温泉入口となる。

薬師堂温泉は水沢区で始めて湧出した天然温泉で、露天風呂や、
宿泊施設、大宴会場も備えられている。





詳細リンク:旧奥州街道372「奥州市・水沢区佐倉河中ノ町~十文字」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区佐倉河字中ノ町、十文字) 1012/1109

2011/09/01

奥州市・水沢区不断橋~佐倉河/旧奥州街道371

65mizusw48s  不断橋

境田堰に架かる不断橋の欄干に鉄道馬車(トテ馬車)のレリーフがある。
大正2年、水沢駅からこの不断橋を渡り、岩谷堂船場までの約8kmを
運行していた。

ここは、水沢城下の北の出入口で、警備のために御不断組の家屋が
配置され、「不断丁」(現不断町)と呼ばれていた。

因みに南の出入口には御不断組7人の家屋が配置され、
こちらは七軒町と呼ばれていた




65mizusw50

釜石跨線橋より水沢市街

水沢宿を抜けると、JR東北本線に架かる釜石跨線橋(こせんきょう)を渡る。

写真は跨線橋より、今まで歩いてきた水沢宿を振り返ったものだ。




65mizusw52s  佐倉河地蔵尊

釜石跨線橋を渡ると、左側に赤い涎掛けを付けた地蔵尊があった。
右隣の石塔は山神と刻まれてあった。  





詳細リンク:旧奥州街道371「奥州市・水沢区不断橋~佐倉河」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区不断町、佐倉河) 1012/1109

« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ