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2011年8月

2011/08/29

奥州市・水沢宿立町~川口町/旧奥州街道370

65mizusw43s  立町旧家

立町の旧家。
立町には、かつての面影を残す町屋の建物が何軒が残されている。

大町、横町とともに、ここ立町にも問屋場があった。




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上伊沢代官所跡

立町の交差点を右折すると、川口町となり、すぐ左側に仙台藩の
上伊沢代官所跡がある。
今でも立派な屋敷構えの家となっている。

川口町は水沢宿の北端の町で、はじめ新町と呼ばれた新しい町であった。

延宝年間(1673~81年)に河内町となり、
さらに元禄年間(1688~1704年)の頃、現在の川口町に改められた。

川口町を北に進むと、右側に川口町のポケットパークがあった。
他の水沢宿5町と同じように纏(町印)が飾ってあった。

川口町は「仁心火防定鎮」の最初の文字「仁」である。




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大日堂

街道左側にある大日堂。

創建は不明であるが、宝永5年(1776年)の風土記「塩釜村御用書出」に、
羽黒派九ヶ院の名前が記載されており、その一つである喜楽院の
修験道場が川口町にあった。

その地が、現在の大日堂である。
明治初年の廃仏毀釈で、修験道場は姿を消したが、現在は大日如来が
本尊として祀られている。

写真左端の鳥居の前の巨石には、古峰山と刻まれてあった。





詳細リンク:旧奥州街道370「奥州市・水沢宿立町~川口町]/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区立町、川口町) 1012/1108

2011/08/28

映画「復讐捜査線」

平成23年8月
横浜ムービル



タイトル キャスト コメント
復讐捜査線

 2010年 米
    
 監督
  マーティン・
    キャンベル

  メル・
     ギブソン
     

  レイ・
     ウィンストン 
  ダニー・
     ヒューストン
              
  ボヤナ・
     ノヴァコヴィッチ

  ショーン・
     ロバーツ

   
   
  ボストン警察殺人課に勤務する刑事の自宅の玄関先で、娘が射殺される。最初は刑事に恨みを持つものの仕業で娘を誤射したものと見られたが、捜査を進めていくと、やがて娘が勤めていた軍事企業に絡む巨大な陰謀に辿り着く・・・
  娘を殺された父親が、復讐の鬼となり、強大な組織に挑むさまをテンポ良く、痛快に見せている。メル・ギブソンの熱演も良かった。
  それにしても、邦題の「復讐捜査線」は如何にもチープでB級作品を思わせてしまう。因みに原題は「EDGE OF DARKNESS」である。





詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/08/25

奥州市・水沢宿大町~立町/旧奥州街道369

65mizusw38s  明治天皇行在所跡碑

水沢宿の大町(おおまち)を進むと、左側に明治天皇行在所跡碑がある。
東北巡幸の際、ここで休まれたようだ。
今は普通の商家となっており当時の面影は全くなかった。

大町には問屋場や検断があり、水沢を代表する商人たちが
軒を並べていたところである。
往時は、明治天皇が休める立派な屋敷があったのであろう。

行在所跡のすぐ先に大手枡形入口の刻まれた石柱がある。
ここから左に入ると、かっての水沢城の正面入口があった。

今、城跡は奥州市役所となっているところである。  




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乙女川先人館、大町スポットパーク

街道左側に乙女川先人館ができている。

水沢区は、偉人が多く生まれた場所ということで、いろいろと記念館が
できているが、ここは、乙女川に所縁のある三先人の山崎為徳、箕作省吾、
吉川鉄之助についての資料が展示されている。

山崎為徳は、斉藤實、後藤新平と並び、郷土の3秀才と謳われ、
キリスト教への深い信仰と、全人教育に生涯を捧げた人だ。
箕作省吾は、幕末の地理学者で、世界地誌「坤輿図識(こんよずし)」を著し、
吉川鉄之助は、北海道開拓の先駆者である。

また、ここでは乙女側流域の植物や生物なども展示してある。

左手前は、大町の纏(町印)である。
大町は前述の「仁心火防定鎮」のうち、「防」の字が当てられている。




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水沢宿立町

水沢宿の柳町に入り、乙女川を渡る。
乙女川は、胆沢川から、胆沢区若柳で取水した用水路茂井羅堰で、
水沢付近の呼称となっている。

茂井羅堰は、元亀年間(1570~73年)に拓かれたと
伝えられている用水路だ。

なお、柳町は水沢で最も古い町で、遊郭があった処である。

柳町の交差点で左折すると立町となる。

街道右側に、歴史を感じさせる店舗が並んでいた。
右から4軒目の店の軒先には太鼓を模した看板が吊り下げられてあった。
看板には「太鼓 高松商店」と書かれてあった。





詳細リンク:旧奥州街道369「奥州市・水沢宿大町~立町」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区大町、柳町、立町) 1012/1108

2011/08/23

奥州市・水沢宿横町~大町/旧奥州街道368

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JR水沢駅前通

水沢駅前通り。

手元の地図には水沢停車場線と記されている。
この先450mのところに、JR東北本線の水沢駅がある。
水沢駅は明治23年の開業で、東京より470.1kmの駅である。

この通りは、すっかり恒例となった「奥州水沢夏祭り」のメイン会場と
なるところだ。
2000人以上が踊り歩く「水沢ざっつぁかまつり」や
創作演舞が披露される「千支和」等が行なわれる。




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大町町並

水沢宿横町から大町に入る。
ここが水沢宿の中心であった。

写真中央の店舗は酒屋の千葉正商店である。
清酒新政と、岩手の地酒セット「水沢三偉人物語」発売元の看板が
架かっていた。

水沢は偉人の町としても知られている。
その中で特に、高野長英、後藤新平、斎藤實が水沢三偉人と
呼ばれているようだ。
市内に、三人ともそれぞれ立派な記念館が建てられている。

そういえば、民主党の小沢一郎氏の本籍地も水沢区袋町である。
地元の水沢小学校、東水沢中学校(旧常盤中学校)で学んでいる。

いずれ水沢偉人の一人として数えられるのであろう。




65mizusw36s  南枡形入口跡碑

左側に南枡形入口跡の石柱が建っている。
大町より水沢城(現奥州市役所)へ向かう二本の道の一つで、
枡形(クランク形道路)となっていた。

さらに進むと道幅が狭くなる。

左手に後藤屋は老舗の和菓子専門店がある。
前述の酒屋の「水沢三偉人セット」ではないが、こちらは、後藤新平の
「大風呂敷」、高野長英の「二物考」をそのまま名付けた
菓子折りが売られていた。

駒ケ岳の残雪の形を模した「駒かすみ」や、民謡の「麦つき節」を
そのまま名付けて、水沢銘菓として販売している。

お国柄を感じさせる、微笑ましいネーミングである。





詳細リンク:旧奥州街道368「奥州市・水沢宿横町~大町」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区横町、大町) 1012/1108

2011/08/22

奥州市・水沢宿駒形神社~横町/旧奥州街道367

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陸中一宮、駒形神社

水沢公園の西端にある陸中一宮駒形神社。
祭神はオオヒルメノミコト他

胆沢郡金ヶ崎町と北上市和賀町の境に位置する駒ケ岳山頂にあった
駒形神社奥宮を、明治36年に現在地に移したもの。


なお、駒形神社は、明治4年の太政官布告により、県内唯一の
国幣小社となっている。

ここにもともとあった塩竈神社は駒形神社の摂社となった。

江戸時代の駒形山頂は仙台藩と盛岡藩の藩境であったため、
駒形神社の社殿の建て替えは両藩が20年毎に交互に行なったという。

駒形神社は延喜式内社に記録されている古社だ。

なお、塩竈神社は寛永6年(1629年)に
水沢の領主となった留守宗利(るすむねとし)が、
父政景が崇敬していた塩竈市の塩竈神社を勧請したと伝えられている。




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横町交差点

横町交差点の角にある小広場。
心字の街水沢と横町組町印(ちょうじるし)の説明板がある。

水沢は、旧奥州街道の宿駅の一つとして形成され、江戸時代から
宿場・火移動交通関係や魚網生産等の産業で発展してきた。

町の中心である水沢城と六町(川口町、立町、柳町、大町、横町、袋町)は、
防衛上の理由と繁栄の願いから「心」の字形を象って整備されたと
いわれている。

また、水沢の近世の歴史は、度々起きた大火との戦いの歴史でもあった。

留守宗景の時代、江戸の大火を契機に、
水沢でも火消しの原形となる組織ができた。
その後、村景の時代、江戸の町火消組織に習い、
六町に火消組が編成された。

各組の町印は、城主が火消組の印として六町にそれぞれ与えたといわれる。
「仁心火防定鎮(じんしんかぼうじょうちん)」の6文字の一字が、
町ごとに割り当てられた。

ここ横町は「定」である。

今、この町印は毎年行なわれる火防祭りの当日、六町組の先頭に並ぶ
大型のシンボルとなっている。




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横町町並み

横町は、寛永年間の検地帳では、六町の中で最も多くの町屋があり、
安永5年(1776)の調べでも90軒を超えていた。

明治に入ってからも、老舗の多い商人の町として栄え、今もその面影である
商家の土蔵が何軒か残されている。

なお、横町の町名は、城から見て大町の横に連なる町であることから、
名付けられたようだ。





詳細リンク:旧奥州街道367「奥州市・水沢宿宮下町~横町」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区中上野町、宮下町、横町) 1012/1108

2011/08/20

奥州市・水沢公園/旧奥州街道366

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水沢公園

常盤水路に架かる橋を渡り、段丘崖の急坂を上がると、
広大な水沢公園となる。

園内には、500本を越える桜が植えられ、特に樹齢300年の
ヒガンサクラ古木の群生は、岩手県の天然記念物に指定されている。

その他、野球場、陸上競技場、テニスコート、体育館があり、
水沢出身の蘭学者、高野長英記念館も建てられている。

この公園は、江戸時代までは塩竈神社と愛宕社があったところで、
水沢の大火で消失。
明治11年、戸長小岩昌や辻山義直等の提唱で公園化された。

造園は、美濃国安八郡結村生まれの蓑虫山人(みのむしさんじん)が
行なった。
蓑虫山人は、旅絵師で造園家でもあったようだ。




65mizusw26s 芭蕉句碑

安永4年(1775年)に建てられた芭蕉句碑。
元禄10年(1697)に出された句集「炭俵」の中の一句
  「傘でおし 分見たる やなぎかな」と刻んである。

夏草庵と二十四庵社中が協力して建てた句碑で、
もと水沢宿柳町にあったものを移したものだ。




65mizusw27s  後藤新平銅像

後藤新平が、ボーイスカウト日本連盟初代総長になったときの銅像である。
ボーイスカウトの制服である半ズボン姿だ。
スカウト運動の普及のため、連盟に当時の金で10万円の大金を
寄付している。 

後藤新平は安政4年(1857年)胆沢郡塩釜村(現奥州市)で生まれ、
須賀川医学校を卒業。
満州鉄道総裁、通信大臣、鉄道院総裁、内務、外務大臣等を歴任している。

晩年に残した言葉、「金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、
人を残して死ぬ者は上だ」がある。

含蓄のある言葉だ。





詳細リンク:旧奥州街道366「奥州市・水沢公園」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区中上野町) 1012/1108

2011/08/19

演劇「八月花形歌舞伎」

平成23年8月
新橋演舞場

演 目 役 者 観 劇 記
G2 作・演出

新作歌舞伎
東雲鳥恋真似琴(あけがらすこいのまねごと)


   二幕
藤川新左衛門
      橋之助

小夜
      福 助

関口多膳
      扇 雀

左宝月
      獅 童

お若
      七之助

      弥十郎
      勘太郎
      萬次郎

             

  御家人藤川新左衛門は堅物で、今まで郭に足を踏み入れたことも無かったが、初対面の花魁小夜に心奪われ、ひょんなことから身請けすることになる。
  小夜には、新左衛門の親友で関口多膳という間夫がいたが、新左衛門に惹かれた小夜は、多膳に愛想尽かしをする。
  それを多膳は、怒りに任せて切り捨て、死体を川に流してしまう。
  しかし、新左衛門は小夜が死んだことを信ぜず、人形師左宝月が作った小夜そっくりの人形が届けらると、新左衛門と小夜の人形との奇妙な生活が始まる・・・
  まさに新作歌舞伎で、舞台の展開も速く、脚本も無駄がなく、楽しめる魅力的な芝居となっていた。
  新左衛門の橋之助のとぼけた演技も良かったが、人形師を演じた獅童の存在感も流石であった。

九條武子作「四季」より
夏 魂まつり
(なつ、たままつり)

   常磐津連中
若旦那栄太郎
      芝 翫

芸者お梅
      福 助

芸者お駒
      橋之助

      国 生
      宣 生
  京の加茂川ベリ。如意ヶ嶽の山腹で焚かれる大文字の送り火を見るために、若旦那が芸者たちを連れてやってくる。そして、幻のように夜空を焦がす炎を眺めながら、故人の精霊たちを思い、過ぎ行く夏を惜しむという舞踊詩。
  今の季節ピッタリの演目で、芝翫が子息や孫とともに情緒豊かに舞っていた。



詳細リンク:「演劇」/悠々人の日本写真紀行

2011/08/17

奥州市・84水沢宿/旧奥州街道365

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水沢宿袋町

南町交差点左折する。

この辺が水沢宿(城下)の入口付近であったのであろう。
地名は袋町となり、江戸時代はここに大門(木戸)が設けられていた。

水沢宿は、南から袋町、横町、大町、柳町、立町、川口町と
町屋の6町が置かれていた。

江戸時代の水沢は、水沢城(一国一城令により水沢要害と名称変更)に
仙台藩一門の伊達宗利が入り、以降明治維新に至るまで、
水沢伊達氏の統治が続いた。

宗利は、城を中心に家臣団を配置し、奥州街道沿いには
商家町として商人を集め、その外側(東側)には寺院を集め寺町を形成させた。

写真は、水沢宿の南端の袋町町並みである。
如何にも商人の町らしい町名となっている。
左の木造の店舗は菊清材木店、そして菓子屋の松林堂のあるところだ。




65mizusw20s  袋町八雲神社

街道右側の八雲神社入口に袋町と書かれた粋な纏が飾ってあった。

元は袋町の牛頭天王社で、安政6年(1859年)の水沢の大火で、
現水沢公園にあった愛宕社も焼失し、神霊をここに納めたとのことだ。




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常盤水路

旧街道から左折し、水沢公園に行く途中にある常盤水路(宮下川)だ。
水沢宿袋町の南側を東西に流れている水路である。
転落防止の為か、柵がものものしかった。

水沢は、北側を西から東に流れる胆沢川によって形成された、
胆沢扇状地の東端に位置し、南北に北上川が流れている。

水沢の地名の由来は、扇状地の扇端部地形に特徴的な湧水が
多かったことから付けられた地名であろう。

江戸時代、城下町の中に乙女川を筆頭に、小さな川が何本も流れ込み、
これを町割りや堀に利用するなどして街づくりが行なわれた。
写真の常盤水路もその一つである。



詳細リンク:旧奥州街道365「奥州市・84水沢宿」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区南町、袋町) 1012/1108

2011/08/16

奥州市・水沢区真城~山崎町/旧奥州街道364

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国道4号線分岐

国道歩きに飽いてきた頃に、県道佐倉真城線(226号線)と
国道4号線の分岐点に着く。
ここからは、左側の県道を歩くことになる。

霧は晴れそうで、なかなか晴れなかった。




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真城一里塚

分岐を左に曲がったところに左の民家の庭先に、
真城の一里塚が残されている。

東側は道路の拡幅で無くなり、西側のみが残されている。

説明版によると、この一里塚は仙台から30番目の塚で、
下伊澤郡須江(すえ)村に位置していたとのことだ。

説明板の中に描かれている元禄時代の水沢城下と奥州街道の絵図は、

街道歩きにはありがたかった。



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森城山墓地

左側に「斎藤實、山崎為徳、原田甲斐の妻の墓所」と書かれた
大きな道標があったので、急な段丘崖を登ってみると、目の前に
広大な墓地が広がっていた。

手元の地図には森城山墓地と書かれてあった。 

写真右前方が斎藤實の墓標(山崎斎藤墓地)だ。
安政5年(1858年)水沢伊達氏家臣の子として生まれ、後海軍大将、
朝鮮総督、第30代内閣総理大臣となった人である。

そして、二・二六事件で青年将校に暗殺され、77歳の生涯を閉じた。

なお、山崎為徳と原田甲斐の妻の墓標はわからなかった。

山崎為徳は、安政4年に水沢伊達氏家臣の子として
生まれた明治初期の宗教家、神学者である。
東京大学の前身である開成学校に入り、のち新島襄の同志社に入った。

招かれて帰郷しプロテスタントの教えを説き、水沢にキリスト教を
根付かせた人とのことだ。





詳細リンク:旧奥州街道「奥州市・水沢区真城~山崎町」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区真城字中上野、東上野、山崎町) 1012/1108

2011/08/14

奥州市・水沢区、旧真城村/旧奥州街道363

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真城歩道橋

国道4号線に架かる、水沢区本城の歩道橋。
この歩道橋を渡って右側に真城小学校がある。

真城小学校は、かつての真城村のほぼ中央に位置している。

ちょうど、朝の通学時間帯であった。
グループことに一列になった登校していた。




65mizusw09s  旧真城村役場跡

旧真城村の中心部で、ここに村役場があった。
真城村は、明治22年に中野村、秋成村が合併し胆沢郡真城村となった。

昭和29年に水沢市となるまで、使用されていた村役場の跡である。 




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立木八幡神社

赤い鳥居を潜り、参道を進むと、階段の上に立木八幡神社社殿がある。
祭神は、誉田別命(ほむたわけのみこと)とのことだ。

八幡神は誉田別命(応神天皇)の神霊とされている。

立木神社は、旧東海道の草津宿(滋賀県)にあるのが知られている。
祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)である。

この立木神社と、八幡神社が合祀したのであろうか。

立木八幡神社の境内に御神水、銀銭清水之滝があり、
ちゃんと、水が流れていた。





詳細リンク:旧奥州街道363「奥州市・真城高田~南上野」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区真城字高田、大槽、南上野)
1012/1108

2011/08/13

奥州市・水沢区真城/旧奥州街道362

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水沢区真城

国道4号線に合流すると、東京より463kmの道路標識があった。
毎度の事ながら、この標識を見ると、励みになる。
ここまで463km、よくも無事に歩いてきたもんだと・・・

左側の高台にあるのは真城寺である。

真城寺の観音様は胆沢三十三観音零場の第23番札所となっている。
現国道を見守るように建てられてあった。




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哈川神社

街道左側にある、哈川神社。
これは「はせんじんじゃ」と読むそうだ。

市内真城雷神に住む今野養市氏が、昭和49年に独力で建立したものだ。
地元の管野正夫を顕彰し慰霊しようと、江刺にあった三宝神社を
遷座したようだ。

菅野正夫は、当時のベストセラーであった「土と戦ふ」の著者で、
自分の満蒙開拓青少年義勇軍での経験を綴ったものだ。

今野養市氏は、やはり満蒙開拓青少年義勇団の一員で、
哈川で菅野正夫と一緒であった。

神社拝殿の隣接して、真新しい顕彰碑「菅野正男君之碑」が建っていた。




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真城稲荷神社

街道左側にある稲荷神社。

日本全国で約6万社を超えると言われる稲荷神を祀る稲荷神社は、
各地にあるが、ここの対の石造狐は見事であった。

江戸時代になると、「江戸に多いものは火事と喧嘩に加えて、伊勢屋、
稲荷に、犬もくそ」とまでいわれたぐらい、稲荷神社は多かったようだ。




詳細リンク:旧奥州街道362「奥州市・水沢区真城」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区真城字上野、雷神) 1012/1108


2011/08/12

奥州市・間宿折居/旧奥州街道361

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間宿折居入口

宮沢川に架かる折居橋のところで、国道4号線から別れ左側の旧道に入る。

歓迎、「風鈴のまち水沢」と書かれた大きなモニュメントがあった。
南部風鈴の産地として知られているところだ。

水沢は、もと伊達氏支藩1万6千石の城下町で、水田が広く、
北上穀倉地帯の中心であった。

昭和29年に胆沢(いさわ)郡水沢町、佐倉河、真城(しんじょう)、
姉体(あねたい)村、及び江刺郡羽田、黒石村と合併して市制を敷いている。

平成18年、江刺市ほかと合併し現在の奥州市になった。




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間宿・折居

少し進むと、折井の集落となる。かつての奥州街道の間宿であったところだ。

霧のため、不思議な雰囲気の町並みであった。




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桜並木通

折居の集落を抜けると、古くからの桜並木が残されている道となる。




詳細リンク:旧奥州街道361「奥州市・間宿折居」/街道写真紀行
(岩手県奥州市水沢区真城折居町) 1012/1108

 

2011/08/10

奥州市・前沢区古城~水沢区折居/旧奥州街道360

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国道4号線

一関のホテルを6:00に出て、一ノ関発6:11の盛岡行き電車で、
昨日中断した前沢駅に戻る。

一ノ関駅はそうでもなかったが、前沢駅に着くと、濃い霧の中であった。
安全のためのLEDの小型ライトを点灯しての街道歩きとなった。

丑沢交差点で、旧街道と国道4合線が合流して暫く進むと、
辺りが少し明るくなってきた。

写真は前沢区古城(こじょう)地区で、この先で松の木沢川に
架かる松の木沢橋を
渡る。



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折居交差点

やがて、折居の交差点となる。

ここを左に曲がると胆沢(県道176号線)で、
右側にJR陸中折居駅のあるところだ。

この信号を超えると、奥州市前沢区古城から水沢区折居に入る。
水沢区はもとの水沢市で、平成の大合併(平成18年)で奥州市となった。




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間宿・折居分岐

水沢区に入り、少し進むとY分岐となる。
旧街道は、ここで左の細い道となる。
かつての間宿・折居の入口である。

分岐点では地元のボランティアの方が、横断歩道で誘導を行なっている。
挨拶をすると、気持ちの良い返事がかえってきた。

横浜から歩いて来たというと驚いていた。




詳細リンク:旧奥州街道360「奥州市・前沢区古城~水沢区折居」/街道写真紀行
(岩手県奥州市前沢区古城、水沢区折居) 1012/1108

2011/08/08

奥州市・前沢宿~JR前沢駅/旧奥州街道359

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新町枡形

新町の枡形になっているところだ。
この辺が、前沢宿の出口付近であったのであろうか。

新町の枡形を抜けると、二十人町となる。
現前沢区市街地の北端となり、この先で国道4号線に合流している。

今回はここで街道歩きを中断して、JR前沢駅に向かう。




63maesaw35

JR前沢駅前通り

前沢駅前通である。
駅の方から、旅館三浦屋、半田屋と2軒あるところだ。

また右側に仁衛堂薬局本家がある。
明暦2年(1656年)創業の老舗だ。屋根の形状が特異であった。

その右隣りに小野寺菓子店があり、名物手焼前沢せんべいと
牛の里せんべいの幟がたっていた。




63maesaw36s  JR前沢駅

JR前沢駅は明治23年に開業している。
東京より459.9kmの距離である。

今回はここから16:20発の上り電車で一関駅に向かう。
一関に着いたのは16:35であった。
少し早かったが駅前のホテルサンルート一ノ関にチェックインする。

夜は大人しく、ホテルのレストランで夕食をとった。





詳細リンク:旧奥州街道359「奥州市・前沢宿~JR前沢駅」/街道写真紀行
(岩手県奥州市前沢区新町、二十人町、三日町新裏) 1012/1108

2011/08/06

奥州市・前沢宿新町/旧奥州街道358

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旧前沢町、俯瞰

霊桃寺の境内から前沢区(旧前沢町)の中心部を俯瞰した写真である。

明治22年に、前沢村、白馬村、稲置村の一部が合併し前沢町となり、
昭和30年に、白山村、古城村、生母村を合併した。

そして、平成18年に水沢、江刺2市と前沢町、胆沢町、衣川村が合併し
現在の奥州市となっている。




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前沢宿・新町

旧街道に復帰する。
住所は七日町から新町と変わる。


新町には見所のある旧家が散見されるところだ。

街道左手にある岩手銘醸㈱は大正初期から続く蔵元が合併して
できた会社だ。
銘柄は大桜・陸奥の友とか。
全国新酒選評会金賞受賞との看板が誇らしげであった。

また右側にある千田商店(米屋)の店舗は如何にも老舗と言う感じであった。



63maesaw29s  熊堅神社

街道左側の熊堅神社参道。
やはり北上川河岸段丘の上にある神社だ。

段丘の上に霊桃寺、熊堅神社、専念寺、秋葉山神社、久成寺等が、
前沢宿を見下ろして並んでいるところである。

熊堅神社は、最初熊野神社の間違いかと思ったが、手元の地図にも、
また鳥居の額束にも「熊堅神社」と書かれてあった。





詳細リンク:旧奥州街道358「奥州市・前沢宿新町」/街道写真紀行
(岩手県奥州市前沢区新町) 1012/1108

2011/08/05

奥州市・前沢宿七日町/旧奥州街道357

63maesaw21a

七日町、太田家

街道右側に一際大きな旧家、太田家がある。

主家(おもや)の外観、内部は和風建築であるが、小屋組、洋間、
階段などの一部は洋風となっている。

主家、表門、前座敷、炊場(たきば)は、日露戦争後の不況、大凶作と続く
時代背景に、材料・職人の殆どを地元で賄う救済事業の一つとして、
明治43年に5代当主太田幸五郎により建築された。

明治期に建てられた近代和風建築の民家として、
岩手県指定有形文化財第1号の指定を受けている。

初代から4代目までの当主は、幸蔵を名乗り、5代目から幸五郎と
続くことから、「太幸邸(だいこうてい)」とも呼ばれていた。

なお、庭園の紅海は樹齢450年で、前沢町指定天然記念物に選ばれている。




63maesaw24

霊桃寺

街道左側の北上川の河岸段丘の上にある宝林山霊桃寺(れいとうじ)である。

文永6年(1269年)、鎌倉の建長寺の第4世佛源大休正念禅師を
勧請開山として迎え、宝林山興化寺(ほうりんざんこうかじ)として、
以前からあった北長谷漆寺を改めて復興された寺だ。

天正年間(1573~91年)に、前沢領主大内定綱の菩提所として、
興化山宝林寺と改められた。

さらに、寛文6年(1661)に、前沢領主飯坂内匠頭宗章が
16歳の若さで亡くなり、その法名「霊桃院殿心巌恵空大禅定門」から
霊桃寺と改名され今日に至っている。




63maesaw25s  霊桃寺本堂

階段を上ると、霊桃寺の本堂と庫裏がある。
奥羽三十三番の十八番札所となっている。

墓所には、高野長英の母美也(みや)の墓がある。





詳細リンク:旧奥州街道357「奥州市・前沢宿七日町」/街道写真紀行
(岩手県奥州市前沢区七日町、山下) 1012/1108

2011/08/03

奥州市・前沢宿三日町~七日町/旧奥州街道356

63maesaw16

三日町、佐藤屋旅館

三日町に入ると右側に佐藤旅館がある。
実は、街道に面したこの旅館に宿泊しようと計画していたが、
旅館であると朝食事時間が遅いので、今回は断念して一関まで戻り、
ホテルに泊まった。

佐藤屋旅館の玄関前に、「明治天皇前澤行在所」跡碑があった。
ここに宿泊されたようである。

恐らく、当時の建物と、現在のものは違うのであろう。
現在は家庭的な旅館と説明されてあった。

ここが行在所跡と事前にわかっておれば宿泊したのにと、
後になり後悔している。




63maesaw18

三日町町並み

佐藤屋旅館の前の㈱三清商店である。
古い町屋造りの店が良い佇まいを見せている。

三清商店は肥料や飼料を扱っている老舗である。




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三日町枡形

福地商店の前を過ぎると、三日町の枡形となる。
前沢宿で二つ目の枡形となっている。
この枡形部分で、右に曲がると、JR東北本線の前沢駅があるところだ。

福地商店は米屋で、茶や酒も扱っているようだ。

三日町の枡形(クランク形道)を抜けると、七日町に入る。
木造の古い店舗が残されている一角である。





詳細リンク:旧奥州街道356「奥州市・前沢宿三日町~七日町」/街道写真紀行
(岩手県奥州市前沢区三日町、七日町) 1012/1108

2011/08/02

奥州市・83前沢宿/旧奥州街道355

63maesaw11s  前沢宿・旧家

前沢宿に入り、五十人町を進むと、右側に立派な門構えの旧家がある。
「森田文庫」と書かれた古い木製の表札が架かっていた。

地元前沢区生まれの森田純氏の生家であろうか。
「女わざ、民話に生きる女たち」、「岩手むかしばなし」、「岩手の民話」等を
纏めた人である。




63maesaw12s  五十人町枡形

やがて、五十人町の枡形となる。
クランク形の道がそのまま残されているところである。




63maesaw15

前沢宿三日町町並み

県道237号線(東山、猊鼻渓方面)との追分を抜けると、
五十人町から三日町に入る。
如何にも旧宿場らしい地名が続くところである。

この辺が、旧前沢宿の中心部であったようだ。
この写真の左側にある前沢小学校は、伊達藩時代の
前沢領主三沢氏の居館跡で、当時の館門が、今も学校正門として
利用されている。





詳細リンク:旧奥州街道355「奥州市・83前沢宿」/街道写真紀行
(岩手県奥州市前沢区五十人町、三日町) 1012/1108

2011/08/01

奥州市・白鳥川~前沢宿入口/旧奥州街道354

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白鳥川

やがて前方に白鳥川に架かる橋が見えてきた。
この先で、国道4号線は右に別れ、旧道は左側の道(県道243号線)となる。

白鳥川は、この右手で北上川に合流している。

その合流点(奥州市前沢区白鳥館)が衣川柵と鳥海柵の間にあった
白鳥柵のあった処である。

安倍頼時の8男、安倍則任の居城と伝えられており、
則任は白鳥八郎とも言われていた。




63maesaw08

前沢区搭ヶ崎町並み

前沢区搭ヶ崎地区に入る。
右側の和風の立派な建物は、「前沢牛オガタ本店」と書かれた看板がたっていた。
オガタは、前沢牛、小形牧場牛の販売と前沢牛専門のレストランを経営している。




63maesaw09s  西岩寺

左側の高台にある曹洞宗西岩寺。
階段を上って右側に五百羅漢(一部)がある。

文化2年(1805年)、当時の9世唯峯不白(ゆいほうふはく)禅師が、
諸国を行脚して勧請したものであったが、昭和24年の火災で大半を焼失し、
今は28体を残すのみとなっている。

西岩寺参道入口のバス停は「丁切」という。
ここが前沢宿の入口で、「丁切」という柵が設けられ、
夜間は閉じられていたようだ。
町名は五十人町となっている。





詳細リンク:旧奥州街道354「奥州市・白鳥川~前沢宿入口」/街道写真紀行
(岩手県奥州市前沢区新城、沖田、搭ヶ崎、五十人町) 1012/1107

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