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2011年7月

2011/07/31

映画「スーパー・エイト」

平成23年7月
109シネマズ川崎

タイトル キャスト コメント
スーパー・
   エイト

 2011年 米
    
 監督
  J・J・
   エイブラムス

  ジョエル・
     コートニー
     

  エル・
     ファニング 
  
     カイル・
     チャンドラー
              
  
     ライリー・
     グリフィス

  ライアン・リー

    
   
  8mmカメラで映画撮影をしていた6人の子供たちの傍で貨物列車の衝突事故が発生。貨物列車は空軍施設からある場所へ研究資材を極秘に移送中であった。
  アメリカ政府が隠す秘密を目撃し、子供達の8mmカメラには、事故の様子が記録されていた・・
  何でもありの息も付かせぬ展開で、これぞB級娯楽映画と言う感じであった。昔、取り組んだ8mm映画作成(日本製ではスーパー8ではなくシングル8)のシーンは若き日を思い出し懐かしかった。



詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/07/28

奥州市・瀬原間宿~前沢区新城/旧奥州街道353

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間宿瀬原の町並み

微かに枡形の跡が残る間宿・瀬原の入口付近だ。

奥州市衣川区は、元の衣川村である。
平成18年、水沢市、江刺市、旧胆沢郡前沢町、胆沢町と、
この衣川村が合併して奥州市となったばかりである。

衣川は、戦前は軍馬の生産地として知られていた。
また、川西には安倍館(衣ノ館)、衣川柵跡など、前九年、後三年の役
関係の史跡や奥州藤原氏、源義経に関する遺跡の多いところである。




63maesaw04s  国道4号線合流点

瀬原の集落を抜け、国道4号線に合流する。
ここから次の奥州街道83番目の前沢宿へは峠越えとなる。

旧奥州街道は、今は道が失われているが、この左側の低い山越えであった。




63maesaw05s  前沢区交差点(白鳥バス停前)

峠道を下ると、奥州市前沢区となる。かつての胆沢郡前沢町だ。

この交差点を右に曲がると、牛の博物館がある。
前沢と言えば前沢牛の本場だ。
レストランが併設されており、前沢牛を堪能できるとのこと。

左は「舞鶴の湯」と書かれてあった。
前沢温泉舞鶴の湯のことで、宿泊施設は無いようだ。





詳細リンク:旧奥州街道353「奥州市瀬原間宿~前沢区新城」/街道写真紀行
(岩手県奥州市衣川区瀬原、前沢区照井舘、新城) 1012/1107

2011/07/27

平泉町・衣川~奥州市・衣川区/街道写真紀行352

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衣川地蔵尊

衣川の土手の下に、常夜灯と大きな地蔵尊があった。
今は失われて、その痕跡は分らないが、この辺が旧街道の道筋であったようだ

衣川の土手に上ると見晴らしが良くなる。



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衣川上流

衣川橋より上流側を見た写真である。
衣川は、奥州市の奥羽山脈高檜能山(927m)東麓を源流とする川で、
上流側は北服川とも呼ばれている。

この川の右側がかつての胆沢郡衣川村(現奥州市衣川区)で、
安倍一族の本拠地のあったところである。

衣川は、前述したように、平安時代までは蝦夷と
大和朝廷の勢力とを分ける境界線の川であった。




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奥州市衣川区、瀬原集落

衣川に架かる衣川橋を渡ると、平泉町平泉衣関から奥州市衣川区となる。

正面に衣川区瀬原の集落が見えてきた。
瀬原は、江戸時代は間宿であったところだ。

写真中央正面に見える天守閣は岐阜城を模したもので、
衣川収蔵庫懐徳館(かいとくかん)となっている。

昭和45年の岩手国体の時、開催会場を持たない市町村に対して
交付された資金でもって当時の衣川村が建てたものだ。

1~3階までは、衣川に伝わる遺物等を集めて展示し、
4階が展望台となっている。

その左の立派な建物は、国民宿舎サンホテル衣川荘である。

前方の交差点を左折すると約2kmで長者ヶ原廃寺跡がある。 

長者ヶ原は、藤原秀衡の御用商人金売吉次の屋敷跡と伝承されてきたが、
昭和33年の発掘調査の結果、一辺約100mの築地塀や、門、堂宇跡が
発見された。

寺院様式の壮大な建造物跡であることが確認された。
出土品より、奥州藤原氏の祖先、安倍氏が建立したものと見られている。




詳細リンク:旧奥州街道352「平泉町・衣川~奥州市・衣川区」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関、奥州市衣川区押切、瀬原) 1012/1107

2011/07/26

平泉町・衣関~衣川土手/旧奥州街道351

62hiraizm71s  衣関石塔

中尊寺から衣川への下り坂左側路傍にある石塔。

左は「大乗妙典一字一石搭」、右は「○搭、権大僧都 澄賢、澄水」と
刻まれてあった。(○字、判読できず)

右側に天台宗薬樹王院がある。
住所は平泉町平泉字衣関となっている。


古くから伝わるインドの仏典にでてくる薬樹王だ。
どんな大木や草花も王に見守られて生きているという「地の力」を司るという。




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杉並木坂

道は細くなり、杉並木の続く急な坂となる。 

坂の途中、左側に中尊寺墓地があるところだ。



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衣川土手

中尊寺墓地を経て、杉並木の続く急坂を下ると、樹間から衣川の土手が見えてきた。

平安時代末期まで、蝦夷と大和朝廷の勢力を分ける境界線の川であった。
この上流に衣川柵があり、阿部貞任が守っていた。

前九年の役で、義家がその貞任を追いながら

「衣のたて(舘)は ほころびにけり」と
歌の下の句を投げつけると、貞任は
「年を経し 糸の乱れの 苦しさに」と
上の句を返したという名場面の場である。





詳細リンク:旧奥州街道351「平泉町・衣関~衣川土手」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関) 1012/1107



2011/07/25

平泉町・中尊寺~衣関/旧奥州街道350

62hiraizm68s  白山神社

関山(かんざん)・中尊寺の最奥(北側)にある白山神社。
祭神は伊弉諾尊(イザナギのミコト)、伊弉冉尊(イザナミのミコト)だ。

嘉祥2年(849年)、慈覚大師が一関に加賀の一宮白山本宮より分霊して
一関に鎮座していたのを、この関山に遷座したのがはじまり。

ここの野外能楽殿は、嘉永6年(1853年)伊達藩によって再建されたもので、
近世能舞台としては東日本唯一で、国の重要文化財に指定されている。




62hiraizm69s  弁財天堂

茅葺屋根の弁財天堂は、嘉永2年(1849年)、伊達家寄進で建てられた
堂宇で、弁財天十五童子像が安置されている。




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平泉衣関

中尊寺本堂まで戻り、その手前の細い急な坂道を通り衣川に向かう。

その途中左側ににある見事な茅葺屋根の旧家だ。
位置的には、中尊寺本堂のすぐ北側にあり、道を挟んで反対側に
薬樹王院のあるところだ。
その付帯設備のようである。




詳細リンク:旧奥州街道350「平泉町・中尊寺~衣関」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関) 1012/1107

2011/07/24

平泉町・中尊寺~金色堂/旧奥州街道349

62hiraizm61s  中尊寺表門

参道右側にある中尊寺本坊表門は江戸時代初期の建立で、
伊達騒動で土佐に流された一関藩主伊達兵部邸の門を、
万治2年(1659年)に移したと伝えられている。




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中尊寺本堂

表門を潜ると、正面に山号関山、天台宗東北総本山の中尊寺本堂がある。

中尊寺は、この山全体(関山)の総称で、本寺である中尊寺と、
山内にある17の支院からなる一山寺院となっている。

この本堂は、明治42年に再建されたもので、阿弥陀如来を本尊として、
その両脇には、天台宗総本山比叡山延暦寺から分けられた
「不滅の法燈」が灯っている




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金色堂覆堂

中尊寺金色堂新覆堂。
旧覆堂にかわり、昭和37年の金色堂修復の際に新たに建築されたのが、
現在の金色堂覆堂で、古覆堂も保存、公開されている。

金色堂は、天治元年(1124年)奥州藤原氏初代清衡により造営された
中尊寺創建当初の唯一の遺構である。

中尊寺を代表する建築物にして、
奥州藤原氏の描いた平泉「浄土思想」の中心的建造物だ。

金箔張りで、柱や壁面に施された金・銀・蒔絵、螺鈿細工等、
平安末期の工芸技術の粋を集めて造られている。

堂内部には、本尊阿弥陀如来坐像を中心に、ハスの花を持った
観音菩薩立像、勢至菩薩立像、左右に三対ずつ地蔵菩薩立像、
そして持国天、増長天と配されている。

中央の須弥壇には初代清衡、左右に基衡、秀衡と奥州藤原氏最期の主、
泰衡の遺骸が安置されている。





詳細リンク:旧奥州街道349「平泉町・中尊寺~金色堂」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関) 1012/1107

2011/07/23

平泉町・中尊寺・弁慶堂~東物見/旧奥州街道348

62hiraizm56s  弁慶堂

参道左側にある通称弁(辧)慶堂。文政9年(1826年)に再建されたもの。

藤原時代五方鎮守のため、火伏の神として本尊軍地蔵菩薩を
杞愛宕宮と称した傍に義経と弁慶の木造を安置したことから
弁慶堂と呼ばれるようになった。




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東物見より衣川

参道の途中から、右側の眺望が開けた。
東物見というようだ。

左から右に衣川、縦にJR東北本線と国道4号線バイパス、そして右側が
北上川で、右側に束稲山(たばしね、596m)が見える。




62hiraizm58s  西行歌碑

東物見の傍らに西行歌碑があった。

 「ききもせず たばしね山の さくら花
      よしののほかに かかるべしとは」

と刻まれてあった。
束稲山は、今も桜の名所となっている。 





詳細リンク:旧奥州街道348「平泉町・中尊寺弁慶堂~観音堂」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関) 1012/1107

2011/07/22

平泉町・中尊寺月見坂/旧奥州街道347

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中尊寺入口

卯の花清水の前よりJR東北本線の踏切を渡り、国道4号線に合流すると
左手に中尊寺がある。

最初に中尊寺を訪れた時は、未だ高速道路が無い頃、
仕事を終えた午後5時に東京の会社を出発し、夜明け前にここ中尊寺の
駐車場に到着、仮眠をとった後に参拝したのが最初だ。

その後、妻と幼い娘を連れて、やはり車で立ち寄ったことがある。

今回は、東京日本橋から徒歩で、21日(11泊)も掛けて、ここまで来たのである。
中尊寺は3度目となるが、今回は感慨も一入であった。




62hiraizm52s  武蔵坊弁慶墓碑

参道入口右側に、武蔵坊弁慶大墓所と刻まれた大きな碑があった。
文治5年(1189年)義経の居城高舘が焼打ちされるや、
弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて立ち往生する。 

弁慶の遺骸をこの地に葬り、五輪塔をたて、
後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ句碑が建てられた。

「色かえぬ 私のあるじや 武蔵坊」、と。

弁慶はこの場所に葬られて、五輪塔が建てられてたというが、
今は大きな松の木の下に小さな石辺が残されているだけである。




62hiraizm54s 中尊寺参道

月見坂と呼ばれている中尊寺参道に入る。
参道の両側は、江戸時代平泉を治めていた伊達藩によって植樹された
樹齢300~400年の鬱蒼とした杉並木となっている。

この道は、古代の東山道筋と言われており、中尊寺から
奥の衣川関に降りていた。

衣川関に通じることから、中尊寺のある山は関山(かんざん)と呼ばれている。  




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中尊寺弁慶堂入口

急な月見坂を上ると、左側に弁慶堂がある。

中尊寺は、嘉承3年(850年)に円仁が創建した弘台寿院に始まるという。
後三年の役(1083~87年)後で清原氏が滅んだ後、
奥六郡(胆沢(いさわ)、江刺、和賀、稗抜(ひえぬき)、紫波(しわ)、岩手)と
山北三郡(せんぼく、雄勝、平鹿、山本)の支配者となった藤原清衡が、
豊田館(とよだのたち、奥州市江刺区))から平泉に拠点を移す。

この地は白河関と外浜(津軽半島)との中間点であるため、陸奥の中心地で
奥羽全域に号令しようとする清衡の意思の表れであった。

前九年の役(1051~62年)、後三年の役と続いた奥羽の戦乱の犠牲者を
弔うために、ここの寺院の整備を行なった。

中尊寺の寺号は、いろいろな説があるが、
その一つは奥羽の中心地に因んで名付けられたという。

吾妻鏡の寺塔巳下注文には、40余りの寺塔、300を越える禅坊が
立ち並んでいたと記録されている。




詳細リンク:旧奥州街道347「平泉町・中尊寺入口~月見坂」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関) 1012/1107

2011/07/21

平泉町・卯の花清水/旧奥州街道346

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束稲山と北上川

義経堂の前より北上川を見下ろす。
前方の山は手前が経塚山(519m)、背後の山が束稲山(596m)である。




62hiraizm47s  義経北行コース案内

伝説義経北行コースが設定されているのは知らなかった。

義経は文治5年(1189年)、高舘で自刃したとなっているが、
実は義経の影武者で、義経は弁慶らと共に、その一年前に
密かに平泉を脱し、北をめざして旅に出たとの伝説が残されている。

その義経北行コースの起点がここ高舘となっている。




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卯の花清水

高舘のある丘陵を下り、旧奥州街道に復帰するとほどなく、
JR東北本線の傍に出る。

写真はJR東北本線の踏切手前右側にある、卯の花清水である。

碑文に、
「文治5年(1189年)、高舘落城のとき、
主君義経とその妻子の悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、
敵将共燃え盛る火炎の中に飛び込んで
消え去った
白髪の老臣、藤原兼房、年66歳。

元禄2年、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、
「夏草」と「卯の花」の2句の残した。

白く白く卯の花が咲いている。
ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と
名付けて愛用してきた。

行き交う旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇をいやし、
そこ「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、
しばし興亡夢の跡をしのぼう」
と刻んであった。




詳細リンク:旧奥州街道346「平泉町・高舘~卯の花清水」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所) 1012/1107

2011/07/20

平泉町・高舘義経堂/旧奥州街道345

62hiraizm41s  高舘義経堂への階段

高舘のある丘陵の頂上に向かう階段だ。
この上に高舘義経堂(たかだちぎけいどう)がある。

急な階段を上りきると、義経堂の横に宝篋印搭(ほうきょいんとう)が
建てられている。

義経主従最期の地であるこの高舘に、藤原秀衡、源義経、
武蔵坊弁慶800年の遠忌を期して供養のために建てられたものだ。

義経は享年わずか31歳であった。




62hiraizm42s  高舘義経堂

義経は、文治5年(1189)閏4月30日、頼朝の圧迫に耐えかねた
秀衡の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと
伝えられている。

写真の義経堂は、天和3年(1683年)、仙台藩主第4代伊達綱村が
義経を偲んで建てたものだ。
中には義経公の木像が安置されている。




62hiraizm43s  義経像

義経堂の堂内に、本尊として祀られているのが、堂創建時に製作された
木造の源義経像だ。 

凛凛しい武者姿の像は、極めて綿密に作られている。
木造は全身像であるが、光線の具合で上部のみを撮影した。





詳細リンク:旧奥州街道345「平泉町・高舘義経像」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所) 1012/1107

2011/07/19

平泉町・柳御所~高舘/旧奥州街道344

62hiraizm35s  高舘義経堂入口

広大な柳之御所跡の西側の砂利道を高舘(たかだち)に向かう。

写真は高舘跡への上り口で、木の丸太で作られた歩きにくい急階段を上る。
高舘は、義経の居館のあったところで、義経最期の地である。

この急な階段を上りきると、高舘義経堂(ぎけいどう)の入口がある。
ここで入山料(200円)を払い、今度は石でできた階段を上る。




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北上川

階段を上ると目の前が開けてきた。

流路延長249km、流域面積19,150平方kmの東北最大の河川、
北上川で、全国でも4番目に入る。
日本の河川の中では、勾配がかなり緩いことが特徴となっている。

北上川は、岩手県岩手町の弓弭の泉(ゆはずのいずみ)を源流として、
盛岡、花巻、北上、奥州各市、平泉町、一関を通り、宮城県の石巻市で
追波湾に流入している。

写真では判り難いが、この先で左側から衣川が合流しているところである。




62hiraizm38s  芭蕉句碑

松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んだのはこの地といわれている。

高舘は、兄頼朝の不興をかい、奥州に落ちた義経の居館があった地と
伝えられている。

この山(丘)の頂に、天和3年(1683年)に仙台藩4代藩主伊達綱村が
義経を偲んで義経堂を建てている。





詳細リンク:旧奥州街道344「平泉町・柳御所~高舘」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所、舘前) 1012/1107

2011/07/18

平泉町・泉屋~柳御所/旧奥州街道343

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伽羅御所跡

JR東北本線の踏切を渡ると、街道筋はかつての宿場を思わせるような
家並みが続いているが、江戸時代の平泉は宿場では無く、
田畑や民家であった。

街道右側に伽羅御所跡と書かれた標柱が建っている。
この辺から右側北上川までが、藤原氏全盛期の三代秀衡と
最後の四代泰衡の居館があったところのようだ。

芭蕉が奥の細道で「秀衡が跡は田野となりて」と記しているところであろう。




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柳之御所史跡公園

伽羅館跡の先を右折し、少し進むと、北上川の土手の手前に
柳之御所史跡公園がある。

「吾妻鏡」の「寺搭巳下注文」に記されている秀衡の
平泉館(ひらいずみのたち)のあったところである。

発掘調査が進められ、建物・道路等の遺構が確認され、
広大な柳御所跡は、史跡公園として整備されている。




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柳之御所遺跡

柳之御所遺跡は、平安時代末(12世紀)の居館跡で、
吾妻鏡に記載されている平泉館(ひらいずみのたち)に比定され、
奥州藤原氏の政務の場と考えられている。

継続的な発掘調査によって、堀、園池、掘立柱建物、便所、厩などの遺構や、
京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されている。





詳細リンク:旧奥州街道343「平泉町・泉屋~柳御所」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字泉屋、柳御所) 1012/1107

2011/07/17

映画「小川の辺」

平成23年7月
横浜ムービル


タイトル キャスト コメント
小川の辺

 2011年 日
    
 監督
  篠原 哲雄

  東山 紀之
     

  菊地 凛子 
  勝地 涼
              
  片岡 愛之助

  松原 智恵子

  笹野 高史
  藤 竜也
    
   
  幕末、藩から上意討ちの命を受けるが、その相手は妹の夫であった。若党を連れて上意討ちの道中を行くが、気がかりは、相手も腕がたつ上に、気の強い妹も剣術の使い手であった。
  藤沢周平の短編小説を映画化したもの。気の重い上意討ちに向かう二人は、道中「ゆっくり参ろう」の台詞どおりの展開となっている。
  そして最期の大団円へと、布石をうまく折り込みながらの展開であった。





詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/07/16

平泉町・毛越寺~JR平泉駅/旧奥州街道342

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毛越寺・大泉が池畔

大泉が池の畔の松並木道を西に向かう。
快適な小径となっている。

やわらかい曲線を描いたような砂州と入江は、海岸線の優雅な美しさを
表現している由。




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大泉が池、出島石組みと池中立石

荒磯の趣を表した出島。
その先端の飛び島には、約2.5mの立石を中心にする石組となっている。

池の対岸は、左より嘉祥寺跡、講堂跡、金堂円隆寺跡、経楼跡、
鐘楼跡となっている。

大泉が池は搭山を背景にした典型的な浄土庭園で、池は南大門から中島、
円隆寺へ続く二つの橋で東西に二分されている。

かつては、この池に龍頭鷁首(げきしゅ)の船を浮かべ、
管弦の楽を奏したという。




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JR平泉駅

毛越寺からJR平泉駅に向かう。約800mの距離である。

平泉駅は屋根に平安朝様式を取り入れた駅舎で、
東北の駅百選に選定されている。
明治31年に開業、東京より452.3kmの駅である。

平泉の駅前で旧街道に復帰し、北に向かう。

JR東北本線の踏切を渡ると、右手に国遺跡の柳之御所跡のあるところだ。
藤原秀衡の平泉館(いらいずみのたち)のあったところである。





詳細リンク:旧奥州街道342「平泉町・毛越寺~JR平泉駅」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢) 1012/1107

2011/07/15

平泉町・毛越寺/旧奥州街道341

62hiraizm17s  芭蕉英文訳句碑

観自在王院跡の西側に隣接して毛越寺(もうつうじ)がある

拝観料を払い、中に入ると松尾芭蕉「夏草」英訳句碑があるのには驚いた。

  The summer grass ’Tis all that's left Of ancient warrior’ dream,
  
Inazo Nitobe.
  
と、刻まれてあった。

英訳は岩手県生まれの教育学者、農学者の新渡戸稲造である。
代表的著書に「武士道(Bushido)」がある。
昭和42年、地元有志により建立されてものだ。




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毛越寺境内

毛越寺は慈覚大師(円仁)を開祖として、藤原基衡により建立された
天台宗の寺院で、円隆寺や嘉祥寺(かしょうじ)を含む一山の総称である。

吾妻鏡には、藤原清衡が建てた中尊寺を凌ぐものと記され、
昭和29年からの発掘でそのことが明らかになった。

写真右手が毛越寺本堂である

毛越寺一山十八坊の本坊で、本尊は平安時代作の薬師如来、
脇士は日光・月光両菩薩を安置している。




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大泉が池

内中央にある大泉が池には、中島・洲浜・築山・遣水(やりみず)などがあり、
平安時代の典型的な浄土式庭園遺構となっている。

奥州藤原氏時代の毛越寺は、円隆寺とその西側に遺構が残る
嘉祥寺という二つの伽藍を中心に構成されたいた。
  
嘉祥3年(850年)、東北を旅した円仁は濃霧のため
前に進めなくなってしまった。
ふと足元を見ると、白鹿の毛が地面に点々と落ちていたので、
それを頼りに進むと、前方に白鹿がうずくまっている。

円仁が近づくと、鹿は消えて薬師如来の化身が現れ、
ここに堂宇を建てよと告げたという。

こうして、白鹿の毛に導かれて建てられたことから、毛
越寺(けごしでら、もうおつじ、もうつうじと変化)と通称され、
建立の年号から嘉祥寺と名付けられた。

一時、寺勢は衰えるが、奥州藤原氏時代に再興された。
やがて、藤原基衡が鳥羽院の命で造った本尊を安置し、円隆寺と改称し、
もとの本尊のために新たに建てたのを嘉祥寺としたようだ。




詳細リンク:旧奥州街道341「平泉町・毛越寺」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢) 1012/1107

2011/07/14

平泉町・志羅山~観自在王院跡/旧奥州街道340

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平泉町志羅山

太田川橋を渡ると、世界遺産の町・平泉の市街が一望できる。
左手の立派な建物は平泉町役場で、その奥が毛越寺のあるところだ。

この辺の住所は平泉町平泉字志羅山となっている。

平泉町役場を中心とした南北400m、東西400mの志羅山遺跡で、
道路跡、井戸跡、土土坑6基、溝跡7条、柱穴80個、遺物包含層1カ所、
古代(9~10世紀)の竪穴住居跡1棟などの他、多数の遺物が発見されている。

その中で、平安時代末期に作られた竹製の花入れが出土、
これは国内最古のものとのことだ。

また、写真の道の右下に旧奥州街道が残されているが、
立体交差になっており、下の道には行くことは出来ないので、
このまま真っ直ぐ進む。




62hiraizm12s  毛越寺口交差点

毛越寺(もうつうじ)口交差点である。
ここを右折すると、旧奥州街道となり、JRの平泉駅がある。

左折すると、県道31号線で毛越寺、厳美渓方面だ。
直進は北上、奥州方面である。

毛越寺口交差点を左折すると、立派な歩道ができていた。
さすが遺産の町、観光地である。




62hiraizm15

観自在王院跡

左折して少し歩くと、正面に毛越寺が見えてきた。

右側は観自在王院跡公園で、特別史跡毛越寺跡附鎮守社跡、観自在王院跡、
舞鶴ヶ池、そして金鶏山(98.6m)のあるところだ。

写真は観自在王院跡(国名勝)で、手前はその南門跡である。

「吾妻鏡」文治5年(1189)9月の「寺塔巳下注文」毛越寺の項に、
阿弥陀堂と号した観自在王院のことが記されている。

藤原基衡の妻であった安倍宗任の女が建立し、
荒磯(滝口)、州浜、中島などがある舞鶴ヶ池を中心にした庭園に、
南門跡、大阿弥陀堂跡、長阿弥陀堂跡の遺構が発見されている。

舞鶴ヶ池の北側には、享保年間(1716~36年)に再建された
阿弥陀堂と、基衡の墓が立っている。





詳細リンク:旧奥州街道340「平泉町・志羅山~観自在王院跡」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字志羅山) 1012/1107

2011/07/13

平泉町・祇園~太田川/旧奥州街道339

62hiraizm06s  八坂神社参道

平泉町の佐野の集落を抜けると、街道は現国道4号線に重なり
祇園地区に入る。

ここで、東京日本橋から447.1kmの距離標が路肩にあった。
よく、ここまで歩いてきたものである。

その先の路肩の看板には、平泉ホテル「武蔵坊」と大きく書かれてあった。
如何にも、義経所縁の平泉らしい雰囲気となってきた。


街道左.側に八坂神社(祇園社)がある(上写真)。
長治元年(1104年)創建で、藤原三代の平泉の五方鎮守の内の
南方に位置する「南の祇園社」として吾妻鏡に記されている古社である。

江戸時代までは祇園宮と称していたが、明治8年に、村社八坂神社と
改称された。
地名(字名)は今でも祇園となっている。




62hiraizm07s  八坂神社拝殿

八坂神社の拝殿で、祭神は 素戔嗚尊、奇稲田媛命。
現在の社殿は寛文6年(1666年)に造営されたものだ。

なお、当社は国の文化財特別史跡に指定されている。

八坂神社境内には雷神社や、八幡宮、金華山等の石塔が鎮座していた。



62hiraizm10

太田川下流側

八坂神社を離れると、程なく、大田川に架かる太田橋を渡る。
写真は、太田橋より下流(東側)を見たものだ。

正面の東稲山(596m)等の山並みと、その手前に北上川と、
国道4号線バイパス、そしてJR東北本線が並行して走っているところである。

この太田川を渡ると平泉の市街に入る。

平泉は北に衣川、東に北上川、そして南がこの太田川の三つの川に
挟まれた丘陵地域で、この3つの川が平泉の天然の要害となっていた。

また、平泉の地名は、丘陵地に泉が多く湧出していることからとの説と、
アイヌ語起原説があるようだ。

なお、太田川は平泉町と一関の市町境付近を源流として、
この先で北上川に合流している河川である。





詳細リンク:旧奥州街道339「平泉町・祇園~太田川」/街道写真紀行
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字佐野、祇園) 1012/1107

2011/07/12

平泉町境~平泉佐野/旧奥州街道338

61yamame22s  平泉町境

一関市新町と平泉町との境界である。
ここから旧奥州街道は平泉の徒歩の旅となる。

平泉は北上川西岸の平泉丘陵にあり、11世紀から12世紀末にかけて
奥州藤原氏の栄華の都のあったところである。  




62hiraizm02

平泉・佐野

バス停の「河原屋敷」のあるところで、旧道は県道260号線から分かれて
右の細い道に入る。  

旧道には入ると、右側(東側)が開けてきた。
広大な田園地帯である。

この先には、JR東北本線と北上川が並行して走り、
その背後には音羽山(539m)、経塚山(519m)、東稲山(596m)、
大平山(432m)、観音山(326m)等と続く山並みである。




62hiraizm03

平泉・佐野集落

やがて、平泉町の佐野集落に入る。
藁葺き屋根の上に瓦をのせた旧家(右手)があった。

トタン葺にする家は多いが、瓦葺は豪勢である。





詳細リンク:旧奥州街道338「平泉町境~平泉佐野」/街道写真紀行
(岩手県一関市新町、西磐井郡平泉町平泉字大佐、正法、佐野) 1012/1107

2011/07/11

一関・山目町~新町/街道写真紀行337

61yamame17s_2  龍澤寺石碑

龍澤寺参道にある石塔群。
左より、「正四位大槻玄澤先生顕彰碑」、「某供養碑」、
そして「阿部隋波居士碑」である。  

大槻玄澤は、仙台藩支藩の一関藩藩医大槻玄梁の長子として
ここ中里(旧西磐井郡中里)に生まれた蘭学者であるる。

杉田玄白、前野良沢の弟子で、「玄澤」とは師である二人から
一字ずつ貰い受けてつけた通名で、本名は茂質(しげたか)である。
後に、仙台藩の藩医になっている。

阿部隋波は前述したように地元の豪商、鉱山師である。




61yamame18_2

JR山ノ目駅

街道右側に、JR東北本線の山ノ目駅がある。
昭和3年に開業した無人駅で、路線距離は東京駅より448.0kmである。

この駅名も、地名が山目であるが、一ノ関駅と同じように
駅名には「ノ」の字が入っている。




61yamame20_2

少名彦神社

史跡標柱には「常世の穀霊、少名彦神社」と記されている。
祭神は少名彦命(すくなひこのみこと)である。

境内の掃除をしていた年配の小母さんに聞くと、ここでは
「すくなひこさん」と呼んでいるようだ。

参道を進むと、右手に少名彦神社の拝殿(写真右手)がある。

祭神の少名彦命が気になり調べてみると、
古事記で第八代孝元天皇の第二皇子とされている
少名日子建猪心命(すくなひこけたけいごころのみこと)のことであろうか。

それとも少彦名命(すくなひこなのみこと、少名毘古那神)であるなら、
神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子となる。
こちらであると、大国主神(おおくにぬしのかみ)と共に国造り、
国土の経営にあたった神となる。

その他、境内には牛頭観音菩薩、足尾神社、古峰山等々と
刻まれた古い石塔が沢山鎮座していた。


山目町より新町に入ると、左手に八雲神社の参道がある。
史跡標柱によると「五穀豊穣平安の八雲神社」と記されていた。
宝暦年間(1751~1763年)の創建と伝えられている。

祭神はスサノオノミコト(素戔鳴尊)とカグチノミコト(遇突智尊)である。





詳細リンク:旧奥州街道337「一関・山目町~新町」/街道写真紀行
(岩手県一関市山目町2、同3、中里、新町) 1012/1107

  

2011/07/10

映画「アンダルシア/女神の報復」

平成23年7月
横浜ムービル


タイトル キャスト コメント
アンダルシア/女神の報復

 2011年 日
    
 監督
  西谷 弘

  篠田 祐二
     

  黒木 メイサ
              
  戸田 恵梨香

  福山 雅治
  伊藤 英明
  加賀 丈史
  夏八木 勲
  
   
  スペインとフランスに挟まれた小国アンドラで、日本人投資家の殺人事件が発生。パリにいた海外で邦人テロ対策室に所属する外交官が調査に乗り出すと、遺体の第一発見者の女子銀行員が何者かに狙われ、インターポール捜査官は何故か捜査情報を隠そうとする・・・・
  真相を究明すべくスペインで国際犯罪の闇に立ち向かう様を描いているが、中身が冗長で少し軽薄なのが惜しまれる。海外ロケ風景は綺麗であった。





詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/07/09

一関・山目宿上町~下町/旧奥州街道336

61yamame11s  山目宿旧家

門の横に花道・茶道家元、江越宗某と書かれた古い縦看板が掲げてあった。

道の反対側には、「宿駅と流通・旧下町」と書かれた白い史跡標識があった。




61yamame14

山目宿下町

右の白い史跡標識には「金山奉行の足軽居住・旧久賀町」と書かれてあった。

左側には龍澤寺(りゅうたくじ)幼稚園である。
龍澤寺の境内に建てられている付属幼稚園だ。




61yamame15s 龍澤寺本堂

曹洞宗里中山(りちゅうざん)龍澤寺の本堂である。
山目町と中里の境界に位置する寺で、境内には
弘安4(1281年)と銘のある石塔婆がある。

また境内には、豪商で鉱山師の阿部随波の墓がある。
阿部隋波は、中里の出身で鉱山王とも呼ばれ、鹿角の白根・尾沢鉱山を
長年経営した、安倍一族の末裔とのことだ。

藩主伊達綱村に1000両を献じて士分となっている。





詳細リンク:旧奥州街道336「一関・山目宿上町~下町」/街道写真紀行
(岩手県一関市山目町1、山目町2、中里) 1012/1107

2011/07/08

一関・82山目宿/旧奥州街道335

61yamame07

82山目宿

配志和(はいしわ)神社の過ぎると、宮下町から山目町に変わり、
旧奥州街道82番目の宿場・山目(やまのめ)宿となる。

山目宿入口付近左側に小さな祠と金比羅大権現と彫られた古い石塔が
街道に面して建てられてあった。 

写真は山目宿の中心部で、かつての山目宿上町(現山目町1丁目)である。
街道右側にある美容院が問屋のあったところだ。

前方の交差点付近は県道14号線で、気仙沼方面への
今泉街道(棚瀬街道)の追分であった。




61yamame09

山目中央公民館

街道右側に中央公民館があり、その前に「照井堰改修の先覚者、
柏原清左衛門末裔屋敷跡」と書かれた標柱がある。

照井堰は、山目宿の通りに沿うように並行して、北に流れている用水路だ。

照井堰は、磐井川から取水して、一関及び平泉の平野部を灌漑する
用水路の総称で、山目地区の水路は、磐井川厳美渓の
上流小河原地区から引かれたものだ。

平安時代末期、藤原秀衡の命で工事を始め、明応2年(1493年)に
完成したものが最初と伝えられている。

写真左側の「中里公民館」と書かれた看板の右手の大きな石塔は、
「蠶(蚕)祖神」である。
この辺も、養蚕が盛んだったようだ。




61yamame10

山目宿旧家

街道左側にある、立派な門構えの旧家。
門の横に「経世の政治家棚瀬軍之佐先生邸宅」と書かれた石柱があった。

調べてみると、棚瀬軍之佐は憲政会(総裁加藤高明)の党員で、
大正8年12月に憲政会幹部として選出されている。





詳細リンク:旧奥州街道335「一関・82山目宿」/街道写真紀行
(岩手県一関市山目町1、2) 1012/1107

2011/07/07

一関・五代町~宮下町/旧奥州街道334

61yamame01

磐井川左岸

磐井側に架かる磐井橋を渡ると、田村藩から仙台藩領に変わる。
写真は、磐井橋を渡ってすぐに右折したところだ(左岸)。

ここから、旧街道は左に曲がっている。

土手の道から左折したところに、「俳聖松尾芭蕉紀行の道」碑が建っている。
元禄2年(1689年)5月13日紀行と書かれてあった。
芭蕉は一関に宿泊して、この道を通り、日帰りで平泉を往復している。




61yamame03s_2  宮城山顕彰碑

宮城山は、本名を佐藤福松と云い、明治28年にここ(五代)で生まれた。
同43年15歳の時に出羽の海部屋に入門し岩手山を名乗り、
のち宮城山と改めた。

大正11年に横綱に昇進、引退後は年寄芝田山として後進の指導に
当たっている。
同18年、49歳で他界し墓は円満寺にある。




61yamame05s  配志和神社

配志和(はいしわ)神社は延喜式神明帳に記載されている
所謂「式内社」である。

創建は日本武尊が蝦夷征伐の際に、高皇産霊尊、瓊瓊杵尊、
木花開耶姫命の三神を祀り戦勝祈願した事からとのことだ。

現在の本殿は養老元年(717年))、拝殿は正徳元年(1711年)に
改築されたものだ。

本殿前の2本の杉は「夫婦杉」と呼ばれ、樹齢は1000年を越えており、
一関市の指定天然記念物となっている。




詳細リンク:旧奥州街道334「一関・五代町~宮下町」/街道写真紀行
(岩手県一関市中央町、五代町、宮前町、宮下町) 1012/1107




2011/07/06

一関宿・田村町~磐井川/旧奥州街道333

60ichinoseki55s  世嬉の一酒造

一関の豪商「熊文」の跡地にある瀬嬉(せき)の一酒造㈱である。

大正7年に造られた、東北地方最大の土蔵である仕込み蔵を
利用して酒の民族文化博物館が開設されている。

また、酒と郷土料理が楽しめる蔵元レストランも併設している。
酒の他、自家製の地ビールもお勧めとか。

「世嬉の一」という変わった会社名は、大正時代「髭の宮様」として
知られた閑院宮戴仁親王がここに立ち寄った時に、世の人が喜ぶ酒を
造りなさいと言われたことからとのことだ。
それ以前は横谷酒造店であった。

でも、「せきのいち」は、どうみても「いちのせき」を捩ったもののようだ。
なお、「熊文」こと14代目熊谷文之助は味噌、醤油、清酒の醸造で
財を成した人だ。




60ichinoseki56s  芭蕉二夜庵跡

芭蕉は磐井川の畔にあった金森家に元禄2年(1689年)5月12日の夕刻
到着して、翌日平泉を巡り、再びここに戻り連泊している。

金森家は、芭蕉が2連泊したことから二夜庵と呼ばれるようになった。  

芭蕉はこの後、迫街道で岩出山に向かっている。
一関は奥の細道の奥州路で最北の宿であった。

金森家は、代々造り酒屋を営んできた一関きっての大地主であった。
明治天皇も東北巡幸の際、ここで休憩されたとのこと。




60ichinoseki59

磐井川下流

磐井橋より下流を眺めた写真である。

磐井川は県境の栗駒山(1627m)の北麓を源流とし、
途中渓谷厳美渓を造り、一関市街の中心を流れ、この先で北上川に
流入している川である。





詳細リンク:旧奥州街道333「一関宿・田村町~磐井川」/街道写真紀行
(岩手県一関市田村町、地主町) 1012/1107

2011/07/05

映画「星守る犬」

平成23年
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
星守る犬

 2011年 日
    
 監督
  瀧本 智行

  西田 敏行
     

  玉川 鉄二
              
  川島 海荷

  余  貴美子
  中村 獅童
  岸本 加代子
  三浦 友和
  藤   竜也 他

   
  北海道のキャンプ場の近くのワゴン車の中から、死後半年を経過したと見られる50代の男性と、死後一月の犬の遺体が発見される。
  市役所の福祉課勤務員は有休をとり、遺棄された車に残されたレシート等より、身元不明の男性と犬が辿ったと思われる道を車で遡る旅に出る。
  道中のエピソードが良く描かれていた。芸達者な役者たちに囲まれて、途中から同行することになった少女役の川島海荷も好演していた。




詳細リンク:「映画」/悠々人の日本写真紀行

2011/07/04

一関宿・大町~地主町/旧奥州街道332

60ichinoseki50s  一関宿、大町

ホテルを朝7:10に出発し、JR一ノ関駅前通りから旧街道に復帰する。
写真は大町通りで、ここから地主町にかけてが一関の中心商店街になっている。

かつての面影は無いが、旧奥州街道81番目の宿場、一関宿の
中心部であったところだ。

なお、この通りの左側の店裏は大手町となっている。




60ichinoseki53

一関宿、地主町

大町通りを北進して、地主(じしゅ)町角交差点で左折となる。

この地主町の由来は調べてみたが良く分らなかった。
天正16年(1589年)より存在する地名で、街つくりの時に地主が
土地を提供したことによる説と、時宗の寺があったことからとの説などが
あるようだ。

地主町角交差点を左折すると、地主町商店街となる(上写真)。

この道より、一本左側(南側)の道に入ると田村町となる。
かつての一関藩主田村氏の武家屋敷があったところであろうか。

武家屋敷を囲むように、大町、地主町等の商人街が続いている。




60ichinoseki53s  蔵のひろば

田村町に入ると、一関市の「蔵のひろば」がある。
蔵ホールがあり、市民に貸与しているようだ。

この辺一帯は古くからの蔵が残されているところで、
通りの名が「蔵のひろば通り」となっていた。





詳細リンク:旧奥州街道332「一関宿・大町~地主町」/街道写真紀行
(岩手県一関市大町、地主町、田村町) 1012/1107

2011/07/03

一関・釣山~JR一ノ関駅/旧奥州街道331

60ichinoseki44s 清庵野草園

一関城址にある清庵野草園。

江戸時代の宝暦5年(1755年)一関藩の侍医建部清庵が、
東北地方を襲った大飢饉の惨状を見て著した飢饉救済の書「民間備荒禄」と
その付録の「備荒草木図」に掲載されている食用・薬用植物を、
ここに集め植栽している。

60ichinoseki46

釣山公園入口

一関城址より急な坂を下ったところである。ここが釣山公園の入口である。

ここより再び街道に戻り、JR一ノ関駅に向かう。





60ichinoseki49

JR一ノ関駅

JR一ノ関駅前に出る。
市名は一関だが、駅名は「一ノ関」の「ノ」が入っている。

開業は明治23年で、東京よりは445.1km、
東北新幹線と、在来線の東北本線、大船渡線が乗り入れている。

旧街道とは距離が違うが、目安として、目標地のJR津軽三厩駅までは
795.1kmであるから、まだ目標の56%しか到達していないことになる。

今日はここで街道歩きを中断して、駅前のホテル「東横イン一ノ関駅前」に宿泊する。

夕食は駅前の割烹料理屋で済ます。
熱燗と大きな三陸蠣のフライが旨かった。





詳細リンク:旧奥州街道331「一関・釣山~JR一ノ関駅」/街道写真紀行
(岩手県一関市釣山、新大町、上大槻街) 1012/1107

2011/07/02

演劇「琉球ロマネスク/テンペスト」

赤坂ACTシアター
平成23年2月

演 目 役 者 観 劇 記
池永永一原作
羽原大介脚本
堤 幸彦演出

琉球ロマネスク
テンペスト
   仲間 由起恵

   山本 耕史

   安田 顕

   伊阪 達也

   吉岡 麻由子

   萩野 恵理 他

             

  19世紀江戸末期の琉球王国。天才少女真鶴は、王府で働くことに憧れ、男装して名を孫寧温と偽り、科試(国家試験)に合格、琉球のために懸命に働く。
  薩摩藩の青年士族と出会い、運命の悪戯、時代の流れに翻弄されながらも、琉球を守ろうとする・・・
  脚本、演出が良く、壮大な物語を上手く見せていた。男装の仲間由紀恵が凛々しかった。(DVD鑑賞)

詳細リンク:「演劇」/悠々人の日本写真紀行

2011/07/01

一関・釣山、一関城址/旧奥州街道330

60ichinoseki39

一関城址

一関城跡である。
この辺一体は、今は釣山公園として整備され、春の桜、秋の紅葉の
名所となっている。

釣山は、古くから軍事上の要塞で、高崎城とも篠見山とも呼ばれてきた。

古くは、
     征夷大将軍、坂上田村麻呂の陣地(大同年間)、
     安倍貞任の弟磐井五郎家任(いえとう)の砦(天喜年間)、
     源頼義、義家親子の篠見山の陣地(康平年間)、
     葛西氏家臣小野寺道照(どうしょう)の居城(天正年間)
であった。

葛西氏の滅亡で、伊達氏の支配となり、政宗の叔父・伊達政景が入り、
江戸時代になって仙台藩のうち3万石が分封され、最初の藩主は
政宗の10男の伊達兵部宗勝であったが、伊達騒動(寛文事件)で、
土佐に配流となり、そのあと岩沼から伊達家分家の田村建顕(たつあき)が
入封し、幕末まで11代続いた。

なお、田村氏の居館はここではなく、釣山の麓で、
現在裁判所のあるところであった。

また、写真の石碑は幕末、明治初期の郷土の教学・政治刷新の功労者
森中和(もりちゅうか、包荒(ほうこう)先生)の遺徳碑である。
岩手師範学校(現岩手大学)の校長を就任していた人だ。




60ichinoseki42

一関市街

一関城址より東側の一関市街(田村領)を見下ろした写真である。
正面奥がJR一ノ関駅である。

一関の地名は前九年の役に、関塞(関所)を設置したからと言う説と、
用水堰を開削したことによる説とあるようだ。

もと西磐井郡一関町で、昭和23年に同郡山目町及び、中里、真滝
2村と合併し市となった。

山目町は、かつて旧奥州街道の82番目の宿場のあったところである。




60ichinoseki43 

磐井川

釣山より北側(仙台領)を見た写真である。

下を流れている川は北上川支流の磐井川である。
磐井川の上流は名勝天然記念物に指定されている「厳美(げんび)渓」が
知られている。

この磐井川を挟んで左側(西側、写真)は仙台藩領で、
右側(東側)の一ノ関駅側が田村領であった。





詳細リンク:旧奥州街道330「一関・釣山~一関城址」/街道写真紀行
(岩手県一関市釣山) 1012/1107

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