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2010年9月

2010/09/29

白石宿中町~長町/旧奥州街道186

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中町・店蔵

本町から中町に入ると、旧街道はアーケードの商店街となっている。
写真は街道右手に往時の店倉を利用した骨董品・民芸品の店つどい。

左の土蔵の壁には「おしらせ瓦板」と書いた掲示板がある。
全日本こけしコンクールや春まつりのポスターが掲示されていた。

左側に旧家が見えた。明治6年創業の蔵王酒造㈱である。
地元の米をすべて自家精米し、蔵王連峰の伏流水と冬の蔵王颪の寒風を
活かした酒造りを行っているとのこと。

蔵王酒造館が併設され、酒造工程のビデオ放映や、酒器等の展示と
製品の小売販売を行っている。



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旧街道/長町

長町に入ると、正面に右角田(国道113号線)と書かれた標識がある。
亘理(わたり)町交差点である。

写真右手にポーチパークがあり、白石市の農産物直売所となっている。
百姓市場とも呼ばれ、七の市(毎月7、17、27日)が開催されている。

この農産物直売所は市内に8ヶ所もあるという。



36siroisi43s  長町・市神

ポーチパーク入口で、白石名物の市神(いちがみ)にやっとめぐり合えた。
市場の守護神で、戎をを祀っているところもあるが、
写真のような卵型や円形の自然石をご神体として祀ることが多いようだ。

白石宿の6つの商人町ごとに市が開かれ、それぞれの町に市神が
祀ってあるようだが他は確認できなかった。





詳細リンク:旧奥州街道186「白石宿中町~長町」/街道写真紀行
(宮城県白石市中町、長町、亘理町) 1004/1009

2010/09/25

白石宿本町~中町/旧奥州街道185

36siroisi33s  当信寺

白石宿入口の枡形を抜けると、右手に変わった山門の寺、当信寺がある。

この山門は、もと白石城の東口門を移築したもので、二階中央の表と裏に
大きな眼象窓(げんじょうまど)が設けられている。


藩政時代、この門の2階に太鼓を置いて時を知らせたため、
音の響きを良くするために開けた穴とのことだ。

当信寺は、慶長2年(1597年)の創建で、正しくは浄土宗、
功徳山当信寺という。
本尊は室町時代に作られた阿弥陀如来像で、大坂天王寺より譲り受けたもの。

境内には白石老人の墓や、真田阿梅・大八の墓がある。

前者は、経歴その他は不詳であるが、身分に関係なく人々から
崇敬されていた仙人のような人であったとか。

後者は説明板によると、元和元年(1615年)大坂夏の陣で、真田幸村は
自分の最後を覚悟して、知勇兼備した敵将の片倉重長に子供を託した。

重長は、幸村の遺児阿梅、阿菖蒲、おかね、大八達を白石城の
二の丸で密かに養育した。
そして、阿梅は重長の後妻に、阿菖蒲は田村定広の妻に、
おかねは早世、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、伊達家に仕えた。
その阿梅と大八の墓である。



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すまる広場

中町交差点の北側に広々としたすまる広場がある。
洒落て「すまiる広場(すまいる)広場」とも呼んでいるようだ。

もと、和菓子の老舗、高甚本店のあったところで、現在は綺麗に整備され、
駐車場やイベント会場として活用されている。

左側の屋敷門は、壽丸(すまる)屋敷の門である。



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壽丸屋敷

壽丸屋敷は、明治中期の豪商・渡辺家の屋敷で、
白石市を代表する当時の建物だ。
数棟の土蔵や、書院屋敷、主屋などがそっくり残されている。

現在は渡辺家から寄贈され、TMOの白石まちづくり株式会社が管理している。
TMOとはTown Management Organizationの略で、
中心市街地における商業町造りを運営・管理する機関をいう。

この屋敷や店倉を有料で貸与して、さまざまなイベントが行われているようだ。




詳細リンク:旧奥州街道185「白石宿本町~中町」/街道写真紀行
(宮城県白石市本町、中町) 1004/1009

2010/09/24

58白石宿/旧奥州街道184

36siroisi28s  古道標

白石城から白石高校の東側を通り、前回の街道歩きの中断箇所の
田町交差点に復帰する。

写真は街道沿い左側にある白石中学校前にある古道標である。
石柱には「一等道路東京街道」、「此方二等道路下戸沢駅ニ出ル米沢街道」
と刻まれている。
かつては米沢街道の追分であった。

白石では、旧奥州街道は、明治になってからは東京街道と
呼ばれていたようだ。



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白石宿入口、枡形

写真は、旧街道を右折した道で、この先の信号で今度は左折となる。
所謂宿場入口特有の枡形となっているところだ。

左側にあるのは、「名産白石温麺」と大きく書かれた看板のきちめ製麺所だ。
看板商品は「つりがね白石湯麺」で、吉見家は城主の片倉小十郎の
家臣として、長い間仕えていた事から、片倉家の旗印である「つりがね」を
商標として使うことを許されたとのこと。

湯麺は、元禄2年(1689年)、短ヶ町検断の鈴木浅右衛門が胃弱の
父親のために「油を使わずに作った麺」を食べさせたところ胃病が治った。

その話を聞いた片倉小十郎が、その息子の温かな心を讃え
湯麺(うーめん)と名付け、鈴木家に御用温麺の製造を命じたのが
始まりと言う。
今では、すっかり白石名物となっている。

白石の特産品を白石三白(しろいしさんぱく)というそうだ。
紙子(かみこ)、葛粉(くずこ)、そしてこの湯麺である。
これは「安永風土記」にも刈田郡の特産として挙げられているものだ。

紙子は紙製の衣服で、この辺は寒冷で綿栽培には向かず重宝されていた。
特に柿汁で染めて揉んだ「紙絹」が最上品であったとのこと。




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53白井宿町並み

枡形を抜けると、奥州街道58番目の宿場・白石宿に入る。
街路灯には「本町大通商店街」と書かれてあった。

白石宿は、本町、中町、百人町(長町)、亘理(わたり)町、短ヶ町、
新町の六町からなり、長さ13町(1.4km)、家数は約200軒であった。

この左側に城を囲むように武家屋敷があり、その外側が宿場であった。




詳細リンク:旧奥州街道184「58白石宿」/街道写真紀行
(宮城県白石市南町、本町) 1004/1009

2010/09/23

映画「THE LAST MESSAGE/海猿」

平成22年9月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
THE LAST
MESSAGE/
海猿


 2010年 日
 
 監督
  羽生 英一郎

 
仙崎大輔
    伊藤 英明

妻環菜
    加藤 あい

吉岡
    佐藤 隆太

    加藤 雅也
    吹石 一恵

      
  福岡沖の巨大天然ガスプラント施設に、高波にあおられた海洋掘削装置が激突。海上保安本部機動救難隊の仙崎、吉岡らは被害者の救出に向かうが、予想外の爆発が起こり、さらに台風が接近するという大災害に。
  初めから緊張感のある展開で、スケールも大きく、脚本も練れており、良く纏まった映画となっている。




詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/09/22

白石城跡/旧奥州街道183

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白石城跡

東京発7:16のMax.やまびこ103号で、白石蔵王に着いたのが
9:10であった。

駅前からタクシーに乗り、先ず白石城に向かった。
今回はここから奥州街道徒歩の旅のスタートである。

白石城は後三年の役(1083~87年)の時、
源義家に従った刈田経元(かったつねもと)が、戦功により
刈田・伊具両郡を与えられ、白石城を築いたのが始まりと伝承されている。

その後、平安時代末期は奥州藤原氏、鎌倉時代は北条氏、
南北朝末期以降は伊達氏と変わった。
豊臣秀吉の奥州仕置後は蒲生氏の所領となり、益岡城と改称された。
この時に近世の城郭としての体裁が整えられた。

関ヶ原の戦い後は伊達領となり、政宗の叔父石川昭光が入ったが、
慶長7年(1602年)に伊達家家臣の片倉小十郎景綱が入り、
幕末まで11代260年にわたり続いた。

幕政下では白石城は、仙台城以外では唯一の城としての扱いを受け、
領内南部の要衝として関門的役割を果していた。




36siroisi24s  大手門

昭和62年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」放送をきっかけにして
白石城の復元運動が起こり、平成7年に幕末の三階櫓とこの大手門が
復元された。

大手門は、特に入口が狭まっており、大軍に攻められてもここで敵を
迎撃できるようになっていた。



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本丸跡より三階櫓

右手の黒っぽい建物は鐘堂で、伊達郡東昌寺(現仙台市)にあった鐘を移し、
非常時や時刻を知らせる鐘として使われていた。

その手前にある井戸は本丸内にある貴重な井戸であった。

本丸跡には大きな片倉小十郎公頌徳碑がある。
小十郎は政宗の守り役で、後に政宗の腹心の部下として活躍した人だ。

秀吉や家康からも特別な待遇を受けた武将であった。
NHKの連続ドラマ「独眼竜政宗」で、西郷輝彦がこの小十郎を演じていた。

なお、このドラマは平均視聴率39.7%で、
大河ドラマの歴代トップであった(2010年現在)。





詳細リンク:旧奥州街道183「白石城跡」/街道写真紀行
(宮城県白石市益岡町) 1004/1009

2010/09/21

白石・田町~JR白石蔵王駅/旧奥州街道182

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白石・田町交差点

田町の交差点で、この先が白石の中心街である。
今回は、ここで徒歩の旅を中断して、この交差点を右折した。

約1.1kmで、東北新幹線の白石蔵王駅がある。




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蔵王連峰

JR東北線の陸橋を上り後ろを振り返ると、
白石城跡(写真中央)の三階櫓の背後に蔵王連峰(1841m)が大きく見える。

雲がかかっていたが、感動的であった。




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青麻山

右側には青麻山(800m)がはっきり見えた。
実に見晴らしの良いところである。




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JR白石蔵王駅

JR東北本線の陸橋を越えると、程なく、東北新幹線の白石蔵王駅に着く。
東北本線の白石駅とは離れており、両駅を結ぶバスが走っている。

15:59発の新幹線に乗り、東京に到着したのが17:56であった。




詳細リンク:旧奥州街道182「白石・南町~白石蔵王駅」/街道写真紀行
(宮城県白石市田町、東町、旭町) 1003/1009

2010/09/20

白石・大平中目~新館町/旧奥州街道181

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白石市街分岐/白石大平交差点

斎川の道祖神社の前を抜けると、白石市斎川から大平中目に変わる。
東北自動車道の下を潜ると、正面に国道4号線と白石市街への分岐点が
見えてくる。
この交差点は白石大平交差点と呼ぶようだ。

ここで旧街道は、国道4号線と別れ、右側の白石市街方面に入る。
まもなく、奥州街道58番目の宿場・白石宿となる。

白石の城下町だ。




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蔵王連峰

白石大平交差点から右側の道に入ると、左側に蔵王連峰の
不忘山(ふぼうさん、わすれずのやま、御前岳、1706m)、
そして屏風山(1825m)が見えてきた。

蔵王連峰の最高峰は熊野岳(1841m)であるが、ここからは見えなかった。

なお、蔵王の名称は、白鳳8年(679m)、大和国の役小角が、
蔵王権現をこの不忘山に奉還し、周辺の山を修験道の修行の場として
「蔵王山」と称したことに由来する。




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一等水準点

ここで、旧街道は広い車道に合流する
その交わる点に一等水準点があった。ここで標高は52.6mである。




詳細リンク:旧奥州街道181「白石・大平中目~新館町」/街道写真紀行
(宮城県白石市大平中目、新館町) 1003/1009

2010/09/19

白石・斎川道祖神社/旧奥州街道180

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国道4号線、青麻山

東北新幹線のガードを潜ると道は緩い狐を描いた坂道となっている。
この少し手前に標識があり、東京より301kmと書かれてあった。

前方に形の良い青麻山(あおそやま、799.5m)が見える。
昔は大苅田山と呼ばれ、山岳信仰の対象であった。

頂上の展望台よりは、眼前に蔵王連峰がパノラマ状に
大きく広がって見えるところだ。




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斎川道祖神社

街道左手に斎川道祖神社がある。
以前はご神体は露出していたが、明治9年の明治天皇行幸の時、
社が造られたとのこと。

道祖神はさいのかみ、さえのかみ(障の神、塞の神)とも呼ばれ、
悪霊が村に侵入するのを防ぎ、通行人や村人を守る為に
村境や峠、辻などに祀られた神だ。

みちの神、たむけの神、峠の神とも呼ばれるようだ。
境内に湯殿山、古峰神社と彫られた石塔があった。




36siroisi05s   ご神体

社の中を覗いてみた。ご神体は立派な多数の陽石であった。
巨大なものから小さいものまで多数祀ってあった。。

普通は男女の双体紳が多いが、ここはすべて陽石であった。
その他、入りきれない陽石が、社の横や下に祀ってあった。



詳細リンク:旧奥州街道180「白石・斎川~道祖神社」/街道写真紀行
(宮城県白石市斎川) 1003/1009

2010/09/18

秀山祭九月大歌舞伎

平成22年9月
新橋演舞場

演 目 役 者 観 劇 記
藤間勘祖振付
月宴紅葉繍
(つきよのうたげもみじのいろどり)

  長唄囃子連中
 
在原業平
      梅 玉

小野小町
      魁 春

  平安時代の歌人で六歌仙に数えられている在原業平と小野小町の二人が月を眺めながら舞い遊ぶさまを季節感溢れる舞台で展開。
伊賀越道中双六
沼津
(ぬまづ)

  一幕
呉服屋十兵衛
      吉右衛門

雲助平作
      歌 六

お米
      芝 雀

荷持安兵衛
      歌 昇
  東海道を旅する呉服屋十兵衛は、荷物を持たせた雲助の平作が怪我をしたので、持参の印籠の妙薬で治療する。そして、平作の娘お米に一目ぼれし、平作の家に立ち寄ることになる。
  その夜、お米が十兵衛の印籠を盗もうとする・・・
  偶然が引き起こす悲劇を巧みに描いた義太夫狂言の名作。歌六が、老いた雲助平作を実に見事に演じていた。

   今回、中村歌六、中村歌昇が萬屋から播磨屋に複することになり、劇中で吉右衛門とともに口上披露があった。
真山青果作
真山美保演出
江戸絵両国八景
荒川の佐吉
(あらかわのさきち)

  四幕八場
荒川の佐吉
      仁左衛門

相模屋政五郎
      吉右衛門

丸越女房お新
      福 助

鐘馗の仁兵衛
      段四郎


大工辰五郎
      染五郎
  腕の良い大工からやくざの世界に憧れた佐吉は、親分の鐘馗(しょうき)の仁兵衛のもとで子分の身であった。そんな中仁兵衛親分は浪人に切られ、縄張りを奪われてしまう。 
  本所の裏長屋で零落した生活をしている仁兵衛は、姉娘のお新が産んだ盲目の男子を佐吉に託し、いかさま賭博に手を出し殺されてしまう。
  残された佐吉は大工の仲間辰五郎の助けを借り、仕方なく男の子を苦労して育てていく・・・と展開して行く男の生き様をを描いた世話物である。
  2度目の観劇(前回は平成18年)であったが、仁左衛門の前回に劣らぬ熱演で、何度見ても良く出来た芝居である。
寿梅鉢萬歳
(ことぶきうめばちまんざい)

  竹本連中
  囃子連中
萬歳
      藤十郎
  人形浄瑠璃の四変化舞曲の一つ。初春の訪れを手ゲル萬歳がやって来て、吉例の舞を舞い始め、繁栄と長寿を願うと、華やぐ町へと去っていく。という目出度く明るい舞踊だ。

詳細リンク:「演劇」/日本写真紀行

2010/09/17

白石・斎川宿~東北本線踏切/旧奥州街道179

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斎川宿中心街

斎川宿の検断役所前の北側で、この辺が斎川宿の中心部であった。
写真左側の斎川郵便局の住所は、斎川字町屋敷となっている。

標高は75mであった。越河から大分下ってきた感じである。

なお、前方の2階建て鉄筋コンクリートの建物は斎川小学校である。
創立は明治6年と歴史のある小学校だ。
平成22年で児童数は43人とのこと。


斎川郵便局の右隣にある清酒蔵王と看板を出している酒店、高橋商店。
白石市東小路にある蔵王酒造の清酒を扱っているようだ。
なお蔵王酒造の創業は明治6年とのこと。



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JR東北本線踏切

斎川小学校も前を抜けると、斎川宿の家並みが途切れる。
字名も町尻となる。
斎川宿の出口であったようだが、枡形の痕跡は完全に消滅している。


JR東北本線の踏切を渡る。
右前方に見える高架は東北自動車道だ。

ここから蔵王山(1841m)が見えるはずであるが雲の中であった。




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国道4号線

旧街道は国道4号線(現陸羽街道)に合流する。
ここの標高は73mであった。

前方の高架は、東北新幹線である。
上面に見える山は、蔵王の前衛山である青麻山(あおそやま、800m)である。

この辺は、この新幹線と国道4号線、東北本線、そして東北自動車道が
狭いところを重なるように通っているところだ。





詳細リンク:旧奥州街道179「白石・斎川~東北本線踏切」/街道写真紀行
(宮城県白石市斎川) 1003/1009
 

2010/09/16

57斎川宿/旧奥州街道178

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57斎川宿町並み

旧奥州街道57番目の宿場・斎川宿の町並みである。

元禄5年(1692年)、街道の両脇には58戸の家が連なっており、
宿場の長さは3丁10間(345m)であった。
今も旧街道に沿って家並みが続いている。

斎川宿は子供の疳の妙薬「孫太郎虫」と、紙、ジュンサイが名産であった。
ジュンサイの若芽、若葉は食用として珍重されていたようだ。

また、ナチより逃れ日本に亡命していたドイツの建築家で、
「日本美の再発見」(岩波新書)でも知られたブルーノ・タクトも、
昭和9年に斎川を訪れ、古い家並みや家屋についての記録を
残しているという。




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35saikw25s  斎川宿検断屋敷

斎川宿の略中央左側に斎川宿の旧検断島貫家屋敷がそのまま残されている。
島貫家は、検断として、宿場の伝馬人足を取り仕切り、
大名の宿泊・休憩所も兼ねており、幕末には肝入も兼任した。

又、明治天皇の東北行幸の際は、休憩所にもなったところである。
写真中央右の石塔には「明治天皇御休息所」と刻まれてあった。




詳細リンク:旧奥州街道178「白石・57斎川宿」/街道写真紀行
(宮城県白石市斎川) 1003/1009

2010/09/14

関ヶ原/岐阜

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関ヶ原、日の出

関ヶ原古戦場を北上すると、やっと日が昇ってきた
右端の山が丸山で、関ヶ原合戦開始の狼煙を上げたところである

左手前方が決戦場となったところだ




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陣場野公園、家康最後の陣跡

家康が、最初に本陣を構えた桃配山から、ここに前進し
最後の陣を構えたところである

桃配山では戦況が良く見えなかったのと
また、戦況が好転しないため、士気を鼓舞するために
激戦地のここまで陣を進めたとのこと

下側の写真は、戦いの後、東軍の諸将をここに集め
西軍の首実検を行ったところである



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関ヶ原決戦場、笹尾山

すぐ背後(写真中央左)が石田三成が陣を構えた笹尾山である

家康の最後の本陣とわずか1.5kmの所である

三成の首を取ろうと絶え間なく攻める東軍と、
必死に応戦する西軍との最後の激戦地であった




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西首塚

旧中山道を少し進んだ右手に西首塚がある

ここも、関ヶ原合戦で死んだ武将の首を埋めたところである

西首塚を抜けると、次は不破の関を越え
美濃路最後の宿場・今須宿である



詳細リンク:中山道六十九次48「58関ヶ原宿~陣場野」/街道写真紀行
(岐阜県関ヶ原町) 0704/1009

2010/09/11

白石・斎川大橋~斎川宿入口/旧奥州街道177

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斎川上流側

斎川に架かる大橋を渡る。
坂上田村麻呂が身体や武器を清めたと言う川だ。
渓流となっており、かなりの急流であった。


写真は斎川大橋から上流側を見たものある。
上部の橋梁は、国道4号線だ。
地形的に如何に険しいところであるかが判るところだ。

斎川は越河を源流とする川で斎川宿の右側(東側)を流れ、
白石城下で白石川に合流している。




35saikw15s  斎川宿標識

斎川大橋を渡ると左側に斎川宿の標識がある。

左の説明板には「斎川地区緑化記念事業、町屋敷上下若者組」と
記されてあった。
今でも若者組の風習が残されているようだ。



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斎川宿・入口枡形

旧奥州街道57番目の宿場・斎川宿の入口付近だ。
かつての枡形が、今はゆるいS時形の道路となっている。





詳細リンク:旧奥州街道177「白石・斎川大橋~斎川宿入口」/街道写真紀行
(宮城県白石市斎川) 1003/1009

2010/09/10

白石斎川・田村神社/旧奥州街道176

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斎川・田村神社

鐙摺(あぶみすり)坂を下って行くと、右側に田村神社がある。

入口に「甲冑堂、源義経の家臣継信・忠信の妻、楓・初音の像」と
書かれた大きな案内標識があり驚いた。

その先の赤い標識には「奥の細道」と書かれてあった。


田村神社は征夷大将軍坂上田村麻呂を祀った神社である。

9世紀の始め頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた坂上田村麻呂は、
この地方にはびこる悪路王や、青頭・赤頭など鬼形の者たち(山賊)に
苦しめられている村人たちのことを知り、悪者退治をした。

村人はその恩徳を慕って祀ったのが田村神社の始まりと伝承されている。
またその時、田村麻呂が身体や武器を清めた川を禊(みそぎ)の川、
斎川と言うようになった。

なお拝殿は明治8年に放火で焼失した為、明治12年に再建されたものだ




35saikw09s  甲冑堂

田村神社境内にある甲冑堂(六角堂)には、
義経の家臣佐藤継信・忠信兄弟の妻楓・初音の甲冑をおびた木造が
納められている。

これは、継信・忠信の妻が夫に代わり、凱旋装束して
老母を慰めたという故事に因んで安置されたもので、
江戸時代から奥州名所の一つとして知られていた。

田村神社と共に焼失したが、堂も木像も再建されている。

境内にある天野桃隣(とうりん)の句碑には
「軍めく 二人の嫁や 花あやめ」と刻まれてあった。

桃隣は江戸時代の俳人(享保4年歿、1719年)で、芭蕉の縁戚の人のようだ。芭蕉没後、「奥の細道」の後を辿り「陸奥衛」を書いている。

「白桃や 雫もおちず 水の色」他、多くの句が残されている。


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鬼ずるす石

この岩倉山は名前の如く、至るところに岩の露出が見られるが、
その岩の一つに別の岩が重なっていて、人の力で動かすことが出来、
さながら大きな石臼のようであった。

昔、この付近の岩窟に鬼形をした者が住んでおり、
村人や旅人を捕らえては、この石臼に入れ、ひき砕いて喰らったという
伝説より「鬼ずるす石」と呼ばれるようになった。

また人を剥いだ沢を人剥沢、人喰沢と呼んでいた。
この鬼形をした者を退治したのが前述の田村麻呂と伝承されている。




詳細リンク:旧奥州街道176「白石・斎川・田村神社」/街道写真紀行
(宮城県白石市斎川) 1003/1009

2010/09/09

白石・斎川・鐙摺坂/旧奥州街道175

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旧道分岐

ここで、次の宿場斎川宿方面の車道があり右折する。

かつての旧奥州街道は、より山側(右側)であったが、
切通し道が出来て、今は消滅している。

新しい国道4号線は、左の道である。



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鐙摺坂

やがて鎧摺(あぶみすり)坂となる。
かつては奥州街道一の難所であったところだ。

今でこそ、車が通れる道であるが、江戸時代は左側が谷で、
右側は大きな石が迫り出していて、馬が一頭、やっと通れる道幅であった。

坂名の由来は、源義経が鐙を石に摺りながらここを通ったことによる。




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孫太郎虫供養碑

その鐙摺坂の右の山の斜面には夥しい数の庚申塔がある。
大きな石塔には「庚申」と刻まれ、多数の小さな丸い石には
「申」の一文字が刻まれてあった。

さらに北側には、「孫太郎虫供養」と刻まれた
大きな石碑(写真右側石碑)がある。

かつては、斎川宿の大きな財源であった「疳(かん)の薬」の
材料である孫太郎虫(ヘビトンボの幼虫)の供養碑である。

左端の石塔には聖徳太子と刻まれてあった。
木匠や樵(きこり)の人々が、太子講で祀ったものであろう。
斎川地区のかつての生活の様子が偲ばれる石碑群である。

さらにこの左手には 「あぶみすり坂」と書かれた標識があった。





詳細リンク:旧奥州街道175「白石・斎川~鐙摺坂」/街道写真紀行
(宮城県白石市斎川) 1003/1009

2010/09/08

映画「魔法使いの弟子」

平成22年9月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
魔法使いの弟子

 2010年 米
 
 監督
  ジョン・
   タートルトーブ

 
バルサザール・ブレイク
    ニコラス・
      ケイジ

ディヴ・スッタトラー
    ジェイ・
      バルシェル


マクシム・ホルヴァート
    アルフレッド・
      モリナ

    モニカ・
      ベルッチ
    テリーサ・
      パーマー

       
  今は亡き魔法使いの最高指導者の後継者を探しに来た魔法使いバルサザールは、その運命を持つ若者ディヴを見出し、自分の弟子にする。しかし、ディヴは戦うどころか喧嘩すらしたことの無い気弱な物理オタクであった。
  現代のニューヨークを舞台に魔法大戦争となる、ディズニー得意のファンタジー・アクションである。



詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/09/07

白石・越河平~馬牛沼/旧奥州街道174

34kosugo42s  越河平・山神碑

街道左側の山裾に、山神碑がある。

丁度平野部(田圃)との境目にあるので、春に山から下りてくる田の神、
そして秋の収穫が終わると山神となる生産を司る神として
祀っているのであろう。

この少し先には金比羅大権現碑があった。
福島と違い、庚申塔や馬頭観世音は無かった。  



34kosugo48

馬牛沼、鯉供養碑

国道4号線と合流して、暫く緩い坂道を下って行くと、目の前が開け、
大きな沼が見えてきた。

馬牛(ばぎゅう)沼だ。
沼の中に建っている石碑は、昭和43年に建てられた鯉供養碑である。
明治30年頃から鯉の養殖が始まり、晩秋には
名物の「沼乾し」(沼の水を抜くこと)の行事で賑わうとのこと。

雪を被った正面の山は、曽良日記で「万ギ山」と書かれた
万牛山(まんぎやま、430m)である。
地元では楯山とも呼んでいる。

なお、沼の北側の低い山(写真右手)は馬牛館跡で、
天文年間(1542~48年)の伊達種宗・晴宗父子争乱の時には、
桑折播磨景長がここに籠もって戦ったという。

馬牛沼は9世紀の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬が、
この沼に落ちて死んだことから馬入沼ともいい、
また沼の中なの狐洲が馬に似ていることから馬形沼、
さらに馬首牛身の魚獣が泳ぎ回っていたので馬牛沼と呼ばれた等々の
伝承がある。

また、馬牛沼は古くからの白鳥飛来地としても知られている。

例年200羽ほど飛来してくるようだが、今回は数羽しかいなかった。
訪れたのが3月中旬であるので、既に北へ帰って行ったのであろうか。




34kosugo47s  明治天皇御駐蹕之碑

馬牛沼と国道4号線を挟んで反対側に
明治天皇御駐蹕(ちゅうひつ)之碑がある。
東北行幸の際、ここで小休止された記念碑だ。

旧街道は、ここから先は奥州街道一番の難所と言われた
鎧摺石(あぶみすりいし、こわし岩とも)の難所となる。



詳細リンク:旧奥州街道174「白石・越河平~斎川・馬牛沼」/街道写真紀行
(宮城県白石市越河平、斎川) 1003/1009

2010/09/06

白石・JR越河駅~越河平/旧奥州街道173

34kosugo36

JR踏切/越河五賀

白鳥神社の横を抜けると、程なくJR東北本線の踏切に出る。
越河(こすごう)駅の北側にある踏切だ。




34kosugo39s  JR越河駅

JR越河駅は越河五賀字海道下にある。
東京駅より298.6kmの距離だ。
今は無人駅であるが、開業は明治24年と歴史がある駅である。  



34kosugo40

旧街道/越河五賀字海道下

越河五賀字海道下の旧街道である。
前方の盆地が狭まるところが矢尻と呼ばれるところだ。

途中左側に古道標がある。
「距仙台元標十五里」と読めた。仙台まで約60kmである。

この石柱の正面下部に明治時代の水準点(不の形をした記号、
几号水準点)が刻まれている。
北面には明治22年4月設、宮城県とあった。

標高はここで160mである。




詳細リンク:旧奥州街道173「白石・JR越河駅~越河平」/街道写真紀行
(宮城県白石市越河五賀、越河平) 1003/1009

2010/09/04

白石・越河五賀~白鳥神社/旧奥州街道172

34kosugo31

旧街道/越河五賀

街道左側の白鳥神社入口の前である。

写真正面が白鳥神社のある丘で、写真右手の道が旧街道だ。
今は舗装されているが、江戸時代の奥州街道がそのまま残されている。




34kosugo33

白鳥神社

階段を登り、白鳥神社に参拝する。
そして、手前の石の上で休憩する。

由緒は不明であったが、宮城県は白鳥神社が多いところだ。

白鳥(しらとり、しろとり)神社は全国にあるが、特に宮城県には9社もある。

その他の地区では、例えば関東甲信越では4社、北陸・東海で4社、
近畿・九州で各1社、四国では1社である。
また、東北では宮城県にしかない。

これらは、殆どが日本武尊が白鳥に化した伝説(古事記)に因むものだ。




34kosugo34

白鳥神社より

白鳥神社より右側(東側I)を見下ろした写真である。
左右に走っている道路は国道4号線で、その手前がJR東北本線だ。




詳細リンク:旧奥州街道172「白石・越河五賀~白鳥神社」/街道写真紀行
(宮城県白石市越河五賀) 1003/1009

2010/09/03

映画「踊る大捜査線3、ヤツらを解放せよ!」

平成22年8月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
踊る大捜査線3/ヤツらを解放せよ!

 2010年 日
 
 監督
  末広 克行

 
青島係長
    織田 祐二

警視
    ユースケ・
      サンタマリア


巡査部長
    深津 絵里

    内田 有紀
    上村 総一郎
    小泉 孝太郎

       
  お台場にある湾岸署は、テロリストの標的から守る為、よりセキュリティー設備の充実した新湾岸署へ引越しすることになる。
  ところがそのセキュリティーを利用した事件が発生する。狙いは、囚人の解放要求・・・・
  と、一見面白そうだが、引越しのドタバタや、多くの小事件を絡ませながら展開して行く脚本であるが、どうも締りが無い。

詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/09/02

白石・越河五賀/旧奥州街道171

34kosugo24 

旧奥州街道

越河宿を出ると、旧街道は快適なコースとなっている。
右側が開け、左上側はJR東北本線が走っている。

なお、この辺の標高は156mである。



34kosugo25_2

旧奥州街道より国道4号線

旧街道の右下の低地を、並行して現在の国道4号線が走っている。

この4号線も、以前に何度か車で走ったことがあるが、殆ど記憶が無い。
車で走るのと、自分の足で歩くのでは見えるものが違い、
同じ道でも新鮮に感じる。

越河小学校の前を通過すると、旧街道はJR東北本線のガードを潜り、
反対側(左側)の道となる。

白石市越河から越河五賀(こすごうがごか)地区に入る。
この五賀の意味を調べたがわからなかった。
五つの賀(お祝い)とは、何を指すのであろう。

五果なら李、杏、棗、桃、そして栗である。
五稼(ごか)なら、五穀の意味である。これらが転訛したのであろうか。




34kosugo28s  白石市マンホール蓋

東北本線のガードを潜ると、越河五賀の集落に入る。

越河保育園の先に、白石市のマンホール蓋があった。
白石城をあしらったデザインだ。

「農集排」と記入されているので、農業集落排水用の略であろう。

詳細リンク:旧奥州街道171「白石・越河~越河五賀」/街道写真紀行
(宮城県白石市越河、越河五賀) 1003/1009

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