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2010年8月

2010/08/31

白石・越河宿~出口/旧奥州街道170

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諏訪神社参道

定光寺の北側に諏訪神社がある。
写真は旧街道から見たもので、階段を登りJR東北本線を渡った先に
神社がある。

寅年と申年に行われる御柱祭りで知られて所だ。
諏訪神社の氏子の代表が献木をし、諏訪神社の拝殿裏に御神木を立て
防火・鎮火を祈願する神事だ。

山から木を一本切り出し、献木者の自宅まで運ぶ「山出し祭り」、
神木をお披露目しながら越河の町を通り、諏訪神社に運ぶ「里曳き祭り」、
そして、最後に諏訪神社で神木を立てる祭りである。

諏訪神社境内には、芭蕉句碑が建立されている。

  「咲みたす 桃の中より 初さくら   芭蕉」
  「梅さくら 松は御前に 夏の月    曾良」




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越河宿出口付近

諏訪神社より旧街道に復帰する。
左の2棟は、萱葺き屋根にトタンをかぶせた旧家である。

越河宿は、かつての宿場を偲ばせる町並みが残されている。



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越河雪景色

越河宿の家並みを抜けると、右側が開けてきた。
3月というのに、まだ一面の雪景色であった。

次は旧奥州街道57番目の宿場斎川である。





詳細リンク:旧奥州街道170「白石・越河宿~出口」/街道写真紀行
(宮城県白石市越河) 1003/1008

2010/08/30

56越河宿/旧奥州街道169

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56越河宿町並み

深山神社参道の前を抜けると、街道は枡形となっている

枡形を抜けると、越河宿が見通せる。
写真のこの辺が、かつての宿場の中心部であった。

瓦葺の大きな民家が目に付く宿場であった。
仙台藩の南端である越河宿は、
藩境を越える人や物をチェックする境目足軽がいた。

また、仙台藩主の参勤交代等の折は、重臣がここ越河宿で送迎したという。
越河宿は、仙台藩の表玄関であった




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越河宿旧家

越河宿には気のせいか、同じような造りの大きな旧家が目に付いた。
仙台藩と言う大藩の最初の宿場である意気込みが感じられるようであった。




34kosugo12s  明治天皇駐蹕碑

大きな旧家の脇の小さな盛り土の上に
明治天皇御駐蹕(ちゅうひつ)碑があった。
行幸中、ここで一時乗り物を留めたところだ。

ここに庄屋か問屋場でもあったのであろうか。




詳細リンク:旧奥州街道169「白石・56越河宿」/街道写真紀行
(宮城県白石市越河) 1003/1008

2010/08/28

白石・宮城県境~越河/旧奥州街道168

34kosugo01s  下紐の石

福島県と宮城県の県境を過ぎると右側に「下紐の石」がある。

古代の用明天皇の后の玉世姫がここの石の上で
お産の紐を解いたとの伝説が残されている。

また、坂上田村麻呂が関所を置いたことから「下紐の関」として
歌枕にもなっている



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宮城県境、峠頂上

この辺が福島県と宮城県の間にある峠の頂上付近だ。
高度計で230mとなっている。

この辺は、一昨日に降った雪が未だ溶けずに残っていた。

普通、県境は峠や稜線を基準にするが、
ここの県境は、峠の頂上よりも福島県寄りにずれている。
伊達藩が少しでも峠越しの見通しを確保しようと境界線を
押し込んでしまったようだ。

ここから街道は下り坂となる。

かつては仙台藩の越河番所があった処で、線路の左側に、
写真では判りにくいが、「越河番所の跡」と書かれた大きな標柱が
建っている(写真左端のやや上、高架の下)。

この辺は今でも山に挟まれた狭隘のところで
国道4号線とJR東北本線が隣接して走っており、その上を
東北自動車道が走っている。

スペースがなく、新幹線は蔵王トンネルの中を走っている地域だ。




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白石・越河

国境(県境)の峠を下って行くと目の前が開けてきた。
白石市越河(こすごう)地区である。

大きな灌漑用溜池もあり、山間に田圃が気持ちよく広がっていた。
この信号を左に曲がると、仙台藩最初で、
奥州街道56番目の宿場・越河宿となる。


写真左手の山の上には深山神社がある。

深山神社というと、国見町鳥取の県道白石国見線沿いにある
町指定天然記念物の大榧、大藤で知られた深山神社がある。

この深山(しんざん、みやま、ふかやま)神社は宮城県では
数の多い神社名である。



詳細リンク:旧奥州街道168「白石・宮城県境~越河」/街道写真紀行
(宮城県白石市越河) 1003/1008

2010/08/27

国見・貝田~宮城県境/旧奥州街道167

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貝田・最禅寺

貝田宿出口にある枡形の最初の角を左に曲がったところに、
貝田番所跡がある。
かつては、口留番所と呼ばれていた。

仙台藩と境を接していた為、旅人の通行を厳しく取り締まっていた。
なお、出入口を押さえるという意味で、口留番所と称していたようだ。

枡形の2番目の角に、曹洞宗最禅寺(上写真)がある。

この手前を旧街道は右折して、奥州街道56番目の宿場で、
仙台藩最初の宿場・越河(こすごう)宿へ向かっていた。

最禅寺の参道には多数の庚申塔が集められてあった。




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国道4号線/貝田

最禅寺の前の道より、国道4号線に合流する。

東京より292.8kmとの道路標識である。
これは国道の距離であるので、実際の旧街道とは異なっている。

今、集計してみると、実際の歩行距離は329.1kmであった。
約12%、旧街道の方が長くなっている。

因みに東北本線の営業距離は、東京駅と貝田駅間で294.9kmとなっている。
鉄道と国道は、ほぼ同じ距離であった。


この切通しの左上の木陰の中の白い建物がJR貝田駅(写真左端)である。

JR貝田駅は東北本線で福島県最北の駅だ。
当初は貝田信号場として、大正11年に開設したこともあり、
国道4号線からの接続道路も狭いし、駅前広場のようなものもない。

貝田駅として開業したのは昭和27年である。



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福島県、宮城県境

JR貝田駅の前を過ぎると、福島県と宮城県の県境となる。
前方に見える高架は東北自動車道だ。

ここから、福島県国見町から宮城県白石市に変わる。




詳細リンク:旧奥州街道167「国見・貝田~宮城県境」/街道写真紀行
(福島県国見町貝田) 1003/1008

2010/08/26

八月花形歌舞伎

平成22年8月
新橋演舞場



演 目 役 者 観 劇 記
長谷川伸作
村上元三演出
寺崎裕則演出
暗闇の丑松
(くらやみのうしまつ)

    三幕
 
暗闇の丑松
      橋之助

四郎兵衛女房お今
      福 助

丑松女房お米
      扇 雀

四郎兵衛
      弥十郎

料理人祐次
      獅 童

  料理人の丑松にはお米という恋女房がいるが、お米の強欲な母は、二人を別れさせ、金持ちの妾奉公に出そうとする。それを知ると丑松はその母と見張りの浪人を殺害し、兄貴分の四郎兵衛にお米を預け、江戸を離れる。
  一年後に戻ると、板橋宿で女郎になっているお米に再会。お米が四郎兵衛に騙され、苦界に売り飛ばされた事情を語るが、信じてもらえず・・・・・
  不幸な運命に翻弄される男女の姿を描いた名作、見応えのある舞台となっている。

京鹿子娘道成寺
(きょうかのこむすめどうじょうじ)

   長唄囃子連中
白拍子花子
      福 助

白拍子化
      松 江

大館左馬五郎照剛
      海老蔵
  桜が咲き誇る紀州の道成寺。白拍子花子が再興された釣鐘を拝ませて欲しいと頼み、その代わりに舞を所望され、次々と華やかな踊りを披露し、鐘の中に飛び込んでしまう。
  実は花子は、恋の恨みから蛇となって道成寺の釣り鐘を焼いた清姫の怨霊であった・・・
  御馴染みの長唄舞曲の大曲、京鹿子娘道成寺である。福助の華麗な踊りに、豪壮な海老蔵が最後を締めてくれた。



詳細リンク:「演劇」/日本写真紀行

2010/08/25

貝田宿~出口枡形/旧奥州街道166

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貝田宿古絵図

貝田宿の中心部にある大きな説明板に、
元禄年間(1687~1703年)の貝田宿の絵図が描かれてあった。

左側が入口厚樫山方面で、右が出口方面である。
街道に沿って家並みが続いている様子が描かれている。
典型的な細長い宿場町となっている。

道路中央に書かれてある文字は、御制札場と読める。
中央部で街を縦断している川が風呂沢川(姥上沢)で、

橋の名前が風呂沢橋となっている。

貝田宿説明板の横に、俳聖松尾芭蕉行脚記念木柱が立っていた。

「奥の細道」より
「遙かなる行末をかかへて、かかる病おぼつかなしといへど、
羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、
これ天の命なりと、気力聊かとり直し、路縦横に踏んで
伊達の大木戸を越す」と記されてあった。



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貝田宿・出口枡形

旧街道はここで左折となる。真っ直ぐ行くと国道4号線に合流である。
この辺が貝田宿の出口で、枡形となっている。

道標には「左貝田番所跡、正面本通県境」と記されてあった。
また、中央の標柱には「おくのほそ道自然歩道終点」と書かれてある。

この「おくのほそ道自然歩道」は白坂明神からここ国見町貝田までで、
福島県県民室編「福島版おくのほそ道自然歩道」として
昭和46年に出版(1500円)されている。



33kaida27s  岡田盛正翁碑

枡形を左折すると、民家の脇に岡田盛正翁記念碑があった。
術流観流、明治28年門弟中建立と読めた。

この岡田盛正は和算家で、近くの水雲神社(国見町貝田)に
算額(3問)を明治31年に奉納している人だ。

この算額とは、和算家が自分の発見した数学の問題や
解法を書いて神社に奉納した絵馬のことだ。

江戸時代中期の寛文年間(1661~73年)の頃より始まった風習で、
現在全国に約800余面の算額が現存している。

数学の問題が解けたことを神仏に感謝し奉納したようだ。




詳細リンク:旧奥州街道166「国見・貝田宿~出口枡形」/街道写真紀行
(福島県国見町貝田) 1003/1008

2010/08/24

55貝田宿/旧奥州街道165

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国見・貝田

国道4号線の下を潜り反対側に出る。
貝田宿への道は、この果樹園と畑の中の坂道であったが、今は失われている。

遠く、阿武隈高地が望める景色の良いところだ。
右端の山が霊山である。




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貝田宿入口、三ツ石

国道4号線から別れ、細い坂道を登ってくると、
写真右側の「奥州街道 貝田宿入口」と書かれた表示板に歓迎される。

この辺は枡形になっていたところで、かつては右下から街道が続き、
ここで右折となったようだ。

写真右端の標識のあるところには貝田宿入口にある三ッ石がある。

同じような石が行儀良く三つ並んでおり、昔からの目印であった。

ここに国土地理院の水準点があり、標高は151.8mである。

貝田宿は緩い坂道の途中にある宿場である



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貝田宿町並み

この辺が貝田宿の中心部であったようだ。
貝田宿の大きな説明版があった。

古地図によると、この辺に検断屋敷、制札場(せいさつば)が置かれ、
この左手に問屋場を兼ねていた名主伊左衛門の居宅があった。

石垣によって区切られた屋敷割りは江戸時代からのもので、
町中を流れる風呂沢川(姥上沢)を挟んで、道幅4間(7.3m)、
長さ4丁(435m)の街道沿いに、60戸前後の家並みが続いていた。




詳細リンク:旧奥州街道165「国見・高城~55貝田宿」/街道写真紀行
(福島県国見町高城、貝田) 1003/1008

2010/08/23

国見・大木戸~高城/旧奥州街道164

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旧街道/大木戸

大木戸小学校を過ぎると、正面に山が迫ってきた。
この先の山裾が貝田宿のあるところである。

この辺は山と阿武隈川に挟まれた狭隘の地域で、現在でも東北道、
JR東北本線、国道四号線、旧奥州街道等が厚樫山山麓を並行して
走っているところだ。

街道の天然の大木戸と言う感じで、「大木戸」の字名が付いたのであろうか。
ここは、まだ伊達藩ではないが「伊達の大木戸」とも呼ばれていた。

松尾芭蕉が「奥の細道」で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」と
記録している。




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阿武隈高地遠望

旧街道から右側を見た写真だ。
視界が気持ちよく開けている。

背後の山は阿武隈高地で、中央が霊山(825m)である。




33kaida17  国道4号線交差点

正面に国道4号線との交差点が見えてきた。
旧街道はここから国道4号線の反対の山側の道となる。

旧道は国道4号線の下を潜り、反対側に出る。
いよいよ福島県最北端で、奥州街道45番目の宿場貝田宿となる。




詳細リンク:旧奥州街道164「国見・大木戸~高城」/街道写真紀行
(福島県国見町大木戸、高城) 1003/1008

2010/08/22

映画「ベスト・キッド」

平成22年8月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
べスト・キッド

 2010年 米・中
 
 監督
  ハラルド・
     ズワルト

 
ドレ・パーカー
    ジェイデン・
      スミス


師匠・ハン
    ジャッキー・
      チェン


母、シェリー・パーカー
    タラジ・P・
      ヘンソン

      
  1985年公開の「ベスト・キッド」リメイク版。空手がカンフーになり、舞台がアメリカから中国になっている。
  母親の転職で、アメリカから北京に引っ越してきた11歳の少年ドレは、言葉や文化がまるで違う環境で、苛めにあってしまう。それを助け、カンフーを教えるのがハン。やがてカンフーの試合となり・・・
  オリジナルも良かったが、今回も良く纏まっていた。ジェイデン・スミス(ウィル・スミスの実子)とジャッキー・チエン、そして母親役のタラジ・P・ヘンソンがそれぞれ味を出していた。

詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/08/21

国見・森山~大木戸/旧奥州街道163

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旧街道・峠/国見町森山

県北中学の横を通り、しばらく進むと、正面に峠が見えてきた。
厚樫山(阿津賀志山、289m)に連なる尾根越えとなる。

ここが奥州合戦の古戦場で、往時は阿津賀志山の中腹から、
ここを通り阿武隈川(古代の流路)まで延長3.3~4kmの防塁が
出来ていたという。

源頼朝が率いる鎌倉軍に対して、奥州軍(藤原氏側)が、
この地を陸奥の防御ラインとして、大防塁を構築し2万余騎が布陣したという。




33kaida06s   阿津賀志山防塁跡

防塁のあった位置には、「阿津賀志山防塁横断地点」と
書かれた標識が出ていた。

阿津賀志山は、文治5年(1189年)の奥州合戦の帰趨を決定付けた
最大の決戦場であった。

峠の頂上に一等水準点がある。4個の石に囲まれた丸みを帯びた角柱である。
水準測量に用いる際に標高の基準となる点で、
国土地理院が基本測量点として設置管理している。

旧国道や主要街道沿いに約2km(半里)毎に埋没されている。
ここで、標高78.7mである。

この水準点を探すのも、旧街道歩きの楽しみの一つとなっている。




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峠より阿武隈高地

国見大字森山から大木戸に入る。
街道より右側(南南東)側を見た写真で、阿武隈高地が見渡せるところだ。

山座特定のため、角度を測って「カシミール3D」で確認すると、
一番右端が霊山(825m)であった。

手前の果樹園は、作業していた人に確認すると柿の木だそうだ。
気候と土壌が合い、柿の栽培に適しているとのこと。
秋の生柿と、冬季のあんぽ柿(干し柿)は国見町の特産品となっている。

峠を下ると、右側に大木戸小学校がある。

この小学校の手前の道を右に入ると、岩淵遺跡(町史蹟)のあるところだ。
高城の中山原にある縄文時代中期(4500年前頃)の竪穴式住居跡があり、
当時の竪穴式住居が復元されている。

大木戸は、明治9年に西窪村が大木戸村と改称されている。
その後、明治22年には大木戸、高城、貝田、光明寺村が合併して
大木戸村となった。
そして昭和29年に合併して国見町となっている。

又、大木戸は奥州軍の本陣(貝田)のあったところである。




詳細リンク:旧奥州街道163「国見・森山~大木戸」/街道写真紀行
(福島県国見町森山、大木戸) 1003/1008

2010/08/18

国見・藤田~森山/旧奥州街道162

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旧街道/藤田・町尻

藤田宿を出ると、街道はやや下りとなる。

左端の山が 鎌倉軍と藤原氏が戦った奥州合戦の古戦場である
厚樫山(あつかしやま、289m)だ。

文治5年(1189年)の奥州合戦の際は、この山一帯が戦場であったようだ。
その時造られた二重堀(阿津賀志山防塁)が、
山中から山麓にかけて現存している。

現在は、山頂まで車道が出来、山頂には展望台が設けられているという。




32fujita26s  滝川

滝川を渡ると、国見町大字藤田から大字森山地区に入る。
正面の橋は国道4号線だ。

滝川は福島県と宮城県境の馬頭山(678m)南東麓を源流とする川で、

阿武隈川に流入している。

この先で旧街道は国道4号線に一時合流する。
左手に、頂上に弁慶の硯石のある硯石山があるところだ。

弁慶が頂上にあるこの石で墨を摺り、
義経に同行しようと駆けつけてくる武士の名を記したと伝えられている。



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国道4号線分岐/国見・森山

国道四号線に合流し少し歩くと、旧街道は右側の細い道となる。
この写真右手に国見町立県北中学校のあるところだ。
住所は国見町大字森山字西上野である。

国見町の北側が、宮城県の白石市となる。
県北中学校は、文字通り福島県の北端の中学校である。

昭和25年に当時の各町立小坂中、藤田中、森江野中が合併して
県北中として開設されたのが始まりである。
昭和36年には、大木戸中、大枝中国見分校を統合して
国見町唯一の中学校となっている




詳細リンク:旧奥州街道162「国見・藤田~森山」/街道写真紀行
(福島県国見町藤田、石母田、森山) 1003/1008

2010/08/17

国見・藤田宿北/旧奥州街道161

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藤田宿土蔵

藤田宿の北地区(大字藤田字北)に入ると、
街道左手に往時を思わせる土蔵がある。

入口には「ご自由にお入り下さい、村上医院」と張り紙がしてあった。
村上医院は、内科、消化器科、循環器科、外科、皮膚科を
標榜している医院だ。




32fujita18s  奥山家洋和館

その先左側に一見変わった建物がある。
この地方では数少ない和洋両方の接客空間を備えた奥山家住宅で、
国登録有形文化財となっている。

大正10年に建築されたものだ。
西洋館は八角の塔屋を持ち、外壁はタイル貼り、
土台は高い積石となっている。



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藤田宿出口枡形

藤田宿の出口付近の枡形である。ここで右折し、すぐ左折となっている。

正面の神社は鹿島神社である。
鎮守府将軍大野東人が蝦夷征伐で陸奥に来て、
養老~神亀(717~728年)に掛けて藤田柵を築き、丑寅の方向に
鹿島神社を鎮座したのが始まりとか。
その地が、今の古鹿島である。


永禄年間(1558~69年)社殿が焼失し、元亀年間(1570~72年)に、
地頭藤田兵庫により再建された。

そして、享保9年(1724年)に古鹿島の地からここに遷座されたとの事。

神社境内に、国見町のあつかし俳句会のメンバーが
昭和62年に建立した句碑である。

上段に会員の俳句3句、下段に建碑の趣意と3句が刻まれてあった。
昔から奥州街道を行き来する多くの人がを足を留め、
また歌や句を残した厚樫山(289m)の伝統を
今も継いでいこうという趣意のようだ。

  その中から一句
  「山麓に 芭蕉の碑あり 夏木立」





詳細リンク:旧奥州街道161「国見・藤田字北~鹿島神社」/街道写真紀行
(福島県国見町藤田字北) 1003/1008

2010/08/15

国見・藤田宿観月台/旧奥州街道160

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観月台公園

街道左側を少し入ったところにある桜の名所・観月台公園。
もと農業用灌漑池のあったところで、今は公園として綺麗に整備されている。

正面の建物は平成6年にオープンしたばかりの 観月台文化センターだ。
シンボルタワーの高さは28mで、展望室が出来ている。

図書館や入浴施設、コンサートホールまで備えた立派な施設である。
また、公園内には体育館や、県指定文化財である旧佐藤家住宅も
移設されている。

観月台文化センターの北側には、北古館、南古館等の字名が残されている。
かつての藤田城のあったところだ。

奥州合戦の時、源頼朝が本営としたところで、
以後伊達氏の一族藤田氏の居城であった。
南北朝に、北朝軍に攻められ落城している。

9月には国見町義経まつりが行われている。
この公園で出陣式を行い、鼓笛隊・武者行列が藤田商店街をまわるという。



32fujita13s  JR藤田駅

観月台公園近くのJR東北本線藤田駅。明治33年に開業している。
東京駅より289.3kmの距離だ。



32fujita14s  大千寺

街道に戻ると、すぐ左側に大千寺がある。
正しくは、浄土宗感動山西根院大千寺で、開山は天正3年(1575年)である。

秋葉大権現立像、不動明王立像、六地藏尊が
国見町指定文化財となっている




詳細リンク:旧奥州街道160「国見・藤田字観月台~南」/街道写真紀行
(福島県国見町藤田、山崎) 1003/1008

2010/08/12

国見・54藤田宿/旧奥州街道159

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国見町入口

前方に交差点が見えてきた。
旧街道と、県道46号線(白石国見線、七ヶ宿街道)との交差点である。

国見町に入るとすぐ左側に堰下古墳がある。
直径約20m、高さ3mの円墳で、古墳の表面には石が敷き詰められている。
出土した埋葬品より古墳時代中期の5世紀後半と推定されている。




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藤田宿枡形

県道46号線を渡ると、街道は一番右の道である。
藤田宿入口の枡形で、この先で今度は左に曲がっている。

左の道はJR藤田駅方面である




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54藤田宿町並み

枡形を抜けると、奥州街道の54番目の宿場・藤田宿である。
藤田宿は代官のいる桑折宿と違い、旅人や付近の人にとって
気楽な宿場であったらしい。

そのためか、付近の人や半田銀山の人が旅籠や湯屋に入り浸りと
賑やかであったようだ。
嘉永5年(1852年)で、旅籠は14軒もあった。

なお、この藤田宿は、今は伊達郡国見町(くにみまち)藤田となっている。
昭和29年に、藤田町と森江野、大木戸、大枝、小坂の4村が合併して
国見町となってからだ。

町名の由来は藤田宿の北東にある厚樫山(あつかしやま、289m)が
国見山とも呼ばれていたことによる。

この厚樫山は以前は阿津賀志山と書き、源頼朝が平泉の藤原氏を
攻めた時の古戦場である。
阿津賀志山の戦いは奥州合戦最大の激戦地であったようだ。

その時築かれた二重掘と呼ばれる防塁壁が今でも残されている。
この合戦で手柄を立て、伊達郡を賜ったのが中村朝宗で、
常陸国より移住し、伊達氏と称した。
初代の伊達氏である。





詳細リンク:旧奥州街道159「国見・泉田~54藤田宿」/街道写真紀行
(福島県国見町泉田、藤田) 1003/1008

2010/08/11

桑折追分/旧奥州街道158

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桑折追分

東北本線福島駅発7:03の電車に乗り、桑折駅に着いたのが、
7:16であった。
そして、桑折駅から前日に中断した旧奥州街道に復帰する。

今日は藤田宿、貝田宿、宮城県の越河宿、斎川宿を経て、
白石宿まで踏破予定である。

今回で長かった福島県を終り、いよいよ宮城県に入る。
さぁ、元気を出して出発である・・・・

桑折駅口を出ると、程なく奥州街道と羽州街道(左側)の追分である。

江戸と出羽国を行き来するには、この羽州街道を通り、
桑折追分で奥州街道に合流するコースが普通であった。
ここを通る参勤交代の大名は十数藩にも及んだ。

羽州街道は桑折から山形、新庄、横手、六郷、久保田(秋田)、
能代、大館、弘前、そして青森に至る街道である。

この内、桑折から上山(山形県)までを七ヶ宿街道とも呼んでいた。


桑折追分は綺麗に整備され、真新しい休憩所も出来ていた。
そして道路拡張で散在した庚申塔や地中に埋まっていた
古道標等の石柱や、柳の句碑もここに集められてあった。

柳の句碑(左端)は、約230年前に俳句の師匠であった
ト而翁の急逝を悼み、その徳を慕って桑折社中の友が
ここ追分に建てたものである。

ト而翁の句は、安永8年(1780年)夏五月
   「夕暮な 恋の通婦 柳哉」と読めた。


ト而翁は酒好きでもあったようだ。

当時の桑折宿は、参勤交代や芭蕉の奥の細道行脚以降文人の往来が多く、
中央からの文芸の情報が得られやすく、俳諧への関心も高まっていた。

特に、佐藤馬耳の仙台藩主吉村公との歌会や、芭蕉追善句会の
歌仙を巻くなどの活躍で俳諧が盛んとなり、
近郷への発信地ともなっていたようだ。




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半田山

桑折宿を出ると街道左手には半田銀山で知られた半田山(863n)の
雄姿がよく見える。

半田山山麓にある半田沼は、伝説の沼としても知られている。
源義経が平泉の藤原秀衡を頼り、この沼を通った時、
金銀を背にした牛が暴れて沼に落ち、以来この沼の主になったという。
その牛は人を襲うので、沼に近づかないようにと伝承されていたようだ。

もっともこの半田沼は旧半田沼のことで、
半田山の明治の陥没地すべりで埋まってしまった。

今の半田沼はこの地すべりで出来た新しい沼である。
付近一帯は半田山自然公園として整備されている。



32fujita05

旧街道/桑折北半田

桑折宿・南半田を抜け、北半田に入る。

北半田を過ぎると桑折町から国見町に変わる。
かつての奥州街道54番目の宿場・藤田宿があったところである。




詳細リンク:旧奥州街道158「桑折・追分~北半田」/街道写真紀行
(福島県桑折町南半田、北半田) 1003/1008





2010/08/10

JR福島駅前/旧奥州街道157

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福島駅前通り

ホテルを朝6:30に出発。
今回の街道歩きの二日目である。

写真はホテル(福島東急イン)の横の道(県道373号線)だ。
未だ人通りは殆ど無かった。

今回は7:03始発の仙台行き電車で、
昨日街道歩きを中断した桑折駅に向かう。


少し、時間があったのでコンビ二で昼食を買い、

そのあと駅前を少し歩いてみた。



31koori51s 芭蕉・曾良旅姿立像

駅前に芭蕉・曾良の旅姿立像である。
二人は元禄2年(1689年)、福島宿で一夜を過ごしている。

この像は、奥の細道300年を記念して、福島商工会議所の有志が
平成元年(1989年)に建立したものだ。



31koori52s 古関祐而記念モニュメント

古関祐而の生誕100年を記念して、
平成21年に設置されたモニュメントである。

氏は明治42年福島市に生まれ、
昭和54年に最初の名誉市民となっている作曲家だ。

代表曲は「長崎の鐘」、「君の名は」、「とんがり帽子」、「イヨマンテの夜」、
「オリンピックマーチ」等多彩である。

福島駅の発車メロディーは在来線で「高原列車は行く」、
新幹線ホームは「栄冠は君に輝く」で、共に古関の曲が使用されている。




詳細リンク:旧奥州街道157「JR福島駅前」/街道写真紀行
(福島県福島市栄町) 1003/1008


2010/08/09

JR桑折駅~福島駅/旧奥州街道156

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JR桑折駅

上町の無能寺を出ると、正面にJR桑折駅口の交差点が見えてきた。
今回は、ここで街道歩きを中断して、JR桑折駅に向かう。

桑折での宿泊を考えて探したが、市街地には無かった。
仕方ないので桑折駅から福島駅まで電車で戻り、福島のホテルに
泊まることにする。

なお、駅から離れているが、産ヶ沢川沿いにある桑折温泉「うぶかの郷」は
宿泊可能である。


JR桑折駅は伊達郡では一番最初の明治20年に開業している。
東京から285.9kmの距離だ。

背後の山が銀山で知られた半田山(863m)である。

手前の低い山は桑折西山城のあったところだ。
文治5年(1189年)伊達朝宗が、源頼朝の平泉藤原氏討伐の時に
手柄を立て、恩賞として伊達郡を賜った時ここに城を構えた。
15代目の晴宗が米沢に移るまで、約360年も伊達氏の本拠であったところだ。

駅の待合室に隣接した部屋に、郷土品や地元紹介のチラシが置いてあった。
ここで頂いた桑折町散策ガイドは重宝した。
桑折町役場産業振興課の発行したものだ。





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JR福島駅

桑折駅発17:02の電車で、福島駅に着いたのは17:16であった。

福島駅は明治20年に開業した大きな駅だ。
大宮-仙台駅間では最大の駅舎設備となっている。
東北新幹線の停車駅で、当初奥羽新幹線の分岐駅として

建設されたことによるが、現在は山形新幹線が利用している。

この奥羽新幹線は、福島から山形を経由して秋田までの
新幹線基本計画路線であるが、計画のままとなっている。



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信夫山

今回は、駅近くの福島東急インに宿泊する。
東急の株主優待券を使っての宿泊であった。

写真はホテル(12階)の窓より、福島市街を見下ろしたものだ。
前方の山が、福島市のシンボルでもある信夫山(273)mである。




詳細リンク:旧奥州街道「JR桑折駅~福島駅」/街道写真紀行
(福島県桑折町上町、南半田、福島市栄町) 1003/1008

2010/08/08

映画「ソルト」

平成22年8月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
ソルト

 2010年 米
 
 監督
  フィリップ・
     ノイス

 
イヴリン・ソルト
    アンジェリーナ・
      ジョリー

ウィンター
    リーヴ・
      シュレイバー


ピーボディ
    キウェテル・
      イゾフォー
      
    アンドレ・
      ブラウアー

  CIAエージェントのソルトは、陰謀によってロシアのスパイの嫌疑を掛けられてしまう。逃走を図ったソルトは、CIAの追跡をかわしながら、自らの嫌疑を晴らすべく、独りで真相究明に乗り出す。
  潔白を証明したいヒロインがスリリングな逃亡と、犯人を探し出すプロセスが、軽快に描かれている。ソルトを演じた、アンジェリーナ・ジョリーの正に独り舞台であった。




詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/08/07

桑折宿・北町~上町/旧奥州街道155

31koori38

桑折、清酒醸造元

桑折宿北町の街道左側にある清酒醸造元。
「奥州・羽州街道桑折宿」と書かれた暖簾の桜川酒造(有)だ。

近くの小学校の名前が醸芳小と言うのが気になった。
調べてみると、やはり桑折は造り酒屋が多く、肖って命名したようだ。

それも、明治9年の明治天皇東北巡幸のおり、当時の桑折小学校で
小休止され、その時随行していた木戸孝允が「醸芳」という言葉を
揮毫(きごう)された。

酒を醸すこと、転じて物を熟成する意味に用い、
芳は薫ある花の事で転じて賢者能士と言う意味に用いられる。

従って、醸芳小とは賢者能士を養成すること、あたかも米麹に和して
酒を熟成するように、盛んに多くの人材を育成すると言う意味とのこと

なお、街道右側には醸芳中学校もある。



31koori39

無能寺

街道左にある無能寺。
この名称も気になるが、これは無能上人からきている。

縁起によると、慶長元年(1596年)に良然上人が創建し、
当初は正徳寺と称していた。
その後無能上人(1683~1719年)が当山を中心に教えを広め、
多くの信徒を集めた。
入寂後に弟子が無能上人の徳を崇め、寺名を「無能寺」と改称したとのこと。

無能寺は、律院(りついん)として多くの僧の修行の場であった。
寺門が屋根つきの冠木門と珍しい形をしている。

城郭のような土塀の参道を無能寺に入る。
境内には無能上人や、桑折代官寺西封元の墓がある。
また、明治天皇小休所と刻まれた石碑が入口にあった。



31koori41s  無能時・御蔭廼松

無能寺本堂前の御蔭廼松(みかげのまつ)と呼ばれる見事な松ノ木である。

明治14年の明治天皇東北巡幸の際、この寺が小休所となり、
その時お供の杉宮内大輔の詠まれた歌
  「おほきみの みかげの松の 深みどり
   夏も涼しき 色に見えつつ」
より「御影廼松」と命名された由。
樹齢400年で桑折町の天然記念物に指定されている




詳細リンク:旧奥州街道155「桑折宿・北町~上町」/街道写真紀行
(福島県桑折町北町、上町) 1003/1008

2010/08/06

桑折宿・北町/旧奥州街道154

31koori28

桑折御蔵

桑折宿の本町から北町に入ると、街道左側に、かつての店蔵を利用した、
桑折御蔵(こおりおんくら)がある。

こおり案内、おもてなし処、お気軽にお立ち寄りくださいと書いてある。

現在の茶屋と観光案内を兼ねた施設で、
運営は「元気こおり本舗有限責任事業組合」と
木製の立て看板に書かれてあった。

実際は桑折町女性団体連絡協議会会員を中心とするスタッフが、
ボランティアで運営しているようだ。

この建物は明治時代の店を改装して利用している。
街道歩きの旅人にとっては、実にありがたい施設である。
(但し飲食は土のみで、平日は要予約、5名以上)




31koori31s  法圓寺

左側にある法圓寺。
正しくは真言宗豊山派朝日山法圓寺で、創建は
慶安・万治年間(1650年頃)である。



31koori35

芭蕉田植塚

法圓寺境内の一隅に、芭蕉田植塚(写真中央奥)がある。

芭蕉が須賀川の等窮宅で詠んだ、
  「風流の初めや奥の田植うた」
の句を、享保4年(1719年)に俳人佐藤馬耳(前述)がここに埋め、
塚を築き芭蕉翁と刻んだ碑を建立し、芭蕉の供養と、
信達地方の俳壇の隆盛を祈願したという。

写真手前右は、芭蕉の真筆を石に刻んだ句碑となっている。


そういえば、おくの細道に
   「短夜(みぢかよ)の空もやうやう明くれば又旅立ぬ。
   猶夜の余波(なごり)、心すすまず、馬借りて桑折の駅に出づる」
の件がある。




詳細リンク:旧奥州街道154「桑折宿北町~法圓寺」/街道写真紀行
(福島県桑折町北町) 1003/1008

2010/08/04

桑折宿本町~大安寺/旧奥州街道153

31koori22s  桑折・道路元標

旧街道が、旧伊達郡郡役所の前を左折する角に桑折町道路元標がある。

思えば、江戸日本橋にある日本国道路元標から歩き始めてから、
今日で25日目である。日光参拝分を除くと23日だ。

良くここまで歩いてきたものだと、独り感心した。  



31koori23

桑折宿・本陣跡

旧伊達郡郡役所の前を左折すると、右側に桑折町本陣跡と書かれた
真新しい木製の標識があった。

旧奥州街道で本陣がある宿場は少ないので、
いかに桑折宿が重要な拠点であったかがわかる。

桑折宿の北の外れに羽州街道追分があり、弘前の津軽氏、
久保田の佐竹氏、新庄の戸沢氏、山形の最上氏等が参勤交代の際、
羽州街道経由でここまで来て、奥州街道に入り江戸に向かった。

また、ここは幕府直轄領であり、宿場の他に半田銀山や
阿武隈川水運の桑折河岸があった。




31koori27

大安寺

立派な木造の旧家の横に、大安寺の参道がある。
左正面は大安寺の竜宮門で、この梵鐘は文政元年(1818年)に
再鋳されたものだ。
桑折町指定文化財に指定されている。

説明板によると境内には、この大安寺を開基した
桑折本陣初代・佐藤新右衛門家忠の墓(寛永14年、1638年歿)や、
4代目佐藤家当主で蕉門俳人の佐藤
馬耳(寛延4年、1752年歿)、
国学者、万葉歌人の安藤野雁(慶應3年、1868年歿)、
桑折代官竹内平右衛門(文化10年、1814歿)、
弘前藩家老高倉相模守盛隆(文政9年、1827年歿)等の墓があるとのこと。

浄土宗金剛山大安寺は、明応年間(1492~1500年)の開山。
明和5年(1768年)の大火で堂宇が焼失したが、その後に再建された。




詳細リンク:旧奥州街道153「桑折宿本町~沢」/街道写真紀行
(福島県桑折町本町、沢) 1003/1008

2010/08/03

53桑折宿/旧奥州街道152

31koori18

桑折宿・諏訪神社

桑折宿入口の枡形を抜けると、右手に諏訪神社がある。
この諏訪神社は伊達氏が城の守護神として、建立したのが始まり。

長野の諏訪社に倣って御柱祭りが、6年に一度行われる。
柱の引き回しと、山車の練り歩きや神輿の渡御も行われる祭りだ。

桑折は古代の東山道の伊達(いたち)駅(馬10疋)があったところで、
古くから開けた町であった。
また、仙台藩主伊達氏の発祥の地でもある。

伊達氏の祖・伊達朝宗(中村念西入道朝宗)は、文治5年(1189年)に
藤原国衡の軍と戦った時の功により、頼朝より信夫、伊達の地を賜わり
伊達と称した。

江戸時代に入り領主は何度か変わったが、貞享4年(1687年)に
幕府領となり代官が置かれた。




31koori20s  伊達郡、旧郡役所

街道右側に旧伊達郡郡役所が残されている。
この建物は、明治16年に県令三島通庸(みちつね)によって、
前任地の西田川郡役所に似せて建てられた。

物見塔のある総2階左右対称の洋風建築で、国の重要文化財に
指定されている。


河岸段丘の上にあり、阿武隈川を眼下にした目立つ建物であった。
ここは、江戸時代は桑折陣屋のあったところである。



31koori21

桑折宿・本町

街道は郡役所の前で左折となり、本町に入る。
ここが桑折宿の中心街であった。




詳細リンク:旧奥州街道152「53桑折宿西町~本町」/街道写真紀行
(福島県桑折町西町、陣屋、本町)) 1003/1008

2010/08/02

桑折宿入口/旧奥州街道151

31koori11

桑折宿入口枡形

旧奥州街道53番目の宿場である桑折宿入口の枡形である。
ここで左折し、桑折寺の前で右折とクランク形の道となっている



31koori12

火伏不動尊、宝積寺

桑折宿枡形の最初の角を曲がったとこにあるのが、
この火伏不動尊の幟のたっている宝積(ほうしゃく)寺である。

鎌倉時代後期の長野善光寺様式の銅でできた仏像が安置されている。

この背後には諏訪神社がある。
伊達氏が城の守護として、創建した神社だ。

参道沿いには古い馬頭観世音と、いぼ神様がある。
もっとも,、いぼ神様はいぼいぼの岩を安置しただけのものだ。
その他、境内に足尾神があり足腰の守護と書かれてあった。

余談であるが語源辞典によると、疣(いぼ)は米粒に似ていることから
「いひぼ(粒)」で、それが略されて「いぼ」となったようだ。
なお、「い」は「出る(いずる)」の下を略したものとのこと。




31koori15

桑折寺

枡形の出口付近にあるのがこの時宗桑折寺である。
伊達氏の分家である桑折氏の菩提寺で、永仁5年(1297年)に開山された。

写真左の桑折寺山門は西山城門を移したもので、
向唐門(むかいからもん)形式のものだ。
福島県の重要文化財に指定されている。

桑折宿の北西の山にあった西山城は伊達氏の居城であったが、
天文17年(1548年)に、伊達氏15代である晴宗はこの城を廃城にして
米沢に移った。その時に譲り受けたようだ。

晴宗は伊達政宗の祖父である。




詳細リンク:旧奥州街道151「桑折・諏訪~桑折宿枡形」/街道写真紀行
(福島県桑折町諏訪、新町) 1003/1008

2010/08/01

映画「インセプション」

平成22年7月
横浜MOVIX


タイトル キャスト コメント
インセプション

 2010年 米
 
 監督
  クリストファー・
       ノーラン          

 
コブ
     レオナルド・
      ディカプリオ

サイトー
     渡辺 謙

アーサー
     ジョセフ・
      ゴードン
      =レヴィット

モル
     マリオン・
      コティヤール

  人が夢を見ている最中に、その潜在意識の奥深くにもぐりこんで、相手のアイデアを盗むことかできるコブであったが、国際指名手配犯となってしまう。
  そんな彼に、顧客の要求に合わせた潜在意識のインセプション(植付け)と呼ばれるほぼ不可能に近い仕事が舞い込む。
  夢の中の階層を描くアイデアが面白く、各階層の夢と現実との間の展開も良く最後まで緊張感を持って楽しませてくれる。

詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

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