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2010年7月

2010/07/31

桑折・産ヶ沢川/旧奥州街道150

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阿武隈高地・霊山

右側に阿武隈高地が見える。
ピークは霊山(りょうぜん、825m)で、左に古霊山(783m)、
窓ノ倉山(674m)、松坂峠(480m)、羽山(458m)と続いている。

霊山は 霊山(825m)は、インドの霊鷲山(りょうじゅうせん)に因んで、
慈覚大師(円仁、えんにん)が名付けたとの事である。


霊山城は南北朝時代の末期には宇都峰山と共に、
東北における南朝側の拠点でもあった。
今はこの辺一帯は、霊山県立自然公園に指定されている。

手前に広がる町は保原である。
同僚の実家があり、仲間と泊まったことがある。
付近一帯はリンゴ園が広がり、5月の連休頃はリンゴの白い花が
真っ盛りとなる。

ここで驚いたのは中通りの習慣という歓待を受けた。
今でも強烈に覚えているのは、一人一人の目の前に酒の杯が
何個も並べられたことだ。


飲みきれずに、酌を受けられないのは失礼と云うことで、
次の杯で酌を受けるのである。
飲みきれずに置いておくと、さらに次の杯にと云うことになる。

もとより、酒は嫌いでは無かったから、ついつい飲み過ぎてしまった。
この習慣は、会津や浜通りでは経験したことが無かった。




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産ヶ沢橋

産ヶ沢(うぶがさわ)川に架かる産ヶ沢橋が見えてきた。
右前方の集落が旧奥州街道53番目の宿場・桑折宿である。

なお、近世以前の桑折宿は、この産ヶ沢川の手前にあり、
元宿、中宿、新宿等の字名が今も残っている。

左の山塊は桑折宿の西側に連なる平沢山(432m)、七ツ森(591m)、
黒山(595m)、そして銀山で有名であった半田山(863m)である。

半田銀山は、文政年間(1818~30年)には、
佐渡・相川、但馬・生野と共に、三大銀山と呼ばれていた。
最盛期には8万人もいたというから凄い。

銀の他に鈴や鉛を産出し、溶接の「半田付け」の半田は
この銀山名から来ている。




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産ヶ沢川下流側

産ヶ沢川の下流側である。
この川の上流部(半田・万正寺地区)に、
「産ヶ沢ホタル自然公園」が出来ている。
ピークには一晩で4000匹を越えるという。

産ヶ沢川は半田山(863m)の北麓を源流とする川で、
桑折宿の西側を流れ、阿武隈川に流入している。

上流には藤倉ダムや、桑折町振興公社が営む桑折温泉「うぶかの郷」が
出来ている。

橋を渡ると右側に、寛延三義民顕彰碑がある。
寛延2年(1749年)の凶作時に、幕領桑折代官神山三郎左衛門の施政に
抵抗して起こした寛延の大一揆の首謀者として、斎藤彦内、猪狩源七、
蓬田半左衛門の3名がここで処刑された。

この一揆の顛末は、明治40年の朝日新聞連載小説、
半井桃水作「天狗廻状」で一躍有名になっている。



詳細リンク:旧奥州街道150「桑折・産ヶ沢川」/街道写真紀行
(福島県桑折町) 1003/1007

2010/07/29

伊達市~桑折町/旧奥州街道149

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旧伊達町郊外

旧伊達町の町を抜けると、右側が大きく開けてきた。
遠くに、阿武隈山地の山々が見える気持ちの良いところだ。



31koori01 桑折町入口

やがて、伊達市と桑折(こおり)町の境界となる。
昭和30年に、旧桑折町、睦合村、伊達崎村、半田村が合併して
現在の桑折町となっている。

なお桑折は、古代の東山道の伊達(いたち)駅家(うまや)があったところで、
郡家(こおげ、ぐんげ)が置かれたことから桑折と改称されたようだ。

街道左手に桑折一里塚跡がある。
左側のみであるが、小さな丘があったような痕跡であった。




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桑折町郊外

街道左側が開け、手前に東北新幹線の高架、
そして背後には平沢山(432m)が見える。

まもなく、旧奥州街道53番目の宿場・桑折宿である。




詳細リンク:旧奥州街道「伊達~桑折」/街道写真紀行
(福島県伊達市、桑折町) 1003/1007

2010/07/28

伊達・川原~JR伊達駅口/旧奥州街道148

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旧伊達町

摺上川に架かる幸橋を渡ると、伊達市川原町に入る。
道は下りとなる。この先で標高は1mを切り、59cmと低地となっている。

なお、古代の東山道伊達(いたち)駅が伊達郡桑折(こおり)にあった。
伊達郡は、伊達政宗の先祖の伊達氏が鎌倉時代から室町時代に
本拠地とした地である。




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旧家/旧伊達町

茅葺屋根にトタンを葺いた家が2軒並んでいる。
赤茶と青の塗装が綺麗な対比であった。




30date06s  JR伊達駅口

次の信号を左折すると約10分(840m)で、JR伊達駅となる。
伊達駅は明治28年の開業当時は伊達郡長岡村にあったことから
長岡駅であった。

しかし、信越本線長岡駅があるため、
大正13年に郡名から伊達駅と改称された。

此処で街道歩きを中断しようとしたが、時間は未だ3:00であるので
先に進むことにする。




詳細リンク:旧奥州街道148「伊達・川原~JR伊達駅口」/街道写真紀行
(福島県伊達市川原町) 1003/1007

2010/07/26

福島瀬上~摺上川/旧奥州街道147

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瀬上雷神社

瀬上から飯坂温泉を結ぶ県道155線(飯坂瀬上線)に沿って
右側にある雷(いかずち)神社だ。

由緒は不明であるが、やはり雨乞いの神、火雷命を祀っているのであろう。
余計なことであるが、雷は「神鳴り」からきている。わかるような気がする。

飯坂温泉は摺上(すりかみ)川の上流にある温泉地だ。
この飯坂温泉と、秋保温泉、鳴子温泉を奥州三名湯と呼ぶようだ。




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瀬上旧家

街道に面した旧家。瀬上宿には、今でもこのような家が残されている。
写真は、看板からすると米屋のようだ。


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幸橋/摺上川

瀬上宿の出口である荒町の枡形を抜けると、摺上川に架かる幸橋に出る。
長かった福島市とも別れ伊達市に入る。

伊達市は、平成18年に伊達郡の伊達町、梁川町、保原町、霊山町、
月館町が合併して出来たばかりの市である。

以前からある北海道の伊達市と全くの同名市で、
広島県と東京都にある府中市と同じ例となってしまった。

摺上川は摺上山(997m)を源流とする川で一部福島市と伊達市の境界を
流れ、阿武隈川に合流している。

上流には摺上ダム(茂庭っ湖)が出来ており、
川沿いに80軒ほどの温泉旅館がある飯坂温泉は歴史が古く、
古今和歌集にも詠まれている。


詳細リンク:旧奥州街道147「福島・瀬上~摺上川」/街道写真紀行
(福島県福島市瀬上町荒町、伊達市川原町) 1003/1007

2010/07/25

52瀬上宿/旧奥州街道146

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52瀬上宿町並み

瀬上(せのうえ)の枡形を抜けると、奥州街道52番目の宿場となる。

瀬上宿は阿武隈川水運の瀬上河岸があり、
また飯坂を経て山形へ抜ける山形道や、月の輪渡しを経て
保原、相馬へ抜ける中村街道の追分があり、
2と7の日の6斎市は近隣の人で賑わったようだ。

また、こうした地の利があったので、瀬上花街としても知られていた。

瀬上は寛永十二年(1800)以降、備中足守藩(現岡山県岡山市)の
領有地となり、宿場の中ほどに瀬上陣屋が設けられていた。

足守藩より派遣された代官が、この地を治めていた。



29hukusima60s  台巌寺

街道右側にある浄土真宗台巌寺。
この公孫樹は福島市保存樹に指定されている。樹高15m。

また寺にある国史跡・石母田供養石塔(国史蹟)の模刻は
市有形文化財に指定されている。
享和3年(1803年)に作成されたものだ。
   


29hukusima62s  瀬上小学校

龍源寺と旧街道を挟んで反対側にあるのが福島市立瀬上小学校である。

この瀬上小の裏手(北西部)がもと備中足守藩陣屋があったところだ。
民家(斉藤氏宅)の庭奥に石碑が建っている。



詳細リンク:旧奥州街道146「福島・52瀬上宿」/街道写真紀行
福島県福島市瀬上・本町、一ノ坪)) 1003/1007

2010/07/24

福島・八反田川~瀬上宿入口/旧奥州街道145

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八反田川

八反田川に架かる橋本橋より上流を見た写真である。

福島市黒森山(665m)と烏帽子岳(475)山麓を源流として、
市内を横断し阿武隈川に流入している河川で、
上流部には大笹生ダムが出来ている。




29hukusima54s  福島学院前駅/阿武隈急行

阿武隈急行線の福島学院前駅である。
平成12年に開業した新しい駅で、ホームは高架となっている。

阿武隈急行線は福島駅と宮城県柴田町槻木(つきのき)駅を結ぶ路線である。



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瀬上宿入口、枡形

旧奥州街道52番目の宿場・瀬上(せのうえ)宿入口の枡形である。
正面の丁字路で、右に曲がり、すぐまた左に曲がっている。

瀬上宿は阿武隈川水運の瀬上河岸があり、
また飯坂を経て山形へ抜ける山形道や、
月の輪渡しを経て保原、相馬へ抜ける中村街道の追分があり、
2と7の日の6斎市は近隣の人で賑わったようだ。

また、こうした地の利があったので、瀬上花街としても知られていた。

瀬上の枡形を抜けると右手に青柳神社がある。
祭神は大山祇神、磐長姫、木花開耶姫である。

境内社に村々の境界に多い道祖神を祀った石祠があり、
ここのご神体は男根石と女陰石である。




詳細リンク:旧奥州街道145「福島・八反田川~瀬上宿入口」/街道写真紀行
(福島県福島市鎌田、瀬上) 1003/1007

映画「必死剣鳥刺し」

平成22年7月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
必死剣鳥刺し 

 2010年 日
 
 監督
  平山 秀幸

 
兼見三左エ門
     豊川 悦司

里尾
     池脇 千鶴

中老・津田民部
      岸部 一徳
     
      戸田 奈穂
      村上 淳
      油井昌由樹

  東北の小藩の近習取締役は、藩主の失政の元凶である愛妾を城中で刺殺するが、何故か寛大な処置により1年の閉門の後、再び復職する。その筋書きには理由があった・・・・
  状況設定は凝っていたが、脚本(原作)の限界か、今一つ物足りない映画であった。

詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/07/23

福島・本内~鎌田/旧奥州街道144

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旧街道(電車道)/本内

松川を渡ると、旧街道は真っ直ぐ北上となる。
この道は明治41年、私鉄の軽便鉄道の電車道となった。

福島市駅から長岡村を経て飯坂の湯野に至る電車で、
福島市街と長岡の間の殆どが、旧奥州街道の道の上に
線路が敷かれていたという。

その後、福島電鉄となり昭和45年まで続いていたが、
惜しまれて廃線となった。



29hukusima49s  本内八幡神社/本内館跡

左奥に本内八幡神社がある。
ここの住所が本内字南古館とあり、もと陸奥・本内館(やかた、平城)が
あったところだ。

土塁跡や濠跡が一部残されている。



29hukusima50s  鎌秀禅院/鎌田城跡

左側に曹洞宗鎌秀禅院。
ここの住所が福島市鎌田字古館である。

調べてみると、弘長2年(1262年)、大和国より移封された宇野信次が
築城し、以後鎌田城と称して代々居城としていた。

戦国時代、鎌田氏は伊達氏の家臣となっている。
天正18年(1590年)廃城となった。

その後、文永年間(1264~75年)に宇野信次が創建した鎌秀院を、
この城跡に再建したという。
寺名は、信次の法名(鎌秀院殿源性信大居士)からとったものだ。




詳細リンク:旧奥州街道144「福島・本内~鎌田」/街道写真紀行
(福島県福島市本内、鎌田) 1003/1007



2010/07/21

福島・松川/旧奥州街道143

29hukusima44s  祓川緑道のマンホール

岩谷観音前から、祓川沿いの緑道を松川に向かう。
約1kmの快適な遊歩道となっている。

信夫山沿いには、石塔・石仏が多くあるところだ。
かつての街道筋にあったものを移したのであろう。

その遊歩道に設置された、綺麗なマンホールの蓋である。
最初判らなかったが、良く見ると、信夫山の大草鞋祭りの様子を
デザイン化したものだ。

街道歩きをしていると、この足元のマンホールの蓋も楽しみの一つである。
各自治体で、様々なデザインの蓋があるのだ。

このマンホールの蓋の写真を収集しているマニアも多数いる。
中でも、当サイトと相互リンクしている「
マンホール風土記」は
なかなか見応えがあるサイトとなっている。 



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松川、上流側

祓川と松川の合流点である。旧街道はこの左から右に渡った。
記録によると少なくとも宝永3年(1706年)以降は板橋が架かっていたようだ。

松川は山形県米沢市南東部の吾妻連峰を源流とする川で、
福島市に入り阿武隈川に合流している。

1600年の関ヶ原の戦いの時、陸奥では上杉景勝と東軍の伊達政宗による
小競り合いが各地で展開されたが、ここ松川でも行われている(松川の戦い)。

ただ、当時の松川は信夫山の北側でなく、南側の現在の祓川を
流れていたので、合戦の場はここではなく、今の福島市街部であった。




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松川、対岸

松川のやや下流に架かっている現在の松川橋を渡り、対岸にくる。
もちろん今は木橋ではなくコンクリートの橋だ。

旧街道は写真左の河原から、この土手に上がり、
そのまま右(北側)の細い道を進む。




詳細リンク:旧奥州街道143「福島・岩ノ前~松川」/街道写真紀行
(福島県福島市岩ノ前、松川畑) 1003/1007

2010/07/20

福島・信夫山~祓川/旧奥州街道142

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岩谷観音より福島市街

岩谷観音から東側の福島市街を見た写真である。

ほぼ福島盆地の中央にある信夫山から見ると周囲が山に囲まれて、
いかにも福島盆地らしい眺めとなっている



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磨涯仏と石塔群

階段を登った鐘楼の裏手の崖にも磨崖仏が多数彫られてあった。
その他、福島八景記念碑、古峰神社、庚申塔等がある。

この福島八景とは、明治30年代に選定されたものだ。
当時の福島は東北地方の金融、経済の中心地で、
多くの歌人に和歌が詠まれたようだ。


しかし、歌碑が現存するのは、ここ岩谷観音の厳窟晴胤、
弁天山の八千代山暮雪、仏眼寺の逢隅帰帆だけで、
他の5つの歌碑は失われてしまい、場所も特定できないという。




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祓川緑道

信夫山を下り、松川に向かう。かつての奥州街道は、信夫山の山麓を北上し、
松川を渡り、次ぎの52番目の宿場・瀬上に向かった。

今は、その道筋ははっきりしないが、ほぼこの祓(はらい)川に
沿った道であったようだ。
山岳信仰の盛んであった頃は、この川の水で身を清めてから
山に入ったという。
文字通り穢れを祓う川であった。

今は、快適な緑道となっている。

なお、この祓川は森谷の湧水を源流として信夫山南麓を流れ、
阿武隈川支流である松川に合流している。




詳細リンク:旧奥州街道142「福島・信夫山~祓川」/街道写真紀行
(福島県福島市岩谷) 1003/1007

2010/07/18

福島・信夫山、岩谷観音/旧奥州街道141

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信夫山・岩谷観音

新達盆地の略中央に位置し、古くは岑越山、青葉山とも呼ばれた。
写真は、その信夫山の東麓登山口である。

古来信仰の山で、信夫三山や御山(おやま)とも呼ばれた。
写真の階段の上が磨涯仏で知られた岩谷観音である。

なお、信夫山の山中には、古い金山の坑道と、太平洋戦争時に掘削された
軍需工場(中島飛行機、航空機エンジン工場)の地下壕が眠っている。

岩谷観音への階段の途中右側にある鷹尾山観音寺の地蔵尊群の傍に
「長命成願 地蔵御詠歌」が掲示されていた。

   あらとうと いわやのもとに 
   おはします じぞうぼさつを
   たのめもろびと

   なむじぞう しょうびうなかれと
   ねがひつつ まいれるひとは
   ちょうめいなるらん




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岩谷観音、磨崖仏群

岩谷観音は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、
五十辺の館に居館をかまえてきた豪族伊賀良目七郎高重が、
持仏の聖観音を安置した「窟観音」に始まる。

宝永6~7年(1709~10年)に、都の三十三観音巡拝の風が伝わってきて、
ここに西国三十三観音の磨崖仏が彫られ、岩谷観音が形成されたようだ。


その後、三十三観音の他に60体にも及ぶ供養仏が彫られた。

写真右手前には、応永23年(1416年)に宥海法印が建立したと
伝えられている岩谷観音堂がある。
俗名を尾形四郎憲春といい、伊賀良目氏の後裔にあたるという。





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信夫山、階段

磨崖仏の横の階段をさらに登ってみる。
この先が信夫山の登山道となっている。

信夫山は、東から熊野山(268m)、羽黒山、羽山の3峯で構成され、
これらを合わせて信夫三山と呼ばれることもある。

それぞれの山の名称からもわかるように、山岳信仰と結びついた山で、
熊野山には湯殿神社、羽黒山には羽黒神社、羽山には月山神社と、
出羽三山が勧請され祀られている。

信夫三山暁参り、大草鞋奉納が有名だ。




詳細参照:旧奥州街道141「福島信夫山、岩谷観音」/街道写真紀行
(福島県福島市岩谷) 1003/1007

2010/07/16

福島・五老内~岩谷下/旧奥州街道140

29hukusima26s  鼻取地蔵尊

街道は福島市五老内町(ごろううちまち)に入ると、左側に鼻取地蔵尊がある。

かつての浜辺村五良内にあった地蔵尊で、
村の子供を守り救ってくれたことから鼻取地蔵菩薩として
村人の信仰を集めていた。

貞享2年(1685年)龍鳳寺の和尚により地蔵堂が再建された。



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JRA福島競馬場

松浪町に大きな建物がある。東北で唯一のJRA福島競馬場である。
大正7年に初開設、平成9年にリニュアルされた。




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信夫山

広布寺の先が、岩谷下交差点で、なんと7差路となっている。
旧街道はここで左から4本目の道に入り、信夫山裾を北上している。

4号線を挟んで、反対側には信夫山(273m)が横たわっている。
古くの修験の山で、羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山が祀られ、
信夫三山とも呼ばれていた。

また歌枕の地としても有名なところだ。




詳細リンク:旧奥州街道140「福島・五老内~岩谷下」/街道写真紀行
(福島県福島市五老内町、松浪町、八島町) 1003/1007

2010/07/15

福島宿・宮町~豊田町/旧奥州街道139

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福島稲荷神社・旧拝殿

北町に入り街道は右折し東に向かう。
その左手にあるのが福島宿の総鎮守である福島稲荷神社だ。

一條天皇の永延元年(987年)、従五位下安倍朝臣晴明が奥州下向の際、
この地に一祠を建て、福島の郷の鎮守としたのが始まりである。
祭神は豊受比売命、配神は大国主命、事代主命。

左正面の建物は旧拝殿で、現在は神社絵馬殿となっている。
この建物は、昭和14年の拝殿改築にあたり、
それまでの拝殿を絵馬殿としてここに移築したものだ。

この旧拝殿は元禄5年(1692年)に福島藩主堀田正仲が
造営したものといわれ、現存する福島の建造物中、最古のもののようだ。

この裏に新しい拝殿が出来ている。




29hukusima22s  福島稲荷神社拝殿

これが現在の新しい拝殿で、昭和14年に完成したものだ。

境内社として古岑社、聖徳太子社、足尾社が祀られている。 



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豊田町(旧馬喰町)

福島宿北町を抜けると街道は左に曲がる。

豊田町で、かつての馬喰町のあったところだ。
今は国道4号線バイパス沿いに移されているが、
ここにあった馬頭観音堂を中心に馬市が開かれていたところだ。

なおこの先、街道沿い右側に東北では唯一の競馬場がある。

この写真の手前方向は舟場町で、阿武隈川に面した町域で、
かつては舟場河岸のあったところである。




詳細リンク:旧奥州街道139「福島宿宮町~豊田町」/街道写真紀行
(福島県福島市宮町、北町、豊田町) 1003/1007

2010/07/14

福島宿中町~上町/旧奥州街道138

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福島宿・中町

左の建物は、㈱いわきで、創業228年の大型きもの専門店である。
その右の瓦葺の家は、旅館藤金だ。明治元年創業という。

この辺は今も旧街道に面してサンプラザホテル、サンルートホテル等
ビジネスホテルの多いところである。

この先が本町の交差点である。旧街道はここで右折となる。

左はJR福島駅のあるところだ。
この交差点の反対側には福島宿本陣(黒澤六郎兵衛宅)、
脇本陣(寺島源吉宅、安斉一郎右衛門宅)があったところである。






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福島城跡/福島県庁

本町の交差点を右折し少し進むと、右側に福島県庁がある。

ここがかつての福島城(旧杉妻城)のあったところだ。
土塁の一部が残されているだけで、福島城跡と書かれた石碑以外は
痕跡は何も残されていない。

ただ、地名が杉妻(すぎのめ)町として残されている。





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上町

市水道局の手前の角を左に曲がると、レンガを敷き詰めた通りとなる。
ここがかつての奥州街道であった。





詳細リンク:旧奥州街道138「福島宿本町~上町」/街道写真紀行
(福島県福島市本町、上町) 1003/1007

2010/07/13

51福島宿/旧奥州街道137

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51福島宿・柳町

須川(現荒川)の信夫橋を渡ると、福島城の城下町、
旧奥州街道51番目の宿場・福島宿で、
阿武隈川水運の要地であった。

福島城は、信夫の庄司佐藤基治が
源頼朝軍と戦った文治5年(1189年)の頃は、
その一族杉妻(すぎのめ)太郎行長お居城で、杉妻城と呼ばれていた。

伊達氏が支配した頃は、杉目大仏とその堂宇がここにあったので
大仏城と呼ばれた。

会津に入った蒲生氏郷の客将木村吉清の居城となり、
文禄元年(1592年)に改修して福島城と改称した。

その後は延宝7年(1679年)本多15万石、
貞亨3年(1686年)堀田10万石、
元禄15年(1702年)からは板倉3万石の城下町として発展してきた。

写真左端は柳町の「奥州街道福島村八島屋紙店」との看板を掲げた老舗だ。
祝儀用品一式、結納品や熨斗紙等を扱っている。

街道左側の裏に真言宗室生派真浄院がある。
信夫新西国三十三観音霊場の第2番で、札所本尊は千手観世音菩薩だ。

この辺一体は城下町特有の寺町となっており、
多くの寺院が集められているところだ。

29hukusima15s_2  荒町

柳町から、荒町に入る。この右手に福島城があった。
今は福島県庁となっているところだ。

この辺もかつては枡形であったようだ。
今でも道は拡幅されているが、枡形の面影が残されている。



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荒町の老舗

荒町の旗・袢天と看板を掲げた中山染工場。
創業190年と歴史のある店で、神社の幟や、大漁旗、横断幕や
祭りの半纏などを今でも作っている。

その右隣は「みそぱん元祖」と書いてある駒田屋本舗である。
江戸時代創業の和菓子屋で、福島藩御用商を務めていた。
明治9年の明治天皇東北巡業の際は、ここで和菓子や飲料水を献上した由。
その井戸は今も使用されているとのこと。

店の前に三代目当時の店舗の様子を描いた絵図と、
明治天皇拝領の片口の写真が掲げられてあった。




詳細リンク:旧奥州街道137「51福島宿・柳町~中町」/街道写真紀行
(福島県福島市柳町、荒町、中町) 1003/1007

2010/07/12

映画「プリンス・オブ・ペルシャ」

平成22年7月
横浜 MOVIX

タイトル キャスト コメント
プリンス・
オブ・
ペルシャ
/時間の砂
 
 2010年 米
 
 監督
  マイク・
   ニューウェル

 
王子ダスタン
   ジェイク・
     ギレンホール

タミーナ王女
    ジェマ・
     アータートン


ニザム
    ベン・
     キングズレー

シーク・アマール
    アルフレッド・
     モリナ

  古代ペルシャ。少年の時シャラマン王に見込まれて養子となり、ペルシャ帝国の第3王子となったダスタンは、勇猛果敢な若者に成長した。
  ある日、敵国への武器供与の情報を得た王の腹心の弟ニザムと王子三人は力を合わせ、聖地アラムトに攻め入り制圧する。
  ところが聖地への進軍は王の怒りを買い、武器供与の証拠を示せと息子達に迫る・・
  実に良く練れた脚本で、最後までスピード感のある痛快なアクション・アドベンチャーとなっている。なお、撮影はモロッコで行われた。

詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/07/10

福島・大森川~荒川/旧奥州街道136

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大森川上流、吾妻連峰

大森川に架かる荒川橋より上流側を見た写真である。
遠く雪を被った吾妻連峰と手前の高架は東北新幹線である。

中央の真っ白な三角形の山が吾妻小富士(1705m)だ。

子供が小さい時、一緒に頂上まで登ったことがある山である。
始めて見る火口に驚いていたことが、昨日のように思い出された。




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荒川、阿武隈川合流点

大森川(旧荒川)に続いて、今度は現荒川に架かる信夫橋を渡る。

荒川は吾妻連峰高山(1805m)の西に位置する鳥子平を源流とする川だ。
もとは須川と呼ばれたが、荒川の流路が変わり須川と合流した為、
今は荒川と呼ばれている。

江戸時代は、この須川(現荒川)を渡ると、福島の城下町であった。
そのため、江戸時代は本格的な橋は架かっていなかった。
浅瀬に板を渡しだけのもので、須川のガンタラ橋と呼ばれていたようだ。

初代の信夫橋は、明治7年に完成した木橋であった。
明治16年の豪雨で流され、明治18年に完成したのが石橋で
13連の眼鏡橋であったが、明治24年の記録的な豪雨で流されてしまった。

現在の信夫橋は4代目で、昭和7年に竣工した鉄筋コンクリートの橋である。

写真は信夫橋から下流を見たものだ。
すぐ先が阿武隈川との合流点である。
この合流点の左が御倉町で、かつての福島河岸のあったところだ。

右の小さな山が弁天山(142m)である。

弁天山は、かつて山椒大夫の安寿と厨子王が住んでいたといわれる椿館跡が
あることから椿山とも呼ばれている。
父である奥羽五十六郡の太守岩城判官正氏の館のことだ。

思えば旧丹後街道を歩いていた時、山椒大夫の屋敷跡に
立ち寄ったことがある。
天橋立のある宮津に近い丹後由良であった。

(参照:「旧丹後街道/街道写真紀行)

ここ福島から見ると、遙か西の彼方である。




29hukusima10s  柳稲荷

荒川を渡ると右側の橋の袂に、柳稲荷がある。
享保年間(1684~1688年)の荒川氾濫で町が流失寸前のとき、
稲荷のご神体が流れてきて、人々を救ったという。

神殿は、明治14年の甚兵衛火事(福島大火)で焼失し、
現在のものは昭和8年に再建されたものだ。

柳稲荷の右には古峯神社と書かれた石柱があった。
下野国(栃木県鹿沼市)の古峯神社の末社が、ここにあるとは思わなかった。 

甚兵衛火事のあとの明治21年に、火防の神として知られた古峯神社を
勧請したようだ。

柳稲荷の左側にある石碑には、柳稲荷の由来と、
この辺が福島城下町の入口で、近くに枡形番所があったと刻まれてあった。

いよいよ福島城下町で、旧奥州街道51番目の宿場である。




詳細リンク:旧奥州街道136「福島・大森川~荒川信夫橋」/街道写真紀行
(福島県福島市南町、柳町) 1003/1007

2010/07/08

福島・JR南福島駅~大森川/旧奥州街道135

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街道/福島郷野目

京発7:04の新幹線で郡山まで来て、東北本線に乗換え、
前回中断したJR南福島駅に着いたのは9:20であった。
旧奥州街道歩きの再開である。

今回は、雪の陸奥路を歩いてみたくて、大雪の翌日にやってきた。
しかし、3月の雪は僅かに、路肩に残すだけで殆ど融けていた。

駅前通りから旧街道に復帰すると、正面に信夫山が見えてきた。

古代の東山道は、この信夫山が目印であった。
この山の裏側(北側)に、東山道の駅・岑越(みねこし)があった。
前の駅・湯日から17.3kmの距離である。



29hukusima03s  郷野目日吉神社

街道右側に、郷野目山王権現日吉神社がある。
桓武天皇の御代の延暦16年頃(797年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍として東夷鎮定のため下向した。

その時、比叡山延暦寺の守り神として鎮座する山王権現日吉の大神に
願をかけ平定することが出来たので、その紳徳に報謝し、
当村の山王田に祭祀したと伝えられている。



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大森川下流側

大森川に架かる荒川橋より下流(東側)を見た写真である。
河川敷には昨日までの雪が融けずに残っていた。

この大森川は現在の荒川の本流であったが流路が変って、
今は別の川となっている。
ただ、橋名は今でも荒川橋となっている。

現在の大森川は福島市の金剛山(460m)付近を源流とする川で、
このすぐ先で濁川と合流して阿武隈川に流入している。

正面の山はハイキングコースの整備された
十万劫山(じゅうまんこやま、429m)だ。
なお、この辺の標高は、福島中通では珍しく約60mの低地となっている。



詳細リンク:旧奥州街道135「JR南福島駅~大森川」/街道写真紀行
(福島県福島市郷野目) 1003/1007
 

2010/07/07

福島伏拝~JR南福島駅/街道写真紀行134

28hukusima72s  馬頭観世音

共楽公園を出て、旧街道を少し進むと左側に大きな馬頭観世音がある。
飛脚問屋の島屋が、文化2年(1805年)に建立したものだ。
街道は、ここから急坂となる。



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急坂/伏拝

共楽公園から急な坂を一気に下ると、福島市街に入る。



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須川南宮諏訪神社

市街に入ると、すぐ左に須川南宮(すかわなんぐう)諏訪神社がある。
由緒は不明であるが、拝殿の背後にある本殿の屋根にも
狛犬があったのには驚いた。
飛び駒というようだ。

須川南宮お意味が気になり調べてみたがわからなかった。

北側にある須川の南にある神社となっているので、
須川南宮と呼ばれたのであろう。



28hukusima78s  JR南福島駅

濁川に架かる濁川橋を渡ると、JR南福島駅入口の交差点となる。

マメが出来たので、時間は早かったがここで今回の街道歩きは中断して、
駅に向かった。

写真はJR南福島駅である。
東京より269.4km、開業は昭和37年と新しい駅だ。
駅の待合室で、持参のウィスキーを飲みながら電車を待った。

15:09の上り電車に乗り、郡山発17:01の新幹線に乗換え帰宅した。
東京に着いたのは18:24であった。




詳細リンク:旧奥州街道134「福島・伏拝~JR南福島駅」/街道写真紀行  
(福島県福島市伏拝字行人、清水内、永井川) 0912/1007

2010/07/05

福島・伏拝・共楽公園/旧奥州街道133

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旧街道/伏拝

樹間の中、気持ちよい街道が続いている。
この辺で標高は130m位だ。

街道歩きで汗ばんだ身体には、気持ち良い初冬の風が吹いていた。



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共楽公園/伏拝

街道の両側が開け、共楽公園となっている。
アスレチック設備や、東屋、トイレ等が出来ており駐車場もあった。
旧街道歩きの旅人にとっては、まさにオアシスである。

福島市市制100周年記念事業の一環として、
園内に178本の紫陽花を植栽するそうだ。
伏拝地区の花として定着させたい意向とのこと



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福島市街

共楽公園から福島市街が一望できる。

こうやって見ると、福島(信達)盆地がかつては湖であり、
信夫山(写真中央左)が湖の上に顔を出していて、
吾妻山から「吾妻下ろし」が吹きおろし、
「吹島(ふくしま)」と呼ばれていたのが転訛して福島となったと
古くからの伝承(伊達風土記)があるのも理解できる光景だ。

しかし、もと湖のようにも見えるが、地形的にはここは湖ではなかった。

古代には、この地域は岑越(みねこし)と呼ばれていて、
現在の信夫山も岑越山と呼ばれていた。
また東山道の駅名も岑越であった。

安土桃山時代、信夫郡、安達郡が蒲生氏郷領となった時に
福島と改称したようだ。

また、伏拝の地名は、信夫山や出羽三山をここから伏し拝んだことから、
伏拝(ふしおがみ)となったとの説が尤もらしい。
また、急な坂道で、這うようにして登ったからとの説もあるようだ。

なお、福島盆地は、福島市南部から伊達、保原、桑折、国見、梁川にかけて
北東に広がり、長さ30km、幅10kmの第4紀以降の
陥没によって出来た構造性盆地である。



詳細リンク:旧奥州街道113「福島・伏拝・共楽公園」/街道写真紀行
(福島県福島市伏拝) 0912/1007

2010/07/04

映画「孤高のメス」

平成22年7月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
孤高のメス
 
 2010年 日
 
 監督
   成島 出

 
当麻医師
   堤 真一

中村看護師
    夏川 結衣

大川市長
    柄本 明

   中越 典子
   松重 豊
   平田 満
   余  貴美子

  1989年、地方都市の市民病院に赴任した外科医は、病院の体制に不満を感じながらも、次々と困難なオペをこなしている。そんな中、病に倒れた市長のために、違法となっている脳死肝臓移植手術を行うかどうかの選択に迫られている。
  看護師の視点で捉えた展開も良く、地域医療の問題等を折り込んで見せる脚本も良かった。手術現場の緊迫感もなかなかであった。




詳細リンク:「映画」/日本写真紀行



2010/07/03

福島・伏拝/旧奥州街道132

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国道4号線/切通し

切通しの上に架かる原高屋跨線橋より右側(東側)を見おろしたた写真である。

遠く前方に山に囲まれた福島市街が見えている。
前方の信号は伏拝(ふしおがみ)交差点だ。

今日は、前方に見える福島市街まで歩く予定だ。まだ先は長い。



28hukusima62

旧街道/伏拝

国道4号線の跨線橋を渡り、ホテルフェラリーD(同伴ホテル)の右横を
抜けると道が急に狭くなり、この道で良いのか一寸不安になった。
この先は、こんな尾根道が続いているところだ。

福島市清水町から伏拝(ふしおがみ)地区に入る。




28hukusima65s 忠魂碑


街道右側の少し入ったところに大きな石碑がある。
大正3年に杉妻村(すぎのめむら)有志が建立したものだ。
この杉妻は福島の古称で、杉目とも書いていたようだ。

石碑には、祭魂者と大きく書かれ、明治27年日清戦争での戦没者2名、
明治37~38年の日露戦争で7名と、その下に太平洋戦争で亡くなった
160名の合計169名の戦没者の氏名が刻まれている。

太平洋線の戦没者は昭和33年に合祀されたものだ。
それにしても、東北の1村だけでもこれだけの犠牲者が出ているのだ。
思わず合掌。



詳細リンク:旧奥州街道132「福島・清水町~伏拝」/街道写真紀行
(福島県福島市清水町、伏拝) 0912/1007

2010/07/01

福島・清水町宿出口~原高屋跨線橋/旧奥州街道131

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旧旅籠仙台屋/清水町宿

清水町宿を進むと、伸興寺の前で、街道は鋭角に左に曲がっている。
その角にあるのが、旧旅籠仙台屋の高橋家だ。
往時の土壁の大きな建物が残されている。

地元の名産であった根っ子人形の創始者(前述)は、
この旅籠仙台屋の主人であった。





28hukusima58

清水町宿出口

旅籠・仙台屋の前を抜けると、清水町宿の出口となり、
道は緩い上り坂となっている。

街道は杉妻自動車学校の横を通り、清水町東裏から東壇地区に入る。
なんとも静かな街道筋であった。




28hukusima60s 原高屋跨線橋

やがて目の前に陸橋がある。
下は切通しとなっており、国道4号線が走っているところだ。
この橋名は「原高屋跨線橋」と書かれてあった。

この橋を渡り、前方のホテルフェアリーD(同伴ホテル)の横の細い道が
旧街道である。




詳細リンク:旧奥州街道131「福島・清水町宿出口~原高屋跨線橋」/街道写真紀行
(福島県福島市清水町東裏、東壇、原高屋)0912/1007

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