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2010年3月

2010/03/29

日和田・高倉神送坂~海道下/旧奥州街道94

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高倉・神送坂

磐越自動車道の下を潜ると、再び断続的に松並木が残されているところだ。

日和田町横森から高倉地区に入る。
道は緩い下り坂となっている。神送坂というようだ。

松並木と安達太良山が望める快適な峠道である。
この先の坂を下ると、高倉海道下地区となる



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奥羽山脈(会津磐梯山方面)

坂の途中で左側(西側)を見た景色である。
遠くの山脈は、中通りと会津を遮る奥羽山脈だ。
位置的には磐梯山方向であるが、前衛の山の影となっているようだ。

なお、奥羽山脈は青森県から栃木県にかけて東北地方の中央部を
南北に縦断する山脈である。
1000mから2000m級の山が約500kmにわたって連なる
脊梁山脈となっている。



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高倉・海道下

坂の下に、海道下の集落が見えてきた。
「海道下」は小字名である。

旧街道は、この先の分岐で左の細い道に入る。
奥州街道44番目の宿場・高倉宿はもうすぐである。





詳細リンク:旧奥州街道94「日和田・高倉神送坂~海道下」/街道写真紀行
(福島県郡山市日和田町高倉・横森、安斉山、海道下) 0912/1003



2010/03/28

日和田・山ノ井~横森/旧奥州街道93

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山ノ井、芭蕉の小径

安積山の北麓に芭蕉の小径と名付けられた遊歩道が出来ている。
この少し先に、山裾より湧き出る水があり、山ノ井の清水と呼ばれていた。

前述した万葉集巻16、安積采女の
  「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思わなくに」
と詠まれたところだ。

芭蕉と曾良もここに訪れている。



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安達太良山

日和田町横森地区に入る。

視界が開け、左前方に安達太良山が大きく見える。
「カシミール3D」(可視マップ作成ソフト)で確認すると、
三つのピークの一番右が安達太良山(1700m)である。

その右裾野に遠くかすかに見えるのが箕輪山1728m)である。
とすると、左の一番高く見えるピークは前ヶ岳(1340m)であろうか。

なお、「カシミール3D」は、山岳展望の解析の他、
リアルな三次元風景・景観CGの作成などが可能な多機能ソフトで、
街道歩きでは山座同定に良く利用させてもらっているソフトである。



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横森・姉ヶ茶屋跡

磐越自動車道の手前、右側にかつての姉ヶ茶屋(あねがちゃや)跡がある。
明治の中頃までは営業していたようだ。

餡餅ときなこ餅が評判で、各藩の参勤交代のおりは、ここで必ず休憩したとか。
左の大きな石碑は明治天皇御駐輦跡碑である。
明治9年の奥羽御幸の際、横森のここで、野立て(休憩)をされたと刻まれている。

前方が広く開け、景色の良い所である。
近くに、大小の馬頭観世音が集められてあった。




詳細リンク:旧奥州街道93「日和田・山ノ井~横森」/街道写真紀行
(福島県郡山市日和田町山ノ井、横森) 0912/1003



2010/03/26

映画「シャーロック・ホームズ」

平成22年3月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
シャーロック・
  ホームズ

 
2009年 英
 
 監督
  ガイ・リッチー

 
シャーロック・ホームズ
   ロバート・
     ダウニーJR

ジョン・ワトソン
    ジュード・ロウ

アイリーン・アドラー
    レイチェル・
      マクアダムス


ブラック・ウッド
    マーク・
      ストロング
  御馴染み名探偵シャーロック・ホームズと相棒のワトソン博士は、怪しい黒魔術の儀式を行い、若い女性を次々と殺害したブラックウッド卿を逮捕する。しかし死刑で処刑されたはずのブラッド・ウッドが蘇り、再び殺人を繰り返す。それに挑む二人。
  となるのであるが、今回の映画は今までのイメージと違い、謎解きは今一で、アクションの楽しさのみを追求したような作品となっている。
  今回のホームズは、腕っ節自慢のやんちゃ坊主のようであった。

詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/03/25

日和田・蛇ヶ森~安積山/旧奥州街道92

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日和田・蛇ヶ森/旧街道松並木

日和田宿を抜けると、日和田町字蛇ヶ森に入る。
蛇骨地蔵堂の伝説の大蛇が祟ったところであろうか。

この辺から断続的に旧奥州街道の松並木が残されている。




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安積山

安積山の上り口で、今では安積山公園として整備されている。
なお、標高はここで250mであった。

安積山は古今和歌集の
  「みちのくの あさかのぬまの 花かつみ かつみみる人に
   恋ひやわたらん」
で、花かつみが安積の沼の名物となり、多くの歌が詠まれるようになった。

その一つ、万葉集、安積采女の
  「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を わか(我が)思わなくに」
と彫られた石碑があった。

また、芭蕉は奥の細道で
   「等窮が宅を出て五里斗、檜皮(ひはだ=日和田)の宿を離れて
   あさか山有。路より近し。
   此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、
   いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども更知人なし。
   沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ねありきて、
   日は山の端にかゝりぬ・・・」
と記している。

この花かつみは、実はいまでも諸説があり、
郡山市では学名「ヒメシャガ」というアヤメ科の植物を「花かつみ」とする
説をとり、昭和49年に市の花に制定している。





24hiwada08s  花かつみ記念植栽

安積山山腹に花かつみ(ヒメシャガ)が植栽されている。

説明には、
 「元禄2年(1689年)、芭蕉が安積山をたずねて
 さがし歩いた花かつみを「奥の細道」300年を記念して、
 ここに埴栽する 平成元年10月 花かつみの里 ひわだ推進会」
と記されてあった。

花びらは淡い紫色で中央部は白く、脈は紫色で橙色のとさかのような突起が
ある花で、開花期は5月とのことであった。


この後、安積山に登ってみた。
日当たりの良い頂上のベンチで、今日始めての休憩をとる。

頂上から東側には日和田野球場が見下ろせるところである。



詳細リンク:旧奥州街道92「日和田・蛇ヶ森~安積山」/街道写真紀行
(福島県郡山市日和田町蛇ヶ森、三本松、安積山) 0912/1003

2010/03/24

筑前・木屋瀬宿~遠賀川/旧長崎街道

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木屋瀬宿東構口(入口)

高速道路、九州自動車道を潜ると
遠賀川(おんが)沿いにある筑前六宿の二番目の宿場、
木屋瀬(こやのせ)宿に入る

写真右手の家は、宿場の東側入口である東構口(ひがしかまえくち)傍の

家で、かつては醤油の醸造業を営んでいたという


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木屋瀬宿街並み

1枚目写真左側の家並みでも判るように
木屋瀬宿は矢止めと言われる家並みと成っている

家の並びが直線ではなく、鋸の歯の様に凸凹になっているのだ


また、街道からの路地(下写真)は総て袋小路となっている
宿場の治安警備のしやすさを考えた家並である





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問屋場跡


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船庄屋跡(梅本家)

遠賀川河岸で、「川ひらた」と呼ばれる年貢米を運ぶ権利を持つ川船を
管理していたのが船庄屋(梅本家)であった

江戸時代末期で24艘の川ひらたを保有していた
また、当主の梅本家は油屋(やましも)の屋号で、酒醸造業も営んでいた

明治に入って醤油醸造にも携わったが明治10年代で廃業したとのこと
なお、この建物は江戸末期の建築で、
木屋瀬宿を代表する町家の一つとなっている

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旧高崎家

高崎家は屋号を柏屋(かねたま)と云い
豪商であった本家柏屋(こちらは、かねしめ)の7代目
高崎四朗八義辰(寛政7年生、1795年)が分家して創立した家

文政8年(1825年)から町年寄りを勤めていた

当家の5代目は、放送作家伊馬春部(本名は高崎英雄)として
ラジオドラマ「向こう三軒両隣」や「屏風の女」等で活躍した人である

この建物は天保6年(1835年)建築と推定されている
家の内部が公開されていた

ここで生まれた方からのメールによると、
頼山陽や伊能忠敬がここに寄宿したとのことであった
また、高杉晋作を床下に匿ったということもあったようだ




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遠賀川

木屋瀬宿の西構口を抜けると遠賀川の土手に出る
旧長崎街道はこの川沿いの道であった

また、此処には「従是右赤間道、左飯塚道」の道標が立っていた
赤間道とはこの遠賀川を渡って唐津へ向かう街道である

次は、遠賀川上流の、旧長崎街道3番目の宿場・飯塚宿となる




詳細リンク:旧長崎街道4「筑前・木屋瀬宿~遠賀川」/街道写真紀行
(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)  0806/1003

2010/03/23

JR日和田駅~蛇骨地蔵堂/旧奥州街道91

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JR日和田駅

東京駅発7:04の新幹線で郡山まで来て、東北本線に乗換え、
前回街道歩きを中断した日和田駅に着いたのが8:44であった。

今日も快晴、徒歩の旅の出発である。



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蛇骨地蔵堂

駅前どおりを直進し、旧奥州街道に復帰する。
街道に入り、すぐ左手にあるのが、この蛇骨地蔵堂である。

養老7年(723年)に開山、現在の建物は享保3年(1718年)に
再建されたもの。

当初は東勝寺(とうしょうじ)の祈願堂であったが、幕末に廃寺となったため、
西方寺に移されている。

修復中であるが、この建物は禅宗様式を基調として、柱や架構も雄大で、
使用部材も良いものを使用しているとのこと。
郡山市随一の仏堂建築で、市の重要文化財に指定されている。

この蛇骨地蔵の由来は、父である安積領主の安積左衛門と

母が殺された上、安積沼に投げ込まれた菖蒲姫が、
大蛇に変身して下手人の一族を滅ぼした。


しかし、よほど恨みが深かったとみえ、それで満足せず、
この地一帯の民百姓にまで祟り続けた。

人々は大蛇を祀り、大蛇の要求により、毎年一人、
くじ引きで決められた16歳の娘を人身御供に差し出した。

33番目のとき、見かねた大和国の長者の娘、佐世姫が身代わりとなって、
大蛇の生贄棚に身を置き、法華経・堤婆達品(だいぼたつたぼん)を
唱えると、菖蒲姫はやっと成仏した。

その時、菖蒲姫の願いで、佐世姫は蛇の骨で5尺7寸の地蔵尊を
彫ったとのこと。

今は秘仏で拝観できないが、地蔵の材料は犀の角ではないかと
いわれている。
なお、蛇骨堂の裏側には、人身御供にされた32人の娘と佐世姫の霊を
慰めるため、33の観音像が安置されている。

さて、話は変わるが、写真左手の松ノ木は、西方寺の笠松として
郡山市の天然記念物に指定されている。
樹齢250年の見事な笠松である。



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日和田・馬頭観世音群

蛇骨地蔵堂の参道にあるイチイ(常緑針葉樹)は、
福島県の天然記念物に指定されている。

この木は、この辺が森林地帯であったころの遺物とみられ、
近くには樹齢650年の年輪を数える切り株が残されている。

写真は同じく蛇骨地蔵堂の参道にある、大きな馬頭観世音である。
多くの馬頭観世音がここに集められていた。

日和田宿は坂の途中に連なる宿場であるので、
実際の街道筋には多くの馬頭観世音が建っていた事であろう。


次は万葉集でも有名な歌枕の地・安積山を経て、
旧奥州街道44番目の宿場・高倉宿に向かう。




詳細リンク:旧奥州街道91「JR日和田駅~西方寺」/街道写真紀行
(福島県郡山市日和田町)  0912/1003

2010/03/22

春分の日/横浜

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横浜の桜が咲き始めた
写真は、港北区にある大倉山公園の桜である

今年の三寒四温は、寒暖の差がダイナミックであったが、
春分の日の今日、横浜はようやく春らしくなってきた。



(横浜市港北区、大倉山公園) 1003/1003

2010/03/21

岡部/中山道六十九次徒歩の旅

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岡部・源勝院

深谷の滝宮神社を抜けると、岡部町に入る
かつて岡部藩のあったところで、岡部町に入るとすぐ右側にこの源勝院がある

岡部藩主の菩提寺である
本堂の左に藩主安部(あんべ)一族の墓12基が
一列に並んでいるのには圧倒された

安部氏は今川義元にに仕えていたが
後に徳川家康に仕え、関東入国と共に
ここ岡部領の藩主となった

この寺の左手(写真左)は岡部神社である
岡部六弥太郎忠澄の祈願所でもあった
そして一の谷の戦功に感謝し、境内に杉を植えたという




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島護産泰神社

岡部駅口の角に島護産泰神社がある
最初、この神社の名前は読めなかった

調べてみると、「とうごさんたい神社」と読むそうだ

この地区は利根川の氾濫に悩まされていたところで
北西島、南西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島と
島の名前の付いて所や横瀬、中瀬など瀬の着いた地名が多い

四瀬八島と呼ばれていたところである
氾濫原よりやや高い土地を島や瀬と呼んでいたようだ
人々はその上に住んでいた

その島状の地域を守る神社と言う意味である
産泰は安産を意味するという




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百庚申

岡部を抜けると、緩い坂を下り、利根川支流の小山川に出る
その途中の左側に丁度旧中山道を見下ろすように
沢山の庚申塔が建てられている

万延元年庚申の年(1860年)、田島新兵衛を中心に
岡の有志13人によって建立されたという

左上は八坂神社である




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小山川

八坂神社の前の坂を下ると目の前が小山川に架かる滝岡橋である
この小山川を渡ると本庄市堀田に入る

旧中山道はこの川沿いの自然堤防の上であった
見晴らしも風通しも良く、歩行者にとって快適な道である

ところが、今回は失敗した
新しいウォーキングシューズで行ったため
久しぶりにマメがつぶれ、土手の砂利道が辛く遠い道のりとなってしまった





詳細リンク:中山道69次徒歩の旅5「籠原~9深谷宿~岡部~10本庄宿
       /街道写真紀行
(埼玉県深谷市岡部、岡)  0604/1003 

2010/03/20

相生/兵庫

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JR相生駅

赤穂を訪れた後、JR赤穂線に乗り、相生駅で下車した。
相生駅は赤穂線の終点であるが、現在は山陽本線姫路方面と運用が
一体化され、当駅始発(終着)の列車は無くなっている。

なお、相生駅は明治23年に開業した当時は、那波駅であった。
ここは、旧街道の那波宿であったからである。
昭和17年に今の相生駅に改称されている。



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相生駅前

2001年から相生駅前が整備され、その一環として相生市の象徴である、
港町、造船に肖った二つのモニュメントが出来た。

一つは船のマストをイメージした白い柱(写真右端)で、
ステンレス柱に軽量のチタンをアンテナ状に取り付け、
風の向きにより方向が変わるようになっている。
京都・亀岡市の彫刻家西野康造氏の作品とのこと。

もう一つは、実際に使用された高さ2.5mの
大きな碇(上写真)そのものが黒く塗られ設置されている。



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狐塚古墳跡

相生駅を出て、南に向かうと、狐塚古墳跡がある。
この前を旧山陽道が走っており、ここに一里塚があったというが、
その痕跡は無かった。

埴輪を模った真新しい狐塚古墳跡記念碑が、出来ていた(写真右端)。



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相生市街(栄町)

狐塚古墳跡から南の港方面に向かう。
かつての那波宿、相生港に向かう旧道筋である。

相生は、播磨灘に臨む金ヶ崎(かながさき)と釜崎(かまさき)を
湾口とする相生湾の一番奥にある町だ。

湾の水深が6~7mと深く、また三方が山で囲まれている為、
大型船舶が出入りできる古くからの天然の良港で、
内海航路の風待港であった。  

江戸時代は赤穂藩の港として、また山陽道の宿場町として栄えて来た。
また明治40年には播磨船渠が創設され造船の町として繁栄し、
現在は石川島播磨重工業を中心に大小の造船関連工業が立地している。
 
なお、相生の地名は、長治元年(1104)、大嶋に城を構えた、
播磨海老名氏の祖、家季の生国が相模国であったことから、
ここの浦名として呼ばれていた「おお」に相模の「相」を組み合わせて
「相生(あいおう)村」としたのが始まりと伝えられている。

昭和14年に、元宿場の那波の町を編入した時に
「相生(あいおい)」と呼び方を代えた由。

全くの蛇足であるが、筆者が結婚式で利用した披露宴会場が
「相生(あいおい)の間」(東京・明治記念館)であった。



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鮎帰川

市街を歩いた後、旧街道沿いの鮎帰川(あゆかえりがわ)の鮎帰橋袂に来る。
なんとも洒落た川名である。

鮎帰橋より上流を見た写真である。
かつては蛍が飛び交い、子供達の水遊び場であったそうだが、
自嘲気味に、今は「鮎帰る 水もない 鮎帰川」とか。

佐多稲子の「素足の娘」は、大正期の相生が舞台で、
この川沿いの道がでてくるそうだ。




詳細リンク:兵庫「相生」/日本写真紀行
(兵庫県相生市)  0802/1003

2010/03/18

JR日和田駅前/旧奥州街道90

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岩城街道追分

日和田宿基点の岩城街道(現県道115号線、三春日和田線)追分である。
ここを行くと高柴デコ屋敷がある。

旧三春藩高柴村に、代々継がれた人形師の家が5軒あり、
福島県の重要有形民族文化財に指定されており、
伝統の三春駒や張子人形を今でも作っている。

旧奥州街道は、左側の緩い上り道である。
日和田宿は坂の途中にある町である。




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日和田駅前

駅前通りの坂を下った所に、JR東北本線日和田駅がある。

写真は駅舎より撮影したもので、右手の建物が日和田行政センター、

日和田公民館である。

中央の大きな木のあるところが日和田宿鎮守の八幡神社だ。




23hiwada13s  JR日和田駅

日和田宿は明治30年に開業している。無人駅ではあるが、
ここでICカード「Suica」が利用できるのには驚いた。
Suicaは平成21年3月よりサービス開始されたばかりであった。 

日和田駅は東京駅から232kmである。
奥州街道の終点である青森県三厩駅までは
東京駅から783.7kmであるので、鉄道の距離でも
未だ550kmもある。

先を考えると、ぞっとするが、
今回はここで、
奥州街道15日目の街道歩きを中断した。

日和田駅より東北本線の各駅で郡山駅まで戻り、

新幹線を利用しての帰宅であった。



詳細リンク:旧奥州街道90「日和田宿~JR日和田駅」/街道写真紀行
(福島県郡山市日和田町) 0910/1003

2010/03/17

日和田宿/旧奥州街道89

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43日和田宿入口

藤田川を渡ると、旧奥州街道43番目の宿場・日和田宿となる。

藤田川は、額取山(1009m)東麓を源流とする川で、
郡山市を西から東に横断し、阿武隈川に流入している。

上流の喜久田町(JR磐越西線の喜久田駅付近)は、
桜の名所として知られている川だ。


写真は日和田宿の入口付近である。

日和田宿は、南北500mの坂の町で、
享保年間(1716~36年)の家の数は169戸であった。

町名主は佐藤、小野口の両家であった。

日和田は、近世以前は「部谷田(へやだ)」、「部和田(へわだ)」、
「辺和田」、「戸和田」と書かれていたが、天保元年(1830年)の相生集には、
現在の日和田と記述されている由。



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23hiwada10s  日和田宿旧家


日和田宿の中心部に残された古い民家である。
上の写真は未だ新しい赤いトタン屋根で、
下は青のトタン屋根となっているが、この下は茅葺屋根であったようだ。

日和田は、今でも古い家が多く残されている。




詳細リンク:旧奥州街道89「43日和田宿」/街道写真紀行
(福島県郡山市日和田町)  0910/1003

2010/03/16

富久山町・牛ヶ池/旧奥州街道88

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牛ヶ池、旧街道松並木

宝沢沼から緩い坂(普賢坂)を上ると、
街道沿いに古い松並木が断続的に残されている。
この辺で、手元の高度計を見ると、標高は250mくらいであった。

下り坂の途中、旧街道右側に「牛ヶ池の碑」がある。
江戸時代の文化年間(1804~1818年)に、この辺の開拓を行い
田畑が完成したことを記念しての石碑である。



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JR東北本線、日和田宿遠望

切り通しにJR東北本線が走っている。
前方の集落は、旧奥州街道43番目の宿場日和田(ひわだ)宿である。



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安達太良山

街道前方に、秀峰安達太良山(1699m、最高峰箕輪山1728m)が
見えてきた。
高村光太郎の「智恵子抄」で、すっかり有名になった山だ。

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」で始まる
「樹下の二人」は瑞々しく感動的であった。

またこの辺は、旧街道左側に丸永瓦、五十嵐鬼瓦、渋谷瓦、
中村鬼瓦と瓦屋の多いところである。




詳細リンク:旧奥州街道88「富久山町・牛ヶ池」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町八山田字牛ヶ池) 0910/1003

2010/03/15

富久山町・宝沢沼~照内川/旧奥州街道87

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宝沢沼

福原宿のはずれにある宝沢(ほうざわ)沼で、
正面には磐梯山が望める景勝地である。

この沼は、会津藩主蒲生秀幸が、寛永4年(1628)に領民の請願により、
宝沢沼の堤防工事に着手され、
同年加藤嘉明が四国より移封された加藤嘉明に引き継がれ、
寛永6年(1630年)完成したものである。

堤防の幅22m、延長は240mで、水利灌漑が便利になったことを喜び、
福原村民が、沼の北に水神宮を、南に恵比寿の宮を建て、
旧暦の7月20日にはこの土手の上で笛、太鼓を鳴らし踊ったとのこと。
近年まで土手の祭り(盆踊り)として続いたが、今は途絶えている。

沼の周囲が、郡山市により「一周ふれあい小路コース」として整備され、
休憩用の東屋も出来ている。




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照内川

水神社の前を通ると、照内川に突き当たる。
そこより川沿いに、奥州街道に復帰する。

その途中に、未だ新しい馬頭観世音が4体あった。
すべて昭和初期に建てられたもので、
牛馬が重要な陸送の手段であった頃が伺われる。
流石に太平洋戦争以降に建てられた馬頭観世音は見かけなかった。

写真は照内川の桜並木である。
この川は阿武隈川に流入しており、宝沢沼の氾濫を防ぐ為に利用されている。




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高江橋/照内川

照内川に架かる高江橋を渡って、次の宿場である日和田宿へ向かう。
旧奥州街道43番目の宿場である。





詳細リンク:旧奥州街道87「富久山町・宝沢沼~照内川」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町福原、八山田) 0910/1003

2010/03/10

42福原宿/旧奥州街道86

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42福原宿町並み

福原宿の中心部の町並みである。
赤瓦の見事な家並みで、まさに甍を争うようであった。

下の写真は柳沼醤油店の看板が出ていた。醤油醸造しているようだ。




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福原宿出口付近

街道や緩いカーブを描いている。
宿場出口付近の枡形跡であろうか、家並みが途切れてきた。

街道左側に宝沢沼養魚場がある。ここの鯉の甘煮は定評とのことであった。
この背後に、大きな宝沢(ほうざわ)沼のあるところである。




詳細リンク:旧奥州街道86「42福原宿」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町福原) 0910/1003

2010/03/09

福原宿入口/旧奥州街道85

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42福原宿入口付近

地名が富久山町久保田から福原に変わる。

この辺が、旧奥州街道の42番目の宿場・福原宿の入口付近であったようだ。
写真右の富久山郵便局の地名は富久山町福原字一里坦となっている



22koriyama38s  福原一里坦跡碑

郵便局のすぐ北側に「史蹟一里坦跡」と刻まれた石柱が建っていた。
一里塚跡である。

坦は「たいら」という意味の字だ。
この一里坦がそのまま小字名となっている。




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豊景神社

街道を挟んで反対側に豊景神社(とよかげ)がある。

祭神は豊斟淳命(とよくむぬのみこと)と鎌倉権五朗景政となっている。
永保3年(1083年)後三年の役と途次、
源頼家は当地が毒蛇の禍で、凶作に苦しんでいるのを知り、
武勲の誉れ高い鎌倉権五朗景政に命じて退治させた。

その後、凶作もなく暮らしも安定したので、感謝の念から
天養元年(1144年)に景政の御霊を合祀し、御霊宮とした。

以前は中世の古街道沿いにあったものを、徳川家康の街道整備政策による
新街道(仙台松前道)造成のおり、現在地に移されたようだ。

ここの、江戸時代から続く太々神楽は
福島県の重要無形文化財に指定されている。





詳細リンク:旧奥州街道「富久山町久保田~福原宿入口」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町久保田、福原) 0910/1003

2010/03/06

郡山・富久山町久保田/旧奥州街道84

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磐越西線

逢瀬川に架かる安積橋を渡ると、
郡山市富久山町久保田(旧久保田村)に入り、磐越西線のガードを潜る。

磐越西線は、郡山と会津若松経由新潟県の新津駅を結ぶ線で、
会津若松と新津間は「森と水とロマンの鉄道」という愛称が付けられている。

車両のラインカラーは写真のように茶となっている。




22koriyama32s  清酒・藤乃井

旧奥州街道左手に清酒藤乃井の(有)佐藤酒造店がある。

街道沿いに上質の井戸があり、その水を利用して
宝永7年(1710年)に酒造りを始めたとのこと。
当時の井戸は日吉神社境内に今でも残っているという。

また、酒名は二本松藩主丹羽氏が参勤交代の際に立ち寄り、
蔵の敷地に咲く藤の花を見て「藤乃井」と名づけたようだ。

なお、現在の蔵は100年ほど前に作られたもので、
今の社長は14代目とのことであった。



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日吉神社

街道左に日吉神社がある。
延暦20年(802年)、近江の日吉神社を分祀したものだ。
室町時代の館跡であったため、山王館とも呼ばれている。

天正16年(1588年)、久保田の合戦の時、
伊達政宗がここに本陣を構えた由。

久保田合戦は郡山合戦とも言われている。
伊達政宗、田村連合軍と
佐竹、芦名、岩城、二階堂、白河、石川各氏の連合軍との戦いである。
伊達側が勝利するが、その時に伊達軍の伊東肥前守重信が討死する。

境内には福島県の重要文化財に指定されている16基の石造塔婆と、
郡山市指定文化財となっている伊東肥前守碑が残されている。





詳細リンク:旧奥州街道84「郡山・富久山町久保田」/街道写真紀行
(福島県郡山市富久山町久保田)  0910/1003

映画「ゴールデン・スランバー」

平成22年3月
横浜 ムービル


タイトル キャスト コメント
ゴールデン・
 スランバー

 
2009年 日
 
 監督
   中村 義洋

 
青柳雅春
    堺 雅人

樋口晴子
     竹内 結子

森田森吾
     吉岡 秀隆


     香川 照之
     伊藤 四郎
     柄本 明

  仙台で、凱旋パレード中の首相が暗殺され、近くにいた宅配ドライバーの青柳が、突然警官から銃を向けられ、訳も分からず逃げ出したが、身に覚えの無い証拠と見えない力によって無実の首相暗殺犯人に仕立て上げられていく。
  絶体絶命の中、学生時代の仲間たちや元の恋人晴子に助けられながら逃亡を続けるが・・・ 
  実に愉快な設定で、最後まで緊迫感を保ちながら、面白く展開していくのは見事であった。途中の派手な仕掛けは一工夫欲しい所ではあったが。




詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/03/04

郡山宿~逢瀬川/旧奥州街道83

22koriyama27

阿邪詞根神社

街道左側に古社、阿邪詞根(あさかね)神社。
由緒によると、康平年間(1058~1065年)、
伊勢国阿坂より勧請し道祖社として創建されたようだ。

寛治3年(1089年)、源義家の副将軍として、
前九年・後三年の役に出征した平忠通の霊をここに合祀し、
御両宮後御霊宮と改称された。
そして、寛政年間(1789~1801年)、領主の丹羽氏の時に
御霊大明神となり、明治22年に今の阿邪詞根神社となった。




22koriyama26s 曼荼羅供養塔、阿弥陀三尊塔婆

説明によると、源頼義・義家が奥州平定後の治暦3年(1067年)に
戦死者を弔うために建立されたもの。
高さ2.4m、厚さ30cmで、塔の表面は仏の姿を表す梵字を配した曼荼羅が
刻み込まれている。

わかりにくいが左下の柵の内側に高さ91cmの
石造浮彫の阿弥陀三尊塔婆がある。
鎌倉時代末期に作られたもののようだ。



22koriyama30

逢瀬川

郡山宿を抜けると、歌枕で有名な逢瀬川となる。
写真は逢瀬川に架かる安積橋より下流(東側)を見たものだ。
背後の高架は東北新幹線である。

逢瀬川は、郡山市逢瀬町の大滝渓谷が源流で、
この先で阿武隈川に合流している。
この川までが旧郡山村で、
橋を渡ると旧久保田村(現冨久山町久保田)となる。

次は旧奥州街道42番目の宿l場・福原宿である。

参考として、逢瀬川を詠んだ句を2,3列記する。
  逢瀬川 袖つくばかり 浅けれど 君許さねば えこそ渡らぬ・・・・源重之
  まだなれぬ 人にぞ今宵 逢瀬川 同じ流れを 思い渡りぬ・・・・李経集
  浅香山 さも浅からぬ 敵とみて 逢瀬の勇む 駒の足並み・・・・源頼義
  ほどなくも 流れぞとまる 逢瀬川 変わる心や 井堰ならん
                                  ・・・・新続古今和歌集

今も川底は浅いが、当時も浅かったようだ。





詳細リンク:旧奥州街道83「郡山宿~逢瀬川」/街道写真紀行
(福島県郡山市大町) 0910/1003

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