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2010年1月

2010/01/29

38笹川宿/旧奥州街道76

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東北新幹線

JR東北本線、水郡線を順番に渡り、最後にこの東北新幹線のガードを潜る。
そして、小さな川、荒川に架かる蛍橋を渡ると、
奥州街道38番目の宿場笹川宿に入る。

笹川は、応永6年(1399年)、鎌倉公方足利氏満の子満直が派遣され、
館・篠川(ささがわ)御所が築かれたところである。




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笹川・熊野神社

笹川宿入口にある熊野神社。
応永27年(1421年)、足利満貞(あるいは満道とも)の治世のおり、
紀州熊野大権現より分霊されたもので、篠川御所の守護神であった。

この先右側にある高瀬稲荷のある辺りが、篠川御所跡である。


熊野神社境内にある石碑群の中に足尾山と彫られた石碑があった。

足尾山(627m)は茨城県の桜川市真壁町にある山で、
筑波山、加波山と並んで、古くから信仰登山の山であった。

山頂には足尾神社があり、足の神として信仰を集めていたようだ。



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38笹川宿町並み

笹川宿の中心部である。
この街道右手にある高瀬稲荷神社は、篠川御所跡に建てられたという。

笹川の町は、今までと違い、赤瓦葺屋根が目に付くようになる。
通りがかりの人に聞くと、地元産の瓦だという。

赤瓦は、山陰を歩いている時に、石州瓦(島根県旧石見国)の
甍の波が印象的であった。
また、沖縄の赤瓦(あかがーら)も有名であるが、
ここ笹川でも赤瓦の家並みが続いていた。




詳細リンク:旧奥州街道76「郡山・安積町笹川~38笹川宿」/街道写真紀行
(福島県郡山市安積町笹川) 0910/1001

2010/01/24

佐原・小野川河畔/千葉

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佐原・小野川河畔

利根川を利用した水運の集散地として栄えたのが水郷佐原である
利根川の支流の小野川沿いに戦災を免れた古い家並みが残されている

伊能忠敬の旧家がある所だ

こんな河畔を歩いていると何故か心が和む



詳細リンク:千葉「佐原・小野川」/関東写真紀行/日本写真紀行
(千葉県佐原市小野川河畔) 0402/1001

映画「アバター」

平成22年1月
横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
アバター

 
2009年 米
 
 監督
 ジェームズ・
     キャメロン

ジェイク・サリー
  サム・ワーシントン

ナヴィ族王女・ネイティリ
  ゾーイ・サルダナ

グレース・オーガスティン
  シガーニー・
   ウィーヴァー


トゥルーディ・チャコン
  ミシェル・ロドリゲス
  下半身不随で車椅子生活を送る元海兵隊員ジェイクは、死んだ兄の身代わりとして、特殊なレア金属の宝庫、衛星バンドラに送られてくる。そこで、人間と衛星の原住民ナヴィ族とのハイブリッドであるアバター(分身)となり、命令遂行の為、単身衛星奥深く入っていく。
  慣れない土地で、野生の動物に襲われたとき、原住民ナヴィ族の王女ネイティリに助けられる。
  話題の3D映画である。迫力ある画面の連続は素晴らしかった。
  物語は人間性や自然環境の本質を問うオーソドックスな展開となるが、それがかえって良かった。




詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/01/23

滑川~郡山市安積町/旧奥州街道75

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滑川・雷神社

清陵情報高校の裏側(北側)の小高い丘の上にある、雷(いかづち)神社。

由緒は分からないが、おそらく古代の加茂氏の祖神である
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祀った神社であろう。

なお、「別雷」は「若雷」の意味で、
若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味である。

雷神社の祠の隣には大きな石碑2基と赤茶けたポンプが並べて建っていた。

石碑には「滑川地区揚水灌漑記念碑」とあった。
説明によると、滑川地区の用水は嘉永3年(1851年)に
改修されたものであるが、電気揚水機を設置して、
米の安定収穫と増産を図った記念とある。

昭和53年建立の立派な石碑であった。



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JR東北本線踏切

川に入り、街道はJR東北本線の左側(西側)であったが、
ここで踏み切りを渡り、反対側(右側)となる。

踏み切りの先は、十貫内(じっこうち)の集落である。この地名も読めなかった。

東京の杉並区に十貫坂(じっかんさか)という坂がある。
こちらは坂周辺の土地代が十貫であったことからとの謂れがあるようだ。

さて、ここの十貫内はどうであろう。
土地の人に聞いてみたが、わからなかった。
十貫とは、室町時代の武家の知行高と考えると、
その領地内であったからとなる。




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JR水郡線踏切

十貫内の集落を抜けると、JR水郡線の踏切となる。
写真左端の高架は、東北新幹線で、次の駅は郡山となる。

水郡線は茨城の水戸駅と、ここ東北本線の安積(あさか)永盛駅を
結ぶ線であるが、実際の運行は、1駅先の郡山駅を発着している。

この水郡線の踏切を渡ると、
須賀川市滑川十貫内から郡山市安積町笹川となる。

安積町は、旧奥州街道38番目の宿場・笹川宿のあるところだ。
5世紀から6世紀にかけて、勢力を広げた大和朝廷は、
ここに阿沢国造を置き、比止禰命を任命した。

地名は、この「阿沢」が「安積」と転訛したようだ。




詳細リンク:旧奥州街道75「須賀川・滑川十貫内~郡山・安積町笹川」/街道写真紀行
(福島県須賀川市滑川西町、十貫内、郡山市安積町笹川) 0910/1001

2010/01/20

須賀川・滑川西町/旧奥州街道74

21sasakawa22s  滑川古道標

滑川の川沿いの道を進むと、
現在の県道355号線(須賀川二本松線)と合流する。

その角に明治に立てられたという、新道と旧道の追分を表す道標が
残されている。



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滑川、上流側

滑川橋より上流を見た写真だ。
右の集落は滑川中町の集落で、かつての間宿・滑川のあったところである。

江戸時代の滑川橋はこの辺に架かっていたようだ。
川沿いには大聖不動明王堂が建立されている。




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滑川・清陵通り

滑川字西町に入ると、左側に昭和63年に開校した、
清陵(せいりょう)情報高校(左端)がある。
写真左の道は、清陵通りとなっている。

阿武隈川の清流と、この辺一帯が阿武隈山系を一望できる
丘陵にあることから、「清陵」と名付けられた由。

写真の右端がJR東北本線で、そのすぐ右側が阿武隈川となっている。
旧街道は、このまま東北本線に沿って直進である。





詳細リンク:旧奥州街道74「須賀川・滑川中町~西町」/街道写真紀行
(福島県須賀川市滑川) 0910/1001

2010/01/19

間宿・滑川/旧奥州街道73

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滑川・筑後塚供養塔群

森宿を出て、滑川地区に入ると、旧街道に面して、
右側に筑後塚供養塔群がある。

伊達政宗が攻めてきたとき、須賀川城主二階堂氏の家臣、
守谷筑後守が政宗に内通し、その結果落城した。
戦の後、主君を裏切った行為が許されず、
政宗により成敗されたところであったので、筑後塚と呼ばれるようになった。

実際の位置は、現在より少し須賀川よりの柏城小学校前であったが、
学校建築と道路改修のため、ここに移されたという。

屋根囲いの中の板碑は、その頃に作られた双式三尊来迎供養板碑である。
その他は江戸時代の庚申塔と二十三夜塔等であった。




21sasakawa18s 三尊来迎供養塔

三尊来迎供養板碑の一枚である。
飛雲(紫雲)に乗った阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩を
薄肉彫りした阿弥陀三尊像を二組並べたものである。

前にも紹介したが、福島県にはこの来迎図を浮彫した板碑が多い。
鎌倉時代から南北町時代に作られたもので、
福島県だけで100基以上もあるという。

浄土信仰がこの地に深く浸透していた様子が伺われる。



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間宿・滑川

筑後塚供養塔群の前面の道は旧奥州街道で、
かつ古代~中世の東山道であったところだ。

写真は、滑川沿いにある間宿・滑川の集落である。
落ち着いた雰囲気の旧街道沿いの集落であった。




詳細リンク:旧奥州街道73「須賀川・滑川東町~間宿・滑川」/街道写真紀行
(福島県須賀川市滑川東町)  0910/1001

2010/01/18

須賀川・森宿/旧奥州街道72

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森宿・茶屋池公園

森宿に入ると、左側に広い公園があった。

正しくは須賀川市森宿字海道下西池内にある茶屋池公園である。
池の畔に茶屋でもあったのであろうか。
森宿には、今でも茶畑(ちゃばた)という字名が残されている。

地区名が西池内とあるので、かつては東側にも池があったのであろうか、
今はその痕跡は無かった。

このベンチでのんびり休憩する。小春日和の気持ち良い朝であった。




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森宿一里塚

さらに進むと、緩い坂の途中右手に多数の石碑・石塔群があった。
その殆どが江戸時代後期の文字だけ記された馬頭観世音であった。

写真は緩い坂の途中、街道右(東)側に残されている一里塚である。
江戸日本橋より60番目で、約240kmとなる。

須賀川市教育委員会の説明によると、慶長9年(1604年)、
家康の命により街道の改修が行われ、その時に一里塚が設けられたとのこと。

現在は、盛り土が失われ、檀のみが残されている。




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白石坂

峠を越えると、緩やかな下り坂となっている。
白石坂で、バス停の名前も「白石坂」となっていた。

かつては、原野の中の寂しい一本道であったが、
今はまだ新しい工場団地と新興住宅地になっていた。





詳細リンク:旧奥州街道72「須賀川・森宿~白石坂」/街道写真紀行
(福島県須賀川市森宿) 0910/1001

2010/01/16

須賀川・上人坦~下宿/旧奥州街道71

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上人坦・旧街道

上人坦(しょうにんだん)の笹原工業須賀川工場を右から迂回すると、
目の前に道路、そしてJR東北本線に遮られて、前に進むことが出来ない。

地元の人に聞くと、踏み切りは廃止され、地下歩道が出来ていると言う。
言われるままに進むと、真新しい地下歩道があった。
平成10年から4年かけて完成したもので、自転車が通れるように、
階段が無く、スロープとなっている。

その上人坦地下歩道を抜けると、旧奥州街道へ復帰となる(上写真)。
通学の中学生が多数歩いていた。手前左の須賀川第二中学の学生である。

この第二中が、上人坦の地名の由来となった、

上人檀(しょうにんだん)廃寺跡(国史蹟)である。
発掘調査の結果、7世紀後半から8世紀にかけて、律令体制の岩背国の
官が跡か国分寺跡、あるいは国府そのものがあった所と推定されている。




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宝来寺/下宿

下宿の街道左側に宝来寺(ほうらいじ)がある。
本堂前には安山岩で出来た高さ1m程の三基の
阿弥陀三尊来迎(さんぞんらいごう)板碑が建っている。
鎌倉時代後期の作とのことだ。

この三尊来迎とは、念仏行者の臨終に、
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が、浄土から紫雲に乗って
迎えに来ることを描いている碑である。




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下宿・集落

古代から続く下宿の集落である。心なしか、立派な建物が多かった。

下宿を抜けると、森宿である。
森宿は古代の東山道の磐瀬駅のあった処である。
なお、磐瀬の駅馬の配備数は規定通りの10疋であった。





詳細リンク:旧奥州街道71「須賀川上人坦~下宿」/街道写真紀行
(福島県須賀川市上人坦、下宿町) 0910/1001

映画「釣りバカ日誌20/ファイナル」

平成22年1月
横浜MOVIX

タイトル キャスト コメント
釣りバカ日誌
20/
ファイナル

 
2009年 
 
 監督
 朝原 雄三

浜崎伝助
  西田 敏行

鈴木一之助
  三國 連太郎

浜崎みち子
  浅田 美代子

沢村葉子
  松坂 慶子
  近年の業績悪化に、追い詰められた鈴木建設。会長の一之助は無期限の給料全額返還を実行する中、一之助のために奮起した伝助は、得意の釣り人脈から、思いがけない大型受注に成功する。
  その褒美で、会長賞を得て、釣り休暇を貰い、北海道に釣り旅行に・・・
  シリーズ初めての北海道ロケの映像が魅力的であった。幻のイトウ釣りのシーンも、相変わらず見せてくれた。
  今回が最終章作品とのことであるが、主役の年齢を考えれば仕方ないが、惜しまれるシリーズである。最後の映画の中でのカーテンコールは良かった。


詳細リンク:「映画」/日本写真紀行

2010/01/15

須賀川・中宿~上人坦/旧奥州街道70

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中宿、旧奥州街道

中宿橋を渡って、すぐ右折する。
現在の県道355号須賀川二本松線で、全線を通して、
旧奥州街道と重なっている部分が多い道である。

この写真の左側に鎌足神社があるところだ。

ここから、中宿、下宿、そして森宿と宿の付く地名が続いている。
森宿は、古代の東山道の磐瀬(いわせ)駅があったところである。



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鎌足神社

鎌足神社の鳥居を潜り、旧な階段を登ると鎌足神社本殿がある。

鎌足神社は、藤原鎌足を祭神とする神社で、住所は上人坦地区となり、
かつての歌枕・岩瀬の森のあった処である。
地名の上人坦は、上人檀寺(廃寺)からきているようだ。

鎌足神社は、藤原鎌足の子孫の波多野筑後守が、
建久元年(1190)に建立したと言う。

歌枕、岩瀬の森を詠んだ歌は、紀貫之の
  「陸奥や 岩瀬の森の 茂る日に 一声暗き 初時鳥(ホトトギス)」や、

徳大寺左大臣の
  「かくとだに 思ふ心を 岩瀬山 下行く水の したかくれつつ」等の歌が残されている。




21sasakawa03s  足尾神社

鎌足神社の参道脇に、足尾神社がある。
小さな社と対称的に未だ新しい大きな草鞋(わらじ)があった。
そして、大草鞋の下には、多数の普通サイズの草鞋が吊り下げられてあった。

道中安全を祈願したものであろうか。肖って拝礼。



詳細リンク:旧奥州街道70「須賀川・中宿~上人坦」/街道写真紀行
(福島県須賀川市中宿、上人坦) 0910/1001

2010/01/13

須賀川・岩瀬の渡し/旧奥州街道69

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岩瀬の渡し坂

岩城街道を追分を越えると、須賀川宿北町に入る。
地名の如く、須賀川宿の最北端である。

今はその痕跡は無いが、かつては黒門と呼ばれる木戸があり、
その門を潜ると、急な下り坂となっていた。


傍の標識に「岩瀬の渡し坂」と書かれてあった。
今は車が通れるようになっているが、以前はもっと急な坂であったようだ。

この坂の下った所で、現釈迦堂川の土手に突き当たる



20sukagw48s  岩瀬の渡し歌碑

釈迦堂川の土手の下に歌碑があった。
字か掠れて読みにくかったが、
「陸奥の 岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる」

と読めた。

万葉集に出てくる歌である。
みつまき山とは歌枕で有名な「岩瀬の森」とのことである。

岩瀬は元の石背の国で、須賀川には国府があり、
この近くを古代の東山道が通っていた。



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釈迦堂川、岩瀬の渡し跡

釈迦堂川である。此の辺が、古代の東山道の岩瀬の渡しがあったところだ。
江戸時代中期頃からは、木製の中宿橋が架けられていた。
しかし、2年に一度は増水で流され、その度に架け直されていたようだ。

写真右端の橋は現在の中宿橋である。

釈迦堂川は、岩瀬郡天栄村の鬼面山(きめんざん、1021m)を
起点とする川で、須賀川のこの北側で阿武隈川に合流している川だ。
合流付近は、夏になると度々水害を起こすところであったようだ。

現在の中宿橋の袂には常夜灯が設けられていた。
この橋を渡り、対岸の中宿に向かう。

次は旧奥州街道の間宿の滑川である。



詳細リンク:旧奥州街道69「須賀川宿・北町~岩瀬の渡し」/街道写真紀行
(福島県須賀川市北町、古屋敷) 0910/1001

2010/01/12

初春新派公演「麥秋」

平成22年1月
三越劇場

演 目 役 者 観 劇 記
小津安二郎、野田高梧
「麥秋」より
山田洋次脚本・演出
麥秋
(ばくしゅう)

 一幕
 
間宮家祖父
     安井 昌二

祖母
     水谷 八重子

娘・紀子
      瀬戸摩 純

息子・康一
      田口 守

嫁・史子
      波乃 久里

隣の矢部家母
      英太郎

矢部家息子
      児玉 真二
  劇団新派8年ぶりの新作は、小津安二郎監督の「麥秋」をもとにして、映画監督の山田洋次が脚本、演出を手がけた話題作である。
  昭和29年、北鎌倉の間宮家の娘に縁談が持ち上がり、縁談をまとめようと躍起になる家族・・・と御馴染みのあらすじであるが、脚本・演出が絶妙で、なかなか楽しめる芝居となっている。
  昭和の大道具、小道具も心憎いほど、手が込んでおり、舞台を引き締めていた。
  隣の家のおばさん役の英太郎が要所を締め、印象的であった。

詳細リンク:「歌舞伎」/日本写真紀行

2010/01/11

須賀川城跡~神炊館神社/旧奥州街道68

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須賀川城跡/二階堂神社

ホテルを朝の6:40に出発し、
先ず訪れたのが諏訪町にある須賀川城跡である。

須賀川城の本丸跡は、現在二階堂神社となっている。
須賀川城主の二階堂氏は、鎌倉幕府政所執事 二階堂氏の一族で、
南北町動乱の時、領地のあった須賀川に下向し、土着した名族である。

戦国時代になると、米沢の伊達氏、会津の芦名氏の強敵に囲まれており、
家名の存続が厳しい状況であったため、
二階堂盛義は一子盛隆を芦名の養子に出した。
しかし本人が天正9年(1581年)に死去し、嫡子がいなくなった。

その為、二階堂氏は、伊達政宗の伯母である盛義の妻、大乗院が
城主の座についていた。
そこへ、奥州の伊達政宗が攻め込み、
天正17年(1589年)、須賀川城を陥落させた。

負けた天乗院は、正宗の庇護を受けず、
岩城家に養子に行っている兄親隆を頼っている



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神炊館神社

神炊館(おたきや)神社、主祭神は建美依米命で、成務天皇の御代、
初代岩背国国造として当地に赴任した。

着任すると、社檀を築き、収穫された新穀を炊いて、天神地祇を捧げて、
政治の成功を祈願した。
この故事にちなんで、社檀様(しゃだんさま)と呼ばれたが、
その後社殿が築かれ、神炊館神社と名付けられた由。

室町時代に、須賀川城主であった二階堂為氏が、
信州諏訪神を合祀したことから、「お諏訪様」とも呼ばれていた。

江戸時代に朝廷より「諏訪大明神」として、正一位の位を授かり、
諏訪大明神が神号として用いられたが、明治11年に、
現在の社名である神炊館神社に戻っている。

須賀川の総鎮守で、松尾芭蕉も訪れている古社である。
なお、この辺の地名は今も諏訪町となっている。




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神炊館神社参道

神炊館神社参道にある商家である。

富士防災資材株式会社の看板が架かっていた。
消防設備、用品、保守点検を行っているようだ。

須賀川には、今でも古くからの建物が何軒か残されている




詳細リンク:旧奥州街道68「須賀川城跡~神炊館神社」/街道写真紀行
(福島県須賀川市諏訪町) 0910/1001

2010/01/08

須賀川・五老山~治部稲荷坂/旧奥州街道67

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翠ヶ丘公園、五老山

翠ヶ丘公園の五老山は、毎年11月に行われる、
須賀川名物の火祭り、「松明(たいまつ)あかし」の舞台となるところである。

天正年間(1573~1591年)、須賀川城は伊達政宗に攻められ落城した。
毎年11月に行われる、日本三大火祭りの一つである「松明あかし」は、
この時戦死した人々の霊を弔うために始められた祭りである。

「松明あかし」は、須賀川城跡に建つ二階堂神社で
奉受された御神火(松明)を、若者によって市内を一巡してから、
会場となるここへ運ばれる。

また、長さ10m、重さ3トンもある、大松明が担ぎ出され、
町を練り歩き、ここに運ばれてくる。

そして、運ばれてきた大松明約30本をここに立て、一斉に点火し、
松明太鼓が鳴り響くと言う豪壮な祭りである。




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治部稲荷坂

翠ヶ丘公園から、急な坂道・治部稲荷坂を登って、
須賀川宿の中心・本町へ戻る。
写真はその途中の坂である。

写真左端が坂名の由来となった治部稲荷神社である。

須賀川領主、二階堂氏の一族で、須賀川城代を務めた治部大輔を
祀った神社である。



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須賀川市街

須賀川市本町交差点の近くにある、サンルートホテル須賀川の部屋の
窓から東側の市街を撮影した写真である。

こんもりした木立のあるところが、翠ヶ丘公園で、
背後の山並みは阿武隈高地である。




詳細リンク:旧奥州街道「須賀川・五老山~治部稲荷坂」/街道写真紀行
(福島県須賀川市愛宕山外、東町、加治町) 0910/1001

2010/01/07

須賀川・愛宕山/旧奥州街道66

20sukagw28s  庚申坂(池上町坂)

十念寺、金徳寺の前を抜けると、急な下り坂となる。

古くは、須賀川町内から浜屋に行く古道で、
坂の中頃に庚申塔があったことから庚申坂と呼ばれていた。

また、この坂の上に鋳物屋があり、出来上がった鍋等を転がし
出来具合を確かめていたので、「鍋ころがし」とも呼ばれていたようだ。  



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須賀川(下の川)

池上町の旧坂を下ると、須賀川(通称下の川)の土手に出る。

須賀川は中世以来からの地名で、「川の洲のあるところ」の意とのことである。
その中心のこの須賀川は、阿武隈川と釈迦堂川の合流点南部の
台地を流れる川である。

この須賀川の両側には、約1kmにわたり196本の桜が植えられている。




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愛宕山(翠ヶ丘公園)

須賀川に架かる見晴橋を渡ると、
目の前に中世の須賀川城(二階堂氏)があった愛宕山がある。
今は広大な翠ヶ丘公園となっている。

翠ヶ丘公園の一画となっている旧武家屋敷跡には、
歴史民族資料館と市立博物館が出来ている。

公園内には、新池、琵琶池があり、
これが池上町の地名の由来となっているようだ。

なお、戦国時代に、須賀川城は今の須賀川市街(諏訪町)に移っている。
本丸跡が二階堂神社となっているところだ(後述)。

愛宕山の急な階段を登ると、不動堂の近辺に古い常夜灯や
石碑、石仏が並べてあった。
また、愛宕山の北麓の本丸跡には愛宕神社がある。

なお、愛宕神社が出来たのは江戸時代で、それ以前は、
愛宕山は岩瀬山と呼ばれていた。




詳細リンク:旧奥州街道66「須賀川宿・池上町~愛宕山」/街道写真紀行
(福島県池上町、愛宕山外)  0910/1001

2010/01/05

須賀川宿中町~池上町/旧奥州街道65

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中町あきない広場

本町交差点を抜けると、中町に入る。
左側に未だ新しい、中町あきない広場があり、
若者グループのライブ演奏が行われていた

このあきない広場は、中町郵便局跡に出来た建物である
須賀川市市民相互の交流、賑わいの創出、産業の振興を図るために
設置されたとのこと




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十念寺

開山は文禄元年(1592年)、浄土宗名越派の本山である
下野大沢(現益子町)の円通寺の末寺として、
良岌上人により開創された寺である

元禄2年(1689年)に、松尾芭蕉が須賀川に滞在した時に、
この寺を参拝している
それを記念して、安政2年(1855年)に、
須賀川の俳人市原多代女(たよじょ)により、
芭蕉の「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑が建てられている

なお、市原多代女は、安永5年(1776年)に須賀川で生まれた
造り酒屋に嫁入りしたが、そこの主人が31歳で亡くなり、
後を継いだ多代女は苦労しながら家業を盛り立て、その傍ら俳句に打ち込み、
全国的に有名な女流俳人となった
90歳で亡くなるまで、4千以上の句を残している

境内には、東京オリンピックのマラソンで銅メダルとなった
円谷幸吉の墓がある
また、境内の推定樹齢500年のイチイは、福島県の緑の文化財に
指定されている

十念寺の境内にある市原多代女の句碑には、
辞世の句「終に行く 道はいづくぞ 花の雲」と刻まれてある。

松尾芭蕉の句碑と、この市原多代女の句碑は指定文化財となっている。




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金徳寺

十念寺に隣接した金徳寺(こんとくじ)
こちらは時宗の寺で、神奈川県の藤沢にある時宗の総本山
清浄光寺(通称遊行寺)の末寺である

本山の遊行寺は旧東海道五十三次を歩いた時に立ち寄った寺で、
懐かしかった

十念寺は、伊達正宗に滅ぼされた二階堂城の城主二階堂家、美千代姫の
菩提寺であった
また、歌舞伎の2代目尾上松禄の墓がある

境内に金徳寺の開山塔がある
当寺の開山上人(7代目遊行上人)である托阿上人直筆の名号開山塔である

名号(みょうごう)は、菩薩の名で、石塔には「南無阿弥陀仏」と
見事な書体で、大きく彫られてあった
建武4年(1377年)と説明板に書かれてある
室町幕府が成立した翌年のことである




詳細リンク:旧奥州街道65「須賀川宿中町~池上町」/街道写真紀行
(福島県須賀川市中町、池上町) 0910/1001

2010/01/04

須賀川宿本町~会津街道追分/旧奥州街道64

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軒の栗庭園

可伸庵の路地から、旧街道に復帰すると、その角に軒の栗公園がある。
元禄2年(1689年)6月9日(陰暦4月22日)、芭蕉と曾良が等窮宅に到着、
翌日夕、裏手の可伸庵を訪れた時に
「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」と詠んだ句より、軒の栗公園
と名付けられた小公園だ。

須賀川には、芭蕉を記念する小公園がいくつか造られている。
写真左中央のベンチの背後の石像は、相楽等窮の坐像である。


20sukagw19s  芭蕉と曾良立像

軒の栗公園の右側には、傘を持った松尾芭蕉と河合曾良の可愛らしい立像が建っていた。


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会津街道追分/本町交差点

軒の栗公園を出て、少し歩くと、会津街道追分に出る。
標識には、「左会津若松、南会津」、そして「右石川」と記されてある。
国道118号(石川街道)である。

この左角にも、小公園が作られてあった。
また、右角には「須賀川宿本町奉行所」と書かれた小屋が出来ていて、
中で休憩出来るようになっていた。

この追分を左折すると、正面にホテルサンルート須賀川がある。
今夜はここで、旧街道歩きを中断して、一旦草鞋を脱いだ。

会津街道を挟んで、反対側には須賀川市役所や芭蕉記念館の
あるところである。

未だ、辺りが明るいので、この後、ホテルに荷物を置いて宿場内を歩いてみた。




詳細リンク:旧奥州街道64「須賀川宿本町~加治町」/街道写真紀行
(福島県須賀川市本町、加治町) 0910/1001

2010/01/03

須賀川宿・本町/旧奥州街道63

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須賀川宿・本町

大町から本町に入る。かつての須賀川宿の中心部である。
盛岡市中央公民館蔵の「奥州道中増補行程記」によると、
この右側に須賀川宿本陣があり、左側に本陣を務めた藤井家があった。

その隣にあったのが、芭蕉が逗留したことで有名な、
相楽等窮(さがらとうきゅう)の家があったところである。



20sukagw14s 相楽等窮宅跡

今はNTT須加川となっているが、相楽等窮宅跡である。
この相楽家の裏に可伸(かしん)庵があった処である。
写真左端に簡単な説明板が設置されていた。

等窮は、須賀川宿を束ねていた相楽伊左衛門の俳号であり、
中世の白河領主・結城氏の子孫で、須賀川の代官の家柄であった。

芭蕉はここに、4月22日から8日間逗留している。
等窮に、「白河の関いかにこえつるにや」と問われ、
「風流の 初めやおくの 田植えうた」と詠んだところである。




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可伸庵

相楽等窮の裏手(西側)にある可伸(かしん)庵である。

隠棲の僧・可伸が庵を結んでいたところで、芭蕉がここに訪れ、
「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」 と詠んだところである。

なお、可伸は等窮の友人で、栗斎と号する俳人でもあった。




詳細リンク:旧奥州街道63「須賀川宿・大町~本町」/街道写真紀行
(福島県須賀川市本町) 0910/1001

2010/01/02

萩/山口

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萩・菊ヶ浜

日本海に面した、美しい海岸である
夜明け前の静寂(しじま)の中、散歩やジョギングをしている人が居た

遠くに見える島影は荻の沖合いに点在する玄武岩の島々で
六島(ろくとう)諸島と云われている

主島が大島(萩の大島)で、相(あい)島、櫃(ひつ)島、尾島、肥島、羽島の
6島からなっており、すべて北長門海岸国定公園に属している

大島には1100人強の人が住んでいるという




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厚狭毛利家萩屋敷長屋

萩に現存する、最大の武家屋敷長屋である
安政3年(1856年)に築かれたもので、重要文化財に指定されている

なお、厚狭毛利氏は、元就の5男元秋を始祖とする毛利一門で
山陽道の宿場であった厚狭に知行地があったので
厚狭毛利と呼ばれていた




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御成道

御成道に面して右側に、萩藩の御用商人であった菊屋の住宅
屋敷は幕府の巡検使の本陣としても使用された

菊屋家は、毛利輝元が萩に封じられた時に
山口からここに移り、萩の町割りなどを命じられている
代々大年寄格に任命され、藩御用達(ごようたし)を勤めていた



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菊屋横丁

御成道から菊屋の横の小道に入る
菊屋横丁と呼ばれているところだ

この奥に高杉晋作の生家がある




詳細リンク:旧山陰道43~45「長門・萩」/街道写真紀行
(山口県萩市) 0804/1001  

2010/01/01

謹賀新年

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明けましておめでとうございます。
昨年は、いろいろとご支援いただき、ありがとうございました。

また、本年もよろしくお願い致します。

写真は、山口県萩市の菊屋横丁です。
なかなか良いところでした・・・

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