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2009年9月

2009/09/30

映画「TAJOMARU」

平成21年9月
横浜ムービル


タイトル キャスト コメント
TAJOMARU

 
2009年 日
 
 監督
  
中野 裕之

  
畠山直光、新多襄丸
    小栗 旬

阿古姫
    
柴本 幸
    

旧多襄丸
    松方 弘樹

足利義政
      萩原 健一
        

  阿古姫という許婚がいて将来も約束されている畠山家の次男・直光は陰謀により家を追われてしまう。阿古姫を連れて逃避行の時、山中で盗賊の多襄丸に襲われる。
  芥川竜之介の藪の中が原案で、黒澤明監督の映画「羅生門」を意識した脚本が実に良く出来ており、最後まで楽しめた。特に、兼光が多襄丸の名を継ぐくだり(件)や盗賊を味方に付ける件は見事であった。
  松方弘樹と萩原健一の演技が際立っており、映画全体を締めていた。「羅生門」での三船敏郎の多襄丸も良かったが・・

詳細リンク:映画/日本写真紀行

2009/09/25

白河・田町~阿武隈川/旧奥州街道38

13sirakawa51

白河・田町大橋

白河宿の中心・本町を抜け、左折すると横町に入る。
そしてJR東北本線のガードを潜ると白河城下の「通り5町」の最後の町、
田町に入る。

前方に阿武隈川に架かる田町大橋が見えてきた。
この橋の手前に白河宿の木戸があり、北の出入り口であった。



13sirakawa52

阿武隈川・下流側

田町大橋から見た阿武隈川である。
上流側には那須連山が大きく見える所だ。

阿武隈川は、この那須連山の一つ旭岳(1896m)を源流とする河川で、
白河から須賀川、郡山、福島を経て、
宮城県の岩沼市と亘理町の境で太平洋に流入している。

流路延長は239kmで、東北では北上川に次ぐ長さの川である。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道38「白河・横町~阿武隈川」/街道写真紀行
(福島県白河市田町) 0905/0909 

2009/09/24

白河宿/旧奥州街道37

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白河・本町枡形

小峰城址より、大手町に戻り、旧奥州街道に復帰する。
写真は大手町から本町にある枡形である。

道がクランク型になっているところだ。

ここを左折すると、本町に入る。



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27白河宿/本町

白河市本町は、かつての旧奥州街道27番目の宿場・白河宿の中心で、
ここに本陣と脇本陣があった。

白河宿は、幕府道中奉行の管轄下であった奥州道中最終の宿駅で、
本陣1、脇本陣2、旅籠35軒であった。



13sirakawa46s 白河宿本陣芳賀家跡

街道右側に本陣芳賀家跡がある。
現在のワタナベ薬局の隣の堀川印刷所である。

説明によると、芳賀左衛門家が本陣を代々務めていた。
明治9年、明治天皇の第1回目の東北巡幸の際に、ここで休憩されたようだ。
本陣芳賀家の表間口は当時16間(約30m)であった。

この先右側に旧旅籠の村上屋があった。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道37「27白河宿」/街道写真紀行
(福島県白河市本町) 0906/0909 

2009/09/23

白河・小峰城址/旧奥州街道36

13sirakawa38s  JR東北本線横断地下道

白河市大手町と小峰城を遮っているJR東北本線。
今は、その線路下を通行出来る半地下道が出来ている。
正しくは、「こみね・ふれあい通りの地下通路」という様だ。

白河駅を下りて、左側のこの地下通路を通れば、
小峰城跡に最短距離で行ける様になっている。  



13sirakawa42

小峰城・三層櫓

線路を潜ると、目の前は城山公園である。
白河薔薇園(本丸跡)や、白河集古苑が出来ており、
史実に基づいた三重櫓と前御門が復元されている。広さ9.5haである。

南北朝時代の興国元年(1340年)、結城宗弘の子親朝(ちかとも)が、
ここ小峰ヶ岡に城館を作り、子孫は小峰氏と称した。
戦国時代後期からは会津城主の領地となっている。

江戸時代の寛永4年(1627年)、丹羽長重が棚倉より10万石で入り、
白河藩創設。
小峰城の大改築を行い、近世的な城郭と城下町を完成させた。

丹羽家以後は、松平定信を始め、7家21代の親藩、譜代大名が
交替で入封した。
最期の城主は、文政6年(1823年)に武蔵忍より阿部正権(まさのり)が
10万石で入封し、以後8代44年在封した。

しかし慶応2年、8代目藩主阿部正靜(まさきよ)は
棚倉への転封の命を受けた。
従って、戊辰戦争の時は白河城は藩主不在のままで、
奥州列藩同盟軍と新政府軍の攻防の舞台となった。
その結果、戊辰戦争で同盟軍は破れ石垣のみを残し、他は焼失してしまった。

石垣は往時のもので、同心円型の珍しい石積みが各所に見られる。
写真左側の木の右上にも、同心円型の石積みが見られる。



13sirakawa43

白河集古苑

城山公園内にある白河集古苑は、中世に白河地方を領していた結城家と、
江戸時代の大名として古河藩を治めていた阿部家の歴史的資産を
保存・展示する施設である。

建物は、城郭内にあった土蔵をイメージした平屋建ての建物で、
結城家古文書館と阿部家名品館が設けられている。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道36「白河・小峰城址」/街道写真紀行
(福島県白河市郭内) 0905/0909

2009/09/20

映画「火天の城」

横浜ムービル
平成21年9月


タイトル キャスト コメント
火天の城

 
2009年 日
 
 監督
  
田中 光敏
  
棟梁・岡部又右衛門
    西田 敏行

妻・田鶴
    
大竹 しのぶ
    


    福田 沙紀

大庄屋甚兵衛
     緒形 直人


      石橋 蓮司
     夏八木 勲
     笹野 高史         

  信長から5層の天守を持つ安土城建設を命じられた、熱田の宮番匠の又右衛門。名だたる番匠たちとの図面、模型等による指図争いに勝ち、総棟梁として城を築くまでを壮大なスケールで描いている。
  又右衛門と妻・田鶴を演じた西田敏行と大竹しのぶは、予想通り素晴らしかったが、木曽に檜を調達に行き、山中を捜し歩くシーンと、甚兵衛(緒形直人)との絡みも良かった。
  ただ、外国人受けを狙った様なサービス過剰なシーンが2,3あり、少し残念であった。折角の題材であるので、脚本にもう一工夫欲しいところであった。

詳細は下記リンクをご覧下さい
映画/日本写真紀行

2009/09/19

白河城下/旧奥州街道35

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白河・中町

愛宕町を過ぎて、枡形を経ると中町に入る。丁度下の古地図の現在地のところである。

旧奥州街道に沿った愛宕町、中町、かつての宿場の中心地で本陣のあった本町、
そして横町、田町が「白河城下の通り5町」と呼ばれていた。

中町はその5町の一つである。
洒落た街路灯には「歴史の町 白河 中町」と書かれた幟が翻っていた



13sirakawa34

白河城下町古図

中町に入ると左側に、白川城下町の案内と古地図が載った大きな案内板があった。
上写真は文化5年(1808年)の白河城下町絵図である(白河市歴史民族資料館)

朱書き部分の左下が前の宿場・白坂方面で、右上が次の宿場・根田方面である。
上部の城郭は小峰城で、その上を流れている川が阿武隈川だ。
下を蛇行しながら横に流れている川が谷津田川である。

白河城下町は阿武隈川と谷津田川に挟まれた段丘に造られた町で、
今でも往時の町割が、奥州街道を中心に良く残されている。

説明板によると、寛文年間(1661~1673年)の白河城下の町人は7千5百人余りで、
武家人口と合わせ、城下の総人口は1万5千人程であった。
福島県下では、会津若松城下に次ぐ規模であった。



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大手町・枡形

さらに進むと丁字路となっている。
この信号を右折し、すぐまた左折の旧宿場特有の枡形になっている。
この枡形を抜けると本町で、かつては白河の宿場の中心であったところだ。

この道の右側が大工町で、左側が大手町である。
今回はここで左に曲がり、大手町より小嶺城に向かう。





詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道35「白河・中町~大手町」/街道写真紀行
(福島県白河市中町、大手町) 0905/0909

2009/09/18

白河・天神町/旧奥州街道34

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白河・天神神社

月よみの庭(右手前端)の前から後ろを振り返った写真である。
写真中央奥の鳥居が天神神社だ。

右の建物は明治時代始めから続く和菓子の山木屋菓子店である。
江戸時代は蕎麦屋であったそうだ。
創業以来の「黒あんまんじゅう」や、
梅餡を小麦粉の生地で包んで焼いた「関の天神様」が人気とか。




13sirakawa31s  白河宿枡形

ここで、旧街道は枡形となっている。
右正面の信号を左折し、すぐ右折とクランク形になっている。
旧宿場特有の枡形道が残されているところだ。



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関川神社

中町の枡形となっている道を右に入ると、関川寺(かんせんじ)がある。
中世、白川城主の結城宗廣が開山したと伝えられ、
天正9年(1581年)に現在地に移っている。

境内には戊辰戦争での東軍の戦死者供養塔がある。
慶応4年5月1日の戦いで、最大の激戦地となり、
東軍の戦死者は682人にのぼったと言う。

また、赤穂四十七士の一人、中村勧助の妻の墓もある。
勘助の父が白河藩士であったからのようだ。

この辺は一帯は小峰城の南西の防衛ラインとして、
城下町特有の寺町となっているところである。
丁度、この関川寺の背後から谷津田川に沿って寺が集中している。

その中で、皇徳寺には小原庄助さんの、お猪口と徳利の形をした墓がある。
戒名が「米汁呑了信士」で、辞世の句が
「朝によし 昼になほよし 晩によし 飯前飯後 その間もよし」とか。

まったくもって、そのとおりである・・・・




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道34「白河・天神町~中町」/街道写真紀行
(福島県白河市天神町、愛宕町) 0905/0909

2009/09/17

浜田/島根、旧山陰道

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山陰本線、JR浜田駅

JR山陰本線の浜田駅である
駅前のからくり時計(1枚目写真の右)と、駅構内の大蛇(下写真)

からくり時計は、どんちっちからくり時計と云い
日本宝くじ協会の助成金で平成15年に設置されたものだ

定時になると、土台部分から囃子手が登場し、
地元石見神楽のお囃子を奏でる

そして、舞台上部の神楽殿には、大蛇が現れ
それをスサノオノミコトが退治する仕掛けとなっている

どんちっちとは、神楽の囃子を表現する幼児言葉であった
それが転じて石見神楽全体を指すようになった

さらに、どんちっちは浜田の水産品のブランド名ともなっている
きちんと商標登録もしているとか

どんちっち三魚とは地元産のあじ、のどぐろ(アカムツ)、かれいを指すそうだ
なお、カレイは市の魚にも指定されている

山陰地方有数の水産都市の面目躍如で、何か仄々としている


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浜田川大橋

浜田川をさらに下ると、浜田川大橋となる
此の辺が、市街の中心地である

写真は大橋より日本海側を見たもの
右手のこんもりした小高い丘が、浜田城跡である



詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧山陰道38「江津・敬川~31浜田宿」/街道写真紀行
(島根県浜田市) 0804/0909

2009/09/16

益田/島根、旧山陰道

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益田市木部長海岸

浜田市を抜けると、益田市に入る
益田市最初のJRの駅は鎌手である

写真は鎌手を過ぎてすぐの益田市木部(きべちょう)である
石州瓦の甍が見事であった



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益田・萬福寺

益田川の右岸にある益田萬福寺

応安7年(1374年)に領主の益田兼見によって、

ここに移された時宗の道場である
元は中州にあった安福寺をここに移築し、萬福寺と改めた

写真は、萬福寺の雪舟庭園

雪舟が益田に滞在時に作庭したもの
見事な池泉式回遊兼鑑賞式築山泉庭となっている

本堂は、改修はされているが当時のままという
この本堂と、庭園、絹本著色二河白道図(鎌倉時代末期)が
国の指定文化財となっている



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七尾山・七尾城址

七尾山(標高120m)である
この山全体が益田七尾城であった

増田氏の先祖、藤原定通(国兼)は藤原鎌足の子孫と云われ
国司として石見上府に赴任し、任期を終えた後も都に帰らず土着した

曾孫の兼高(益田氏を名乗った最初の人)が源平の戦いで
武功を立て、石見の押領使に任じられた

建久3年(1192年)に上府からここに本拠を移し
翌年七尾城を建てたという

その後、陶氏、毛利氏に与し
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後
西軍の毛利氏は大幅な減封となった

益田氏の当主益田元祥は毛利氏に従い
長門須佐へ移ることになり、約400年続いたこの七尾城は廃城となった

なお、当時の大手門が、益田川を挟んで反対側の
医行寺の総門として残されている



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JR益田駅

さらに進むと、右手にJR益田駅がある
山陰本線の駅で、また山口線の終着駅である


山陰道は、ここで日本海から離れ
JR山口線に沿って34番目の宿場・津和野
そして、35番目の山口を経て山陽道の小郡に合流する

長かった山陰道も、やっと先が見えてきた感じであった




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧山陰道41「33益田宿」/街道写真紀行
(島根県益田市) 0804/0909

2009/09/15

白河・谷津田川/旧奥州街道33

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谷津田川

稲荷山をぐるりと半周する様に進むと、
白河・小峰城下町の南口の九番町となる。
如何にも城下町らしい町名で、稲荷山山麓から九番町、七番町と続き、
一番町で終わっている。

三番町に入ると、
阿武隈川支流の谷津田川(やんたがわ)に架かる南湖橋を渡る。

写真は南湖橋より右側(下流側)を見た写真で、正面の橋は恵比寿橋である。

白河宿に沿って、南側を流れている川で、
せせらぎ通りと命名された遊歩道が出来ている。
平成10年8月の豪雨で氾濫し大きな被害が出たため、
災害復旧事業により整備され、平成15年に完成したものだ。


しかし、この川名を「やんたがわ」とは読めなかった・・・



13sirakawa26s  白河・一番町、民家

谷津田川を渡ると、一番町に入る。
此の辺に白河宿の木戸があったというが、標識は無かった。

この先で、旧街道は直角に右に曲がっている。

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月よみの庭

直角に右に曲がる角に「月よみの庭」と書かれた小公園がある。
月読か、月夜見の意であろうか。

地元の白河石を敷き詰めた庭である。
白河石は、芦野石と同じ種類で、
白河火砕流の灰色や灰紫色の凝灰岩のことである。

一番町を抜けると、勘定町や細工町、道場町、金屋町、宰領町、
鷹匠町、手代町、袋町、蔵町、大手町等と如何にも城下町らしい町名が
続いている。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:奥州街道33「白河九番町~谷津田川~一番町」/街道写真紀行
(福島県白河市三番町、一番町、天神町) 0906/0909

2009/09/11

権兵衛稲荷神社/旧奥州街道32

13sirakawa17s  会津藩士戦死の碑/稲荷山麓

稲荷山麓にある大きな石碑。戦死の墓と書かれてある。
戊辰戦争の会津藩士の墓で、ここ白河口の戦いで亡くなった藩士の墓である。
会津藩銷魂碑には、若年寄横山主税、海老名衛門他、304名の戦没戦士の名が刻まれている。



13sirakawa20s  権兵衛稲荷神社本殿

古戦場の跡、稲荷山に登ってみた。
上の写真が稲荷神社の参道で、上の写真は本殿である。

ここの狛犬は、阿吽の形相をした一対の狐であった。
また、灯篭の台石に明治初期の水準点の記号(几号水準点)があった。



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稲荷神社参道

権兵衛稲荷神社からの階段を下り、旧奥州街道に向かう。
この参道の先、約1.5km位の所には、
日本最初の公園と云われる南湖公園があるところだ。

南湖公園は、白河藩主松平定信が享和元年(1801年)に作庭した公園で、
大名庭園と異なり、四民に開放されていた。国指定史蹟・名勝。

鳥居を出ると旧奥州街道で、すぐ白河の城下町に入る。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道32「白河・稲荷山~権兵衛稲荷神社」/街道写真紀行
(福島県白河市松並) 0905/0909

2009/09/10

小丸山分岐~稲荷山/旧奥州街道31

13sirakawa11

白河・小丸山分岐

小丸山(こまるやま)の溜池の横を過ぎると、
旧奥州街道は国道294号線(旧陸羽街道)から右に分かれる。

車の殆ど通らない道で、歩き旅にとっては、何んとも嬉しい道筋となる。



13sirakawa14s  稲荷山

13sirakawa16s_2  戊辰の役古戦場跡碑

西大沼交差点を直進すると、松並地区に入り、稲荷山の前に着く。
此の辺は戊辰戦争の白河口激戦地で、
稲荷山の麓には多数の慰霊碑や記念碑が建っていた。

その一つが、右写真で「戊辰の役古戦場碑」である。
かつては、ここに松並木があり、南(手前側)は水田が開け、
北はこの稲荷山の小丘であった。

慶応4年(1868年)、奥羽諸藩鎮定の為、
薩長、大垣等の西軍が大挙して、3方から白河小峰城を攻めてきた。
東軍の会津、仙台、棚倉の兵は城の南西の
山地(写真左背後)に陣し、是を迎え撃った。

ここで激しい戦いが行われ、4/25会津兵は一旦西軍を退けたが、
5/1再び来襲し激戦となり、ついに敗退となった。
そして、小峰城も城郭が消失し落城となった。

稲荷山の麓のこの場所に長州藩3名、大垣藩3名の墓や、
会津藩主松平容保の題字の銷魂碑が建てられている。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州道中「白河・西小丸山~稲荷山」/街道写真紀行
(福島県白河市西小丸山、西大沼、松並) 0905/0909

2009/09/08

新宿ピカデリー

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新宿ピカデリー

久しぶりに新宿ピカデリー(松竹)に行った。

昭和33年(1958年)に開設の旧新宿ピカデリーが建て直され、
10スクリーンの映画館として、昨年(2008年)オープンした。
スクリーンが大きく、座席もゆったりした非常に快適な映画館である。

ピカデリーは、多くの劇場が集まるロンドンの交差地点、
ピカデリーサーカスに由来しているとか。
始めて地名になったのが1626年と歴史がある。

今回は、ここで映画「3時10分、決断の時」を鑑賞した。


(東京都新宿区3丁目) 0909/0909

白河・一里段/旧奥州街道30

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白河・一里段の溜池

皮籠を抜けると一里段地区に入る。
一里塚があったという説もあるが、どうもうこの辺一帯が段丘になっているのが
地名の由来の様だ。

大きな溜池と遠くには那須連山が望めるところである。


13sirakawa09s  髭題目

鬼越山(東三坂山、430m)の左側を抜けると小丸山地区に入る。
その手前右側に大きな髭題目があった(写真右)。
寛政5年(1793年)建立とある。
東海道では良く見掛けた日蓮宗の「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目であるが、
奥州街道では珍しかった。  




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道30「白河・一里段~小丸山」/街道写真紀行
(福島県白河市一里段) 0905/0909

2009/09/06

映画「3時10分、決断の時」

平成21年9月
新宿ピカデリー


タイトル キャスト コメント
3時10分、
決断の時

 
2007年 米
 
 監督
  
ジェームズ・
    マンゴールド
  
ベン・ウェイド
    ラッセル・クロウ

ダン・エヴァンス
    
クリスチャン・ベイル
    

長男ウィリアム・エヴァンス
    ローガン・ラーマン

妻アリス・エヴァンス
     グレッチェン・モル

         

  借金を返せずに、地主からの嫌がらせで、馬小屋に火を放たれた牧場主のダン一家。生活が苦しく、家族との溝が深まっていた時、強盗団のボス、ベン・ウェイドが逮捕され、3日後の3時10分初の汽車で刑務所に連行されることになる。
  その護送の手伝いを200ドルで引き受けたダン。しかしベンの部下達の執拗な追跡に、最期は一人になりながらも、危険な護送を行う。
  ダンの妻と子供、そしてダンとベンの葛藤が、実に上手く描かれている。久しぶりの西部劇であったが最期まで堪能できた。
  なお、この映画は、1957年公開の「決断の3時10分」のリメイク版である。

詳細は下記をご覧下さい
詳細リンク:映画 /悠々人の日本写真紀行

白坂駅~白坂・皮籠/旧奥州街道29

13sirakawa01s  JR白坂駅

新白河駅発7:00の東北本線で、前日中断した白坂駅まで戻った。
到着したのは朝の7:05であった。

今日も気持ち良い天気であった。旧奥州街道歩きの再開である



13sirakawa03

金売吉次兄弟の墓

木立の中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、
右が吉六の「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられている。
石塔は白河石で作られてた宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、
製作年代は不明であるが、製作技法の特徴から室町時代頃の
建立と推定されている。
なお、石塔の石囲いは、元治元年(1864年)となっている。

承安4年(1174年)、吉次兄弟が砂金を交易して、
奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害された。
里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。
なお、この墓は白河市重要文化財(史蹟)に指定されている。

後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、
近くの八幡宮に合祀したと伝えられている。



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八幡神社(吉次八幡)

吉次の墓の前の細い道を真っ直ぐ東に進むと、
すぐ旧奥州街道(旧陸羽街道、国道294号)と交差する。
この角に八幡神社がある。義経が吉次兄弟を合祀したと伝えられている。
その為、吉次八幡とも呼ばれている様だ。

旧奥州街道は、この八幡神社の角を左折する。
この辺は皮籠地区で、吉次が襲われ、皮籠の中の金などを
奪われたことから、皮籠と呼ばれるようになったらしい。

皮籠地区を抜け、旧街道を次の宿場・白河に向かう。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道29「JR白坂駅~白坂・皮籠」/街道写真紀行
(福島県白河市白坂皮籠) 0905/0909

2009/09/03

JR新宿駅/甲州道中20

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新宿駅東口方面

甲州街道(現国道20号線)の陸橋の上から、新宿東口方面を見た写真である。

新宿駅周辺は、日本最大の繁華街、歓楽街となっており、
昼夜問わず人の流れが絶えることが無い。

新宿駅の一日の乗降客は、1日平均346万人と世界一(ギネス認定)多い駅で、
西武新宿駅まで含めると、364万人となっている。
横浜市の人口が345万人であるから、毎日横浜全市民に相当する人が
乗降していると思うと凄まじい数字である



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甲州道中、新宿駅南口

新宿駅南口は、現甲州街道(国道20号線)に面している。
今回は、ここで街道歩き中断して、帰宅する。

この道を真っ直ぐ西に向かうと、甲州道中2番目の宿場・高井戸となる。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中20「明治通り~新宿駅南口」/街道写真紀行
(東京都新宿区新宿3丁目) 0906/0909

新宿追分/甲州道中19

06sinjuku17s  内藤新宿、大宗寺・地蔵菩薩座像

新宿2丁目に入ると、右手に大宗寺(だいそうじ)がある。
内藤新宿では、数少ない江戸時代の遺構のあるところだ。
丁度此の辺が宿場の中心仲町で、門前町も出来ていたという。

大宗寺は、慶長年間初頭(1596年頃)に僧太宗の開いた草庵を
前身とした寺で、信州高遠藩主内藤家の菩提寺であった。
境内左奥に、今も内藤正勝の墓(内藤家墓所)が残されている。

写真は、境内右手にある銅造地蔵菩薩坐像で、
江戸時代前期に、江戸の出入り口6ヶ所に造られた江戸六地蔵の
ひとつである。



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追分だんご

街道沿いに、今でも追分だんごの看板を立てた店があった。
大田道潅が江戸城を構築中の頃、鷹狩りの帰途、
通りかかった道潅に地元の名族がだんごを献上した。

道潅はその味に心打たれ、ここを通るたびに、
このだんごを所望するようになった。
道潅亡き後、道潅を偲び、道潅だんごと名付けられたが、
いつか追分だんごと呼ばれるようになった由。



06sinjuku20

新宿追分/新宿3丁目交差点

新宿追分で現在の新宿3丁目交差点である。
正面のデパート伊勢丹の前の通りが青梅街道で、
手前左の道が奥州道中(現明治通り)である。
この追分までが、甲州街道最初の宿場・内藤新宿であった。

交差点に面して、そのものずばりの追分交番があるのには驚いた。
四谷警察署の管轄で、丁度青梅街道と甲州道中(現明治通り)の
交差点にある。

ここで甲州道中は、左折して明治通りを進み、
現甲州街道(国道20号線)に合流する。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中19「大宗寺~新宿追分」/街道写真紀行
(東京都新宿区新宿2、3丁目) 0906/0909

2009/09/02

新宿駅東口/東京

61034

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61036

新宿駅東口である
東口といえばコマ劇場のある歌舞伎町界隈が
何かと話題を提供して賑やかである

かつての内藤新宿は甲州街道の第1番目の宿場で
青梅街道との分岐点でもあった

品川、板橋、千住とともに
江戸四宿の一つとして賑わっていたところである

3枚目の写真は、東口を出て直ぐの所にある
紀伊国屋ビルである
この紀伊国屋書店は学生の頃より
よく通ったところである

専門書が豊富に取り揃えてあるので
今も定期的に顔を出しては、珍しい本を購入している

東口は何時来ても人の多い町である




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:東京「新宿区」/紀行写真集
(東京都新宿区新宿3丁目)
0610/0909

新宿御苑~内藤新宿/甲州道中18

06sinjuku11s  新宿御苑・大木戸門

環境省管轄の国民公園、新宿御苑の入口・大木戸門である。
新宿御苑の敷地は、家康が江戸城に入城した際に、
岡崎からの譜代であった内藤清成に授けた下屋敷の一部である。

東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、
甲州道中、青梅街道、鎌倉街道が交差する要地であったため、
信頼できる家臣に与えたようだ。
  


06sinjuku12

新宿御苑、玉藻池(旧内藤家庭園)

玉藻池を中心とするこの日本庭園は、安永元年(1772年)に
玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園「玉川園」の一部であった。

なお、内藤清成は江戸町奉行や秀忠の守役を務めた、
所謂岡崎譜代の一人である。



06sinjuku14s  内藤新宿、現新宿1丁目

甲州道中の内藤新宿、現在の新宿1丁目に復帰する。
この街道に沿って、宿場があったところであるが、その面影は全く無い。

「内藤新宿 馬糞のなかに 菖蒲(あやめ)咲くとは しほらしや」と
当時の俗謡にある。
如何にも宿場の雰囲気を伝えている。
菖蒲は、内藤新宿に大勢いた飯盛り女を例えたものだ。

死んだ飯盛り女の投げ込み寺であった成覚寺には供養碑が残されている。



詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中18「新宿御苑~内藤新宿」/街道写真紀行

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