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2009年8月

2009/08/31

円通寺坂~内藤新宿/甲州道中17

06sinjuku05s  四谷・円通寺坂

四谷見附を抜けると千代田区から新宿区と変わる。

四谷2丁目と3丁目の境界の坂道が円通寺坂で、坂の途中右側に
円通寺がある。

この坂道の先は、寺が集中して寺町となっているところだ。
手元の地図でも20以上あり、四谷18ヶ町の鎮守である須賀神社や、
於岩(おいわ)稲荷のあるところだ。

於岩稲荷は、東海道四谷怪談で御馴染みのお岩さんでは無く
実在の武家(田宮家)の娘於岩のことだ。
家計の苦しい家を支える為に商家に働きに出て、田宮家を再興させたという。
その於岩が熱心に信仰していた社が評判になり、
何時の頃か於岩稲荷と呼ばれるようになったようだ。

歌舞伎の四谷怪談の方は、作者の鶴屋南北がこの知名度の高い
於岩の名前を借用した様だ。


06sinjuku06

四谷4丁目交差点、四谷大木戸

四谷4丁目の交差点である。左側の道は、現在の国道20号線(甲州街道)で、右側のビルとビルの間の道が甲州道中(新宿通り)である。
この少し先に四谷大木戸があり、江戸の出口であった。

左の木立は、新宿御苑で、江戸時代の信州高遠藩内藤家の
下屋敷があったところである。



06sinjuku10s  新宿1丁目交差点、内藤新宿入口

新宿一丁目の交差点で、此処が甲州道中最初の宿場・内藤新宿であった。
内藤家の甲州道中沿いの一部が用地として割かれ、
宿場が造られた為に、内藤新宿と呼ばれるようになった。

この写真の左手先が元内藤家のあった新宿御苑である。
説明によると、元禄11年(1698年)、浅草阿部川町の
名主・高松喜兵衛らの願により、ここから新宿3丁目交差点付近までの
約1kmに新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。

この宿場は享保3年(1718年)に風紀紊乱の廉(かど)で一度廃止されたが、
54年後の明和9年(1772年)に再び再興されている。

以降、甲州・青梅両街道が交差する交通の要衝として、
また文化と娯楽の町として繁栄を続け、現在に到っている。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中17「四谷・円通寺坂~内藤新宿」/街道写真紀行
(東京都新宿四谷、新宿) 0906/0908

2009/08/30

四谷見附/甲州道中16

06sinjuku01

四ッ谷駅前、四谷見附

四谷駅前の交差点が目の前に見えてきた。
外濠のあったところで、四谷見附橋を渡ると
千代田区から新宿区に入るところだ。

現在は、この四谷見附橋の下は濠では無く、中央本線が走っている。

写真の右端の建物がJR中央線の四ッ谷駅である。
かつての四谷見附のあった処だ。

四谷見附は、外麹町口、四谷口門、山手御門とも呼ばれており、
江戸城の西の防御の為の城門であった。

寛永13年(1636年)、長門藩主毛利秀就によって城門石垣が作られ、
寛永16年(1639年)に門が造られた。
その構造は、現在の四谷見附橋に高麗門を置き、
右折する位置に渡櫓を配置した枡形門であった。



06sinjuku03s  四谷見附石垣

四ッ谷駅の右(北)側に石垣の一部が残されている。
この背後左側は外濠のあった処で、現在はJR中央本線が走っている。
 


06sinjuku07s  外濠公園

江戸城総構えの外周をなす外濠の土手は立ち入り禁止であったが、
昭和2年に土手公園として開放された。

現在は範囲をさらに拡大して外濠公園となっている。
桜の名所となっている快適な公園であった。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中16「四谷見附~外濠公園]/街道写真紀行
(東京都千代田区麹町) 0906/0908

映画「ハリー・ポッターと謎のプリンス」

横浜ムービル
平成21年8月


タイトル キャスト コメント
ハリー・ポッターと謎のプリンス

 
2008年 米
 
 監督
  
デヴィッド・
    イェーン

  
ハリー・ポッター
    ダニエル・ラドクリフ

ロン・ウィーズリー
    
ルバート・グリント
    

ハーマイオニー
    エマ・ワタソン

ダンブルドア校長
     マイケル・ガンボン

         

  シリーズ第6作。ハリー・ポッターと仲間達が、邪悪なヴォルデモート卿との最終決戦に向け、彼の弱点や過去を探っていく。
  1,2作を見て、後は敬遠していたが、やはり敬遠すべきであった。余りにも冗長な展開であった。個々のシーンでは目を引くものがあっただけに惜しまれる。
  救いは成長した主人公達の活躍であろうか。


詳細リンク:映画

2009/08/29

千鳥ヶ淵公園~麹町/甲州道中15

05kohkyo25s  千鳥ヶ淵公園、自由の群像

半蔵門の北側の半蔵濠沿いには、桜で知られた千鳥ヶ淵公園がある。
大正8年に開園した公園である。

写真は園内にある自由の群像である。
日本の新聞事業先覚者20名を顕彰し、昭和30年に建立したとある。
男性3体は「自由、自尊、進取」を現していると言う。
作者は、広島平和記念公園の「原爆の子の像」と同じく菊地一男氏である。



05kohkyo27s 半蔵門交差点、FM東京

千鳥ヶ淵公園を出て、街道(現新宿通り、国道20号線)に復帰する。
半蔵門交差点の左角にはFM東京とワコールがあった。

FM東京の前身は、日本初の民法FM局であった東海大学の
実験局「FM東海」である。開設は昭和35年であった。

学生時代、FM専用の大きなアンテナを買い、
屋上に自分で設置した思い出がある。
当時は音質が素晴らしく、夢のような放送であった



05kohkyo28

麹町1丁目/新宿通り

半蔵門の交差点から街道は西に直角に方向を変え、麹町に入る。
現在は新宿通り(国道20号線)と呼ばれている道である。

江戸時代の麹町は、この新宿通りの両側の町屋を主体に、
半蔵門から四谷見附、宿場・内藤新宿まで、甲州道中沿いに帯状の
街道街が続いていた。
町名の麹町は、旧名の国府路(こうじ)の変え字である。

この街道沿いの町屋の多くは、町店(まちだな)となっており、
背後にある旗本屋敷の人が得意先であった。
注文取りによる商いであったので、店前売りの商店街とは
趣が違った店が多かったという。

しかし、今はビル街となり、昔の面影は全く無い。
また、この街道に沿って町屋の背後に繫がっていた旗本屋敷は、
高級住宅になり、今はマンション街となっている。




詳細は下記リンクをご覧下さい。
詳細リンク:甲州道中15「千鳥ヶ淵公園~麹町」/街道写真紀行
(東京都千代田区麹町) 0906/0908

2009/08/28

半蔵門/甲州道中14

05kohkyo22

半蔵門前より桜田濠

三宅坂を登り切ると半蔵門前である。
写真は、桜田門(警視庁)方面を振り返って撮影したものだ。

江戸時代の半蔵門は、江戸城搦手(裏門)の重要な城門であった。
半蔵門の名は、服部半蔵正成が与力30騎と
伊賀同心(伊賀忍者)200人を配下に、
家康より、この門の内側に屋敷を与えられ、警備にあたったことによる。



05kohkyo21s  05kohkyo23s

半蔵門前の深い濠、半蔵門正面

半蔵門前の濠は警護の為、深く掘り下げられていた。
また、この門前から甲州道中の四谷見附までは旗本の屋敷を配置し、
本城の背後を固めると共に、いざと言う時には、
八王子、甲府(天領)への避難道でもあった。

なお、現在の半蔵門は、皇居吹上御苑への出入り口となっており、
近づくことは出来ない。

これで、江戸城の略内濠に沿って、和田倉門から広い江戸城の南側を
半周したことになる。
甲州道中は、この半蔵門前で左折して、四谷見附を経て、
最初の宿場である内藤新宿に向かっている。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中14「三宅坂~半蔵門」/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田) 0906/0908

2009/08/27

国会前庭/甲州道中13

05kohkyo15s  国会議事堂

桜田門を出て、桜田濠沿いの内掘り通りを半蔵門の方に向かう。
快適な歩道で、ジョギングや散歩している人の多い所である。
この左側は霞ヶ関、そして永田町で官庁街となっているところだ。
桜田門の正面には警視庁があり、少し進むと左側に国会議事堂が見えてくる。

外装に花崗岩を張った国会議事堂は昭和11年に完成した。
大正8年に行われた新議事堂設計の懸賞公募で一位になった渡辺福三氏の
作品を元に、大蔵省管財局が本設計したものである。

この議事堂の北にある国会図書館には、
仕事で何度も来た事があり懐かしかった。



05kohkyo16

国会前庭、日本水準原点

国会議事堂の前の坂道の両側に広大な国会前庭がある。
坂道を挟んで左(南)側が日本庭園で、
街道側の右側が西洋庭園となっている。

日本庭園は元霞ヶ関離宮のあったところで、
江戸時代は摂州三田藩九鬼家の上屋敷のあったところだ。
昔から霞関と呼ばれた景勝地であった。
しかし、昭和40年に住居表示区画整理で永田町に編入されてしまった。

西洋庭園は元陸軍参謀本部、陸軍省のあったところである。
江戸時代初期は加藤清正の屋敷があった。
加藤家改易の後は、江州彦根藩井伊家の上屋敷であった。
井伊直弼はここから登城の途中、桜田門前で襲われてしまった。

写真はその西洋庭園の一角にある、日本水準原点である。
全国の土地の標高を決める基準になるもので、昭和24年に設置された。
ここの標高が24.4140mである。




05kohkyo17s  国会前庭、時計塔

西洋庭園の一番高い所に大きな時計塔が出来ている。
三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。
昭和35年、尾崎記念館(現憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、
塔の前面にある噴水池、花壇と共に造られたものだ。

時計塔の高さは、諺「百尺竿頭一歩を進む」の、努力の上にさらに努力して
向上するとの意から百尺(30.3m)より高くした31.5mに設定されたという。

時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えて、
スイスから贈られたものであったが、現在は国産品となっている。
なお、尾崎行雄は、第1次帝国議会から63年にわたり衆議院に議席を持ち、
憲政の擁護と発展に尽力し、95歳で亡くなった政党政治家である。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中13「内掘通り~国会前庭」/街道写真紀行
(東京都千代田区永田町) 0906/0908

2009/08/26

皇居・二重橋/甲州道中12

05kohkyo09

皇居・二重橋、伏見櫓

皇居外苑の西側はかつて江戸城西の丸で、今は皇居となっている。

写真中央の伏見櫓は江戸時代からのものだ。
西の丸の南西隅に設けられた二重櫓で、その両側に多聞も残されている。
多聞は石垣上に築いた長屋造り建物で城壁の役目の他、

武器等の収蔵庫に用いられた。

江戸城には19の櫓があったが、
現存するのはこの伏見櫓と富士見櫓、巽櫓の3基だけである。

二重橋は、今は正面に至る正面石橋(めがね橋)と
その奥に見える正面鉄橋をあわせて二重橋と云っているが、
江戸時代に二重橋と呼ばれていたのは現在の鉄橋の方であった。

濠が深いため、木橋の橋桁を二重にしており、
2層の橋に見えたことから名付けられたと言う。

多くの観光客が訪れていて、写真を撮っていると、
記念撮影依頼が何度もあり、這這の体でこの場を退散した。



05kohkyo12

正面鉄橋、旧二重橋

正面鉄橋で、現在は鉄橋であるが、
江戸時代は西の丸下乗橋と呼ばれ、木製の二重橋であった。

現在の鉄橋は、昭和39年の新宮殿の造営に際し、
掛け直されたものである。

なお、写真の濠は二重橋濠と呼ばれている。



詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中12「皇居・二重橋~桜田濠」/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田) 0906/0908

桜田門~皇居外苑/甲州道中11

05kohkyo02

桜田門、二の門(櫓門)

桜田門の二の門である。石垣の上に渡り櫓を設けた重厚な門となっている。
日本一の規模とのことだ。

家康の関東入封時は、小田原口(門)と呼ばれていた。
寛永13年の西の丸造成に伴い、現在の枡形門となった。
そして、古代から此の辺は桜田郷と呼ばれていたことから、
三の丸の桜田門(現桔梗門)に対し、外桜田門と名付けられた。

現在の門は寛文3年(1663年)に再建されたもので
現在では、自由に出入りできる旧江戸城門の一つとなっている。
国の重要文化財に指定されている。



05kohkyo04

皇居外苑(西の丸下)

皇居外苑は、正しくは国民公園皇居外苑と云い、
昭和24年に一般に開放され、
昭和38年に文化財保護法による特別史跡に指定されている。

江戸時代は西の丸下と呼ばれ、江戸城の巽(たつみ、南東)を
防備する郭として、日比谷入江を埋め立てられ築造されたところだ。
出入り口は、東の丸の内方面は和田倉門、馬場先門があり、
南の日比谷側は外桜田門(現桜田門)であった。

明治維新後は、この西の丸下に新政府の施設が設けられ、
祝田町、宝田町、元千代田町の町名が付けれていた。



詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中11「桜田門~皇居外苑」/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田) 0906/0908

2009/08/24

日比谷見附~日比谷公園/甲州道中10

04hibiya11

日比谷濠

馬場先門から先は日比谷濠となっている。街道はこの左側である。
そして、日比谷濠の南端(写真前方)で、街道は濠に沿って直角に右に曲がっている。
その角に日比谷見附(日比谷御門)があった。



04hibiya12s  日比谷見附

この石垣は江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部である。
当時は枡形門となっており、石垣に囲まれたところに番所があった。



04hibiya14

日比谷公園(上屋敷後)

日比谷見附の背後は日比谷公園となっている。

日比谷公園は、明治36年に開園されたドイツ式庭園で、
かつての長州藩毛利家と佐賀藩鍋島家等の上屋敷があった処である。
屋敷は明治初年の火災で焼失して、その後は陸軍の練兵所となっていた。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:奥州道中10「日比谷見附~日比谷公園」/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田、日比谷公園) 0906/0908

行幸通り~馬場先門/甲州道中9

04hibiya06s  04hibiya07s

行幸通り

皇居と東京駅を結ぶ行幸通りで一般人は通行できない。
写真前方は皇居外苑、皇居前広場である。
反対側が東京駅の正面となっている。

明治時代の宮城外苑整備、大正の帝都復興事業で新設された道路で、
幅員は74mである。
皇室の公式行事の馬車列などに使用されている。

又、新任の外国大使の時には儀装馬車によって、東京駅貴賓室から
宮殿南車寄せまでの約1.8kmの間を希望により送迎している。
車より馬車を希望する大使が多いとのこと。
世界的に見ても、送迎に馬車を使用している国は
イギリス、スペインなど数ヶ国と少ないようだ。



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馬場先濠

馬場先濠の傍を通る快適な歩道が出来ている。
この濠は行幸通りと馬場先門橋の間にある濠である。

馬場先門は、寛永6年(1629年)に造られた。
門名の由来は、この門の内側の馬場で、朝鮮使節の曲馬を上覧したことから
朝鮮馬場の名が生まれ、その先の門で「馬場先門」となったようだ。





詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中9「行幸通り~馬場先門」/街道写真紀行
(東京都千代田区丸の内) 0908/0908

2009/08/23

映画「HACHI/約束の犬」

平成21年
横浜ム-ビル

タイトル キャスト コメント
HACHI
約束の犬

 
Hachiko:
 A Dog's Story
 
2008年 米
 
 監督
  
ラッセ・
   ハルストレム

  

パーカー教授
    リチャード・ギア

妻ケイト
    
ジョーン・アレン
    

アンディ
    サラ・ローマー

ケン
     ケイリー=ヒロユキ・タガワ                        
        


  アメリカ郊外の小駅。寒い冬の夜、迷い犬を保護したパーカー教授は、妻の反対を押し切って犬を飼うことなる。ハチと名付けた子犬は教授に懐き、駅まで送迎を行うようになる。
  しかし、教授が急死。事情を知らないハチは、その後も帰らぬ主人を駅頭で待っていた・・・
  と、御馴染みの物語。渋谷駅で主人の帰りを待っていた忠犬ハチ公物語をアメリカに移した映画であるが、違和感無く、感動的に描かれている。
  犬が可愛らしく、リチャード・ギアとの演技も素晴らしかった。

詳細リンク:映画/悠々人の日本写真紀行

日比谷通り~和田倉門橋/甲州道中8

04hibiya01

日比谷通り

甲州道中に復帰する。
和田倉濠に沿った道は拡幅され日比谷通り(国道1号線)となっているが、
旧甲州街道であった道だ。
道の左側は丸の内である。

此の辺にはかつて目安箱で知られた幕府評定所や伝奏屋敷が
あった処である。
幕府の最高裁判所であった評定所は、大名・旗本に関わる事件や、
3奉行(町、勘定、寺社)の権限を越える事件を扱っていた。

伝奏屋敷は、幕府と朝廷の間を斡旋する公家の伝奏衆が、
勅使・院使として江戸下向した際に使用する宿泊所であった。

甲州道中はここから江戸城の濠沿いを半周して、
半蔵門前から西に真っ直ぐ進み、次の宿場・内藤新宿に向かっている。



04hibiya02

和田倉門橋

江戸城守衛と為に築かれた内郭門の一つ、和田倉門である。
門は枡形形式であった。
手前は和田倉濠である。

ここに和田蔵と言う大きな御蔵が2棟あったので和田倉門と
呼ぶようになったようだ。
又家康がこの地に入ったとき、此処に和田倉と言う村落が
あったという説もある。

和田倉門には鉄砲10挺、弓5張、長柄10筋、持筒2挺、持弓1組が
常備されていた。
警備は譜代大名2~3万石のものが担当していた。



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和田倉噴水公園

和田倉門橋を渡り、門の中に入ってみた。
中は広い公園となって公開されている。

昭和36年、皇太子殿下明仁親王(現天皇陛下)の
御成婚を記念して造られた公園である。
また、現皇太子殿下の御成婚記念で、平成7年にこの噴水公園が
整備されている。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中8「日比谷通り~和田倉門橋」/街道写真紀行
(東京都千代田区) 0908/0908

2009/08/19

江戸城・二の丸庭園/甲州道中7

03edojo15s  梅林坂

本丸から二の丸に向かう坂道を梅林坂と呼んでいる。
文明10年(1478年)、太田道潅が天神社を祀り、数百株の梅を
植えたので梅林坂と名が付いたという。

現在でも、約50本の紅白の梅が植えられている。



03edojo16s  平川門

梅林坂を下ったところに、平川門(江戸時代は平河門)がある。
寛永12年(1635年)に枡形門と番所が築造されたが、
関東震災で被害に合い、再建されたものである。

この門は三の丸の正門で、大奥の女性達の通用門で、
御三卿(ごさんぎょう)の登城口でもあった。
また、城中の死者や罪人をこの門から出したので不浄門とも呼ばれた



03edojo21

二の丸庭園

二の丸庭園は小堀遠州(1579-1647年)の作庭による
池泉庭園であったが、後に家光が本丸御殿に準じた規模の御殿と
庭園に作り直させ、世継竹千代(4代将軍家綱)の居所とした。

その後二の丸御殿は、前将軍の側室が晩年を過ごす場所となった。
慶応3年(1867年)、江戸城開城の直前に全焼し、
以後そのままになっていた。

二の丸庭園を往時を偲びながらゆっくり散策した後、
再度百人番所前より大手門に戻る。
大分寄り道したが、旧甲州道中に復帰である。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中7「江戸城・梅林坂~二の丸庭園」/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田) 0908/0908

2009/08/17

江戸城・天守台/甲州道中6

03edojo10

天守台

本丸跡の北側には天守台がある。かつての天守閣跡である。
ここは本丸最奥部であり、本丸台地の最高部(標高25m)で、
慶長11年(1606年)に天守台が造られ、翌年に五層の天守閣が完成した。

しかし、明暦3年(1657年)の大火でこの天守閣も消失してしまった。
その後は再建されていない。



03edojo12

天守台より本丸跡

天守台より本丸跡を臨んだものだ。
芝生の部分が本丸跡で、手前が大奥、そして中奥、一番遠くが
本丸表であった。



03edojo14s  本丸・北桔橋門

天守台の北側にある北桔橋(はねばし)門である。
本来は、枡形門形式であったが、現在は一の門の高麗門だけが
復元されている。

ここは本丸の搦手(城の後ろ側)にあたり、 
北ノ丸のある田安台地とをつなぐ橋で、有事には橋を跳ね上げて
敵を遮断できる構造になっていた。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中6「江戸城天守台~北桔橋門」/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田)  0908/0908

八月歌舞伎「石川五右衛門」/新橋演舞場

平成21年8月
新橋演舞場

演 目 役 者 観 劇 記
樹林 伸作
藤間勘十朗振付・演出
石川五右衛門
 
(いしかわごうえもん)

          
石川五右衛門
     海老蔵

茶々
     七之助

豊臣秀吉
      團十郎

前田利家
      市 蔵

百地三太夫
      猿 弥

  天下に轟く大泥棒、釜茹でで壮絶な最期を遂げた謎の多い五右衛門を新たな視点、解釈で挑んだ新作歌舞伎。
  こそ泥から始まり、修行、そして天下の大盗賊となり、天下を治める秀吉に戦いを挑むまでを痛快に描いている。と言うより荒唐無稽に描いている娯楽大作であった。
  金の鯱を絡めた荒事(あらごと)や茶々との和事(わごと)、秀吉と五右衛門の実事(じつごと)、そして舞踊を絡め、最期は葛篭を背負っての宙吊りと盛りだくさんの舞台であった。

歌舞伎目次
(平成21年度)

2009/08/15

江戸城・本丸跡/甲州道中5

03edojo05

江戸城・本丸跡

緩い坂を上ると、平坦な広い本丸跡がある。全面が芝生で覆われていた。
本丸は本丸表と中奥、大奥に分かれていて、手前が本丸表で
右奥が中奥、大奥であった。

本丸表は儀式、政務の場であり、また諸大名の詰めの間などがあった。
中奥、大奥は将軍の居宅であり、将軍世嗣や大御所は西の丸であった。
なお、今の皇居は西の丸にあり、かつての本丸や二ノ丸、三ノ丸跡は
皇居東御苑として一部が公開されている。

なお、江戸城は、12世紀初頭に江戸氏が、
15世紀には太田資長(太田道潅)が築城している。
その場所がここの本丸台地と呼ばれるところであった。
16世紀末、家康の入封に伴い大規模な修築が行われ、
家光時代にほぼ完成された。

写真の中央に植えてある樹木は、今は余り見られなくなった古品種の
果樹(柑橘類や梨等)で、天皇陛下、皇后陛下お手植えの果樹もある由。
その時に詠まれた御製(天皇陛下の歌)
「皇居東御苑 江戸の人 味ひしならむ 果物の 苗木植ゑけり 江戸城跡に」
が添えられてあった。



03edojo06s 富士見櫓

江戸城で唯一の三重櫓であった。
明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても
使われた櫓であった。
かつて、江戸城には19の櫓があったが、
現在残されているのはこの富士見櫓を含め3つしかない。

この富士見櫓の先が、西の丸(現皇居)であった。
今は当然、この先は公開されていない。  



03edojo07s  松の大廊下跡

本丸跡の松の大廊下跡である。
江戸城では2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものであった。

ここが、あの忠臣蔵で御馴染みの松の廊下である。
元禄14年(1701年)、浅野内匠頭長矩が吉良上野介への
刃傷事件を起こした所だ。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:奥州道中5「江戸城・本丸跡」/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田) 0908/0908

騎西城跡/埼玉

090801

騎西城、歴史資料館

加須市から騎西町に向かう県道38号右側に騎西城址がある
築城年月は不明であるが、当時この辺り一面は沼地で自然の要害となっていた。
記録に最初に登場するのは、深谷上杉氏が守るこの城を、古河公方足利利成が
康生元年(1455年)に攻略した時である。

天正2年(1574年)には、上杉謙信が、小田助三郎が守るこの城を攻め、
城を焼き払っている。

家康が関東入封により、譜代の家臣松平康重が2万石で騎西城に入る。
関ヶ原の戦いの後、康重は常陸笠間に移動し、その後慶長7年(1602年)に、
大久保忠隣の子、忠常が入封している。
そして、寛永9年(1632年)、大久保家が美濃加納へ転封後は
廃城となり、代官所が置かれていた。



(埼玉県騎西町根古屋) 0908/0908

2009/08/13

江戸城・百人番所~中之門/甲州道中4

03edojo01

百人番所

本丸と二の丸へ通じる要所である三之門の前に設けられた百人番所である。
若年寄支配の鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の
4組が昼夜交代でここに詰めていた。
また、各組には同心が100人ずつ配属されていた。



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中之門


03edojo03s  大番所

本丸に通じる中之門を通ると、すぐ側に大番所があった。
他の番所より位の高い与力、同心によって警備されていた。
なお、中之門は枡形門形式では無く、多門塀の中間を切って
櫓を渡した櫓門だけであった




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中4「江戸城・百人番所~中之門」/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田) 0908/0908

2009/08/12

江戸城・大手門/甲州道中3

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江戸城・大手門

 江戸城の大手門である。
大名や役人が本丸に登城、下城する際の正門で枡形門形式となっている。
元和6年(1620年)、外様大名の伊達政宗等の外様大名の
御手伝普請で築造されたものであった。
明暦の大火(1657年)で消失し再建されたが、太平洋戦争の戦火で
再び消失し、現在のものは昭和42年に復元されたものである。

 現在は、この門の中の、本丸、二のノ丸、三の丸跡が整備され、
皇居東御苑として公開されている。左の堀は桔梗濠である。




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同心番所

 大手門を潜り少し進んだところに、江戸時代の同心番所が残されている。
ここには同心が詰めていて、
主に登城する大名の供の者の監視に当たっていた。
番所は、警備の詰所のことで、この同心番所の他に、
百人番所、大番所が残されており、城の奥の番所ほど
位の上の役人が詰めていた。

 大手門より本丸へ向かう道の両側に大きな石で作られた
見事な三之門の石垣が残されていた(右写真)。
この先に百人番所があるところである。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:奥州道中3「江戸城・大手門]/街道写真紀行
(東京都千代田区千代田) 0908/0908

2009/08/11

筑波山/茨城

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筑波山、頂上付近

筑波山は、小さい時からいつも仰ぎ見ていた山だ
筑波エクスプレスが開通したので久しぶりに訪れてみた

標高876mの山であるが、関東平野から良く目立つ山である
万葉集をはじめ古くから多くの詩歌にも歌われいる山である

一茶の「春立つや見古したれど筑波山」は
地元で育った我々の気持ちを代弁しているようだ

写真は女体山(東峰、876m)の頂上付近のものだ
山道や巨木が、いかにも御神体山らしい雰囲気を漂わせている



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筑波山神社拝殿

御神体は筑波山の男女二峰(男体山、女体山)である
したがって、ここは拝殿(弘仁14年、823年)だけである
山岳信仰に由来する古い神体山神社の特徴を持っている




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:茨城「筑波山」、「つくばエクスプレス」/関東写真紀行
(茨城県つくば市筑波) 0509/0908

2009/08/10

呉服橋~丸の内/甲州道中2

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永代通り、呉服橋

日本橋交差点を左折すると永代通りに入る。
嘗ては、ここ外堀に呉服橋が掛かっていた。
甲州道中は呉服橋を渡り北町奉行所の前を通り、
和田倉橋へ真っ直ぐな道があったが、今は東京駅となっており
道は消滅している。

仕方ないので東京駅の地下道を抜けて進むことになる。
呉服橋の右手にあったのが、一石橋(いっこくばし)である。



02ohtemon03s  一石橋迷子しらせ石標

江戸時代はこの辺から日本橋に掛けては盛り場で迷子が多かったようだ。
迷子が出た場合、町内が責任を持って保護することになっていたので、
付近の有力者が世話人となり、一石橋の袂に、安政4年(1857年)、
この石標を作った。

柱の正面に「満(ま)よい子の志るべ」、右側に「志らする方」、
左側に「たづねる方」と彫られてあり、迷子や尋ね人の特徴を
書いた紙を貼り、それを見た人が知っている場合は
返事を書いた紙をここに貼ったという。


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丸の内

地下道を抜けると丸の内である。
出口に丸の内鉄道橋記念塔があった。
日本橋川に架かっていた鉄道橋(東京駅と神田駅間)の橋柱である。

そして、東京都が建てた、石造の案内標識があった。
丸の内今昔散歩と彫られてあり、上面には付近の地図が描かれていた。
それによると、この辺に幕府の評定所と伝奏屋敷があったようだ。
残念ながら、今はその面影は全く無いが。
  
なお、丸の内とは外堀の内側の御曲輪内(おくるわうち)から来ている。
親藩や譜代大名の屋敷が24あったという。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中2「呉服橋~丸の内」/街道写真紀行
(東京都千代田区丸の内) 0906/0908

江戸・日本橋/甲州道中1

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日本国道路元標の広場

日本橋のここ日本国道路元標広場に来たのは、これで4度目である。
最初は東海道五十三次を下る時、そして中山道六十九次、
日光道中(奥州街道)の時、ここから出発した。

今回は江戸時代の五街道の最後の一つである甲州道中踏破の第一歩である。
甲州道中はここから、甲府を経て中山道の下諏訪宿までの
全長55里(約220km)の起伏の多い街道である。
ただ、他の四街道に比べると、道筋の整備は良くなかった様だ。
参勤交代で利用する大名も信濃の高島藩、高遠藩、飯田藩の
わずか3藩のみであった。



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日本橋

日本橋は、隅田川と江戸城(現皇居)の外壕とを結ぶ日本橋川に架かる橋で、
橋の中央には、全国への道路元標がある。

最初の橋は、慶長8年(1603年)、徳川家康により架設され、
日本の中心の橋として「日本橋」と呼ばれるようになった。
当時の橋は長さ43間(78.2m)であった。
現在の橋は明治44年(1911年)に架設されたもので、
花崗岩で出来た欧風アーチ型の重厚な橋となっている。



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銀座通り(旧東海道)

日本橋を渡り直進すると、すぐこの日本橋交差点となる。
このまま真っ直ぐの道は旧東海道(銀座通り)である。
甲州道中はここで、右折し永代通りに入る。




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:甲州道中1「日本橋」/街道写真紀行
(東京都中央区日本橋) 0906/0908

2009/08/06

陸奥・白坂宿~JR新白河駅/旧奥州街道26

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26白坂宿入口

境の明神峠を越え、峠道を下って行くと、左側に馬頭観音等の石仏群があった
やがて、陸奥国最初の宿場で、奥州街道26番目の宿場・白坂宿が見えてきた。
白坂宿は幕府管轄である奥州道中の最後の宿場でもあった。



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白坂宿中心部

白坂宿の中心部(現泉岡)である。右の家の表札は「かめや」となっている。
かつての旅籠「かめや」である。
この家の街道を挟んで反対側に白坂宿の本陣、問屋を務めた白坂周右衛門の
家があったというが、今はその面影は無かった。

  天正18年(1590年)、秀吉が伊達政宗に小田原から会津への街道の
整備をさせた時に、芦野宿と白河宿の間が長すぎるので、
ここ白坂(泉岡)を宿駅としたのが始まりである。
天正18年は、秀吉が小田原を攻略した年であった。

  江戸時代も宿場として整備され、文化年間(1804~1818年)には
家屋数は66軒であった。



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白坂峠道

白坂宿を抜けると峠道となる。林間の実に快適な道であった。
途中右手に古い馬頭観世音と新しい牛頭観世音があった。
馬の保護神が馬頭観世音なら、牛の保護神だから牛頭観世音が
あっても良いだろうと作られたようだ



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白坂・皮籠

皮籠(かわご)の集落が見えてきた(上写真)。集落の手前が皮籠の交差点だ。
この交差点の右がNHKテレビのドラマ「天地人」で知られた幻の白河決戦の地である。

  交差点の側に、「革籠原(かわごはら)の防塁跡」と書かれた、
未だ新しい看板があった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦の前、会津討伐で北上してきた家康との
決戦の地として、上杉軍が陣を築いたところだ。

  大規模な防塁で、その一部が今も残っているという。
しかし、家康軍は石田三成挙兵との知らせを受け、小山でUターンして
関ヶ原の戦となり、此処での戦は幻の決戦の地となった。

  今回は、此処で旧街道歩き中断して、この交差点を左折しJR白坂駅に向かう。



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JR白坂駅

JR白坂駅である。白坂駅は東北本線の駅で、大正6年に開業している。
現在は無人駅となっている。ここから、東京支社から仙台支社の管轄となっている。

  今回は、ここで東北本線に乗り、新白河駅に向かった



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JR新白河駅

白坂から一駅で、新白河駅に着く。新幹線の停車駅である。


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新白河駅前、芭蕉立像

駅前には芭蕉立像があった。

  「心もとなき日数重なるまゝに 白河の関にかゝりて旅心定りぬ
   ~芭蕉 奥の細道」と台座に刻まれてあった。

  旧奥州街道徒歩の旅も、下野から陸奥に入り、いよいよ本番と言う感じである。
目的地は奥州街道終点の津軽三厩だ。まだまだ遙か彼方である・・・・



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那須連峰

ホテル部屋より見た、夕焼けの那須連山である。明日の天気も良さそうである。
明日は中断した白坂に戻り、白河宿、白河城、根田宿、小田川宿から
太田川宿までを歩く予定である。

では、今夜はこれにて、Good Night!




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道26「陸奥白坂宿~泉岡交差点」、27「白坂峠~皮籠
       28「JR白坂駅~新白河駅」/街道写真紀行
(福島県白河市白坂)  0905/0908

2009/08/03

那須町・大久保~陸奥国・境の明神峠/旧奥州街道25

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那須町・大久保集落

泉田の一里塚を出ると、左側に大久保の集落が見えてきた
手前の川は、芦野宿から続いている奈良川の上流である



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瓢石(ふくべいし)

旧街道左側の山沿いに石碑3柱

左端は大分風化して判り難いが、道祖紳の様だ
中央は「瓢石 勝五郎旧跡、初花清水従是二丁」とあり、右端が瓢箪の形をした石像だ

人形浄瑠璃
「箱根権現躄(いざり)仇討」の
主人公棚倉藩士、飯沼勝五郎が兄を滝口上野に殺され、
同じく上野を父の仇としていた初花と夫婦となった

仇を探している内に、足を病んだ勝五郎は、この地で療養した
その時に、慰みに山肌に刻んだのが瓢石(ふくべいし)とのこと
この背後の山肌に刻んだというが、判らなかった



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陸奥国国境、境の明神

目の前にかつての下野国と陸奥国の国境が見えてきた
現在では栃木県と福島県の県境である

境界の右の切通しの所に、松平定信が建てた領界石があった
「従是白川領」と刻まれている

また、「うつくしま、ふくしま、ようこそ福島県白河市」
と書かれた現在の大きな標識もあった

写真手前左は下野国(栃木県)側の境の明神である



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陸奥国側境の明神

国境を越えると、左側に陸奥国(福島県)側の境の明神がある
国境を挟んで、下野側と陸奥側に境の明神が2社並立している

由緒は不明で、文禄4年(1595年)に
当時白河を支配していた会津藩主の蒲生氏が
社殿を造営している

現存するのは、弘化元年(1844年)に建てられた小祠である
奥州、越後の諸大名や多くの商人、旅人の往来が盛んで
道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり
灯籠や碑の寄進が盛んに行われていた様だ

また、芭蕉の句碑や歌碑等も多く建立されている



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陸奥国側より見た境の明神峠

旧街道を挟んで、境の明神と反対側である
後ろを振り返って下野方面を撮影したものである

この辺に、かつては峠の茶屋「南部屋」があった
先祖は南部藩の家老であったが
金山経営に纏わる不祥事の責任を取って此処に来たと言う

切り通しの壁には大きな標識が掛かっており
「白河二所之関跡の碑」と書かれてあった

蛇足であるが、芭蕉もこの峠を越え、陸奥の国への第一歩を踏んでいる
そして、次の宿場である白坂宿から旗宿道を東に約4km程歩き
わざわざ歌枕となっている古代の白河の関跡を尋ねている

しかし7世紀半ばに設けられた白河関は
芭蕉が元禄2年(1689年)訪れた時は、廃止されて久しく、
その痕跡も判らない状態であった様だ

従って、折角訪れた芭蕉は拍子抜けしたせいか、句を残していない




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道25「那須町・大久保~陸奥国・境の明神」/街道写真紀行
(栃木県那須町大久保~福島県白河市白坂) 0905/0908

2009/08/02

映画「アマルフィ/女神の報酬」

横浜ムービル1
平成21年7月


タイトル キャスト コメント
アマルフィ/
 女神の報酬
 

 
2009年 日

 
 監督
  西谷 弘

  
外交官黒田康作
    浅野 忠信

矢上紗江子
    天海 祐希
    

藤井昌樹
    佐藤 浩市

外務省研修生安達
     戸田 恵梨香

        

  クリスマス目前のローマ。矢上紗江子は亡夫との思い出の場所を、目の手術前の娘に見せておこうと歩くうちに、娘が誘拐されてしまう。
  日本の外務大臣の警護で来ていた外交官黒田は、ひょんなきっかけから誘拐された娘の父親に成り、犯人との交渉にあたることになる。外務大臣を迎える準備に追われる日本大使館の内幕や現地警察の動きを絡め、実に面白く纏めてある。
 オールイタリアロケで展開される映像が特に見応えがあった。題名になったアマルフィ海岸が綺麗に撮影されていた。

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