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2009年7月

2009/07/29

那須町・脇沢~間宿・寄居/旧奥州街道24

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那須町・脇沢

前方に脇沢の集落が見えてきた

この脇沢の集落を抜けると
旧街道は現在の国道294号線(旧陸羽街道)に合流する



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間宿・寄居入口

旧街道は国道294号線(旧陸羽街道)から左の細い道となる


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間宿・寄居

寄居は間宿(あいのしゅく)であるが、下野最後の休憩所として
結構発展していたようだ

かつては、ここで下野国最後の休憩を取り
境の明神峠を越え、次の陸奥国最初の宿場白坂に向かった

しかし、現在の寄居には休憩するような店や、コンビニすら無かった
現在の旧街道歩きでは、街道筋に沢山あった店や茶屋等が
全く無く、江戸時代とは又別の気苦労がある



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旗宿道

寄居の集落を抜けると、再び国道294号線(旧陸羽街道)に合流する

写真左端にある木製の道標には、「右白河関」と書いてある
ここを右折すると、かつての旗宿(はたじゅく)道で、白河関へ行く街道である



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泉田一里塚

国道に合流して少し行くと左側に立派に整備された
日本橋より46番目の泉田の一里塚がある

那須町には夫婦石、板屋とここ泉田に一里塚が残されており
その中で、ここが最北端で下野国最後の一里塚であった

塚の上は、今は丸坊主であるが、かつては榎が植えられていた




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道24「那須町脇沢~間宿・寄居」/街道写真紀行
(栃木県那須町脇沢、寄居) 0905/0907

2009/07/27

海フェスタよこはま/横浜港

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横浜港

横浜港で、7/18から7/26にかけて「海フェスタよこはま」が開かれている
先週の日本丸、海王丸の総帆展帆に続き、今週も行ってみた

期間中、海上自衛隊の砕氷船「しらせ」やイージス艦(護衛艦)「きりしま」
そして、気象庁の「凌風丸」、海上保安庁「いず」、「拓洋」、航海訓練船
「青雲丸」、「銀河丸」、海洋研究開発機構「淡青丸」等々・・・が寄港し
一般公開されていた



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砕氷船「しらせ」

平成20年に進水したばかりの新しい砕氷船で、二代目「しらせ」である
日本では唯一の砕氷船で長さ138m、幅28m、12,500t、

乗組員179人、観測隊員等80人となっている



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イージス艦「きりしま」

大桟橋に「しらせ」と並んで、海上自衛隊のイージス艦「きりしま」が公開された
現在6隻のイージス艦があるが、その一つである
水上レーダー、ミサイル誘導レーダー、SPYレーダ等、レーダードームが
目立つ最新式の護衛艦である


なお、イージスとは、ギリシャ神話に登場する全能の神ゼウスが
平和の女神であり、戦士である娘のアテナに贈った楯のことである
全能の楯にあやかり、米海軍が開発した新しいミサイル防御システムで
建造は三菱重工長崎造船所で、平成7年3月に就役している

全長161m、幅21m、基準排水量7,250t、乗員は290人とのこと
行列に並び、「しらせ」、「きりしま」の内部を始めて見学した



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砕氷船「しらせ」

山下公園より撮影したものものである


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氷川丸

横浜港のシンボルとなっている氷川丸も、リニュアルされ
昨年(2008年)より、再び公開されている

全長156m、幅21.1m、11,622t、乗客は331人であった



(神奈川県横浜市中区) 0907/0907

2009/07/26

那須町・峯岸~間宿・板屋/旧奥州街道23

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那須町・峯岸集落

芦野宿を出ると、広々とした田園地帯に出る
その一画に大きな石碑がある

「蘇る豊郷」と大きく書かれた碑だ
芦野地区圃場整備事業完成記念碑である

芭蕉か遊行柳を見ながら詠んだ句
「田一枚 植て立去ル 柳かな」の時は、一枚一枚の田は今より小さかった

碑文によると、昭和に入り従来の人馬に頼る農法から
機械化農法に移るために大規模の区画整理が行われた様だ

この辺は嘗ては黒羽藩の領地で、肥沃で良質な米の産地であった
しかし、奈良川の水不足等で時には悩まされる地域でもあったようだ
この水利も改良したと刻まれていた

写真前方は峯岸の集落だ




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べこ石の碑

街道左手に愛宕神社とべこ石の碑がある
嘉永元年(1848年)、芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠怒(ただひろ)が
撰文建立したものだ
戸村家は黒羽町須佐木の出身で、元禄年間(1688~1704年)に
芦野に移住し、酒造も行っていた様だ
元は佐竹氏の一族で、秋田移封の時、帰農し須佐木に定住した由

碑には、全文19段、約3500の文字が刻まれている
内容は、孝行の大切さと善行の勧め、堕胎の戒めと生命の尊重等を
実例や例え話を用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく説いている

嘉永元年の頃の世相を窺い知る事が出来る貴重な内容となっており
那須町の文化財に指定されている

なお、べこ石の碑とは、べこ(牛)に似た石(臥牛)では無く
自然石の両面を平に削り、文字と共に
神農(しんのう)氏と思われる牛面人身の姿が
刻まれているから、べこ石と呼ばれるようになった様だ(写真右端)

神農氏とは、民に始めて耕作することを教えた
中国の古伝説上の帝王のことだ
神農の母の女登は、人身にして牛面であったという



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間宿・板屋

奈良川を渡ると、間の宿であった板屋に入る
板屋の坂と呼ばれる、坂道沿いに開けた集落である



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諭農の碑

板屋の坂を上っていくと、街道左側に諭農(ゆのう)の碑がある
前述の「べこ石の碑」と同じく、嘉永元年に建立されたもので
戸村忠怒の農民を諭す文が彫られてある

内容は病害虫の駆除法や飢饉のための備忘法、飢人の救護法までだ

べこ石の碑や、この諭農の碑を作ったのは
中風を患っていた戸村忠怒の晩年の時であった

多くの死者を出した天保の飢饉や
大塩平八朗の乱、蛮社の獄、天保の改革
そして日本近海に通商を求める外国船が頻繁に現れ
異国船打払令が出された頃である

幕藩体制に綻びが出来、まさに内憂外患の時代背景に、
将来を憂い、碑を建てずにはいられなかったのであろう




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板屋の一里塚

板屋の集落を抜けると、街道の両側に一里塚が残されている
日本橋から44番目(約176km)の板屋の一里塚だ

現在は、切り通しになっている為、一里塚は街道より見上げる高さにある

写真は、後ろを振り返って撮ったものだ
一里塚跡は一寸判り難いが、切り通しの上にある



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蟹沢の集落

板屋の一里塚を抜けると、蟹沢の集落に入る
切通しとなっている街道の右上には新旧の馬頭観世音が4柱並んでいる

此の辺は、峠の上り口や頂上付近に馬頭観世音が多く見られる

今回は、ここで奥州街道を歩いている甲府の年配のご夫婦と出会った
若い時は横浜の小机に住んでいたという

東海道、中山道、日光道中をすでに踏破し
今は、ここ奥州道中を順番に歩いている由
今回は芦野宿から歩き始め、今夜は白河に泊まるという

今回で奥州道中を完了して、次は幕府管轄の五街道の最後である
甲州街道を歩く予定とのことであった

街道歩きで同好の氏と逢い、情報交換するのは楽しいひと時である



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高瀬の集落

蟹沢の集落を抜けると、気持ちよい街道筋となる
この辺を西行法師や芭蕉も歩いたと思うと感無量である

やがて前方に高瀬の集落が見えてきた

高瀬の集落の外れ、街道右手に高徳寺がある
資料には荒んだ古寺とあったが、本堂が真新しかった
立て直したばかりのようだ

ここで、小休憩した後に、次の間宿・寄居に向かう





詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道23「芦野町・峯岸~間宿・板屋」/街道写真紀行
(栃木県那須町峰岸、板屋、蟹沢、高瀬) 0905/0907

2009/07/22

日本丸、海王丸総帆展帆/横浜大桟橋

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大桟橋埠頭

大桟橋埠頭に、日本を代表する帆船の
日本丸(手前)と海王丸が並んで係留された
開港150周年記念、海フェスタ/よこはまのイベントの一つで、
海の日に因んで、2艘同時に総帆展帆(そうはんてんぱん)が行われた



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総帆展帆開始

13:00、準備体操の後、号令一下、総帆展帆が一斉に開始された



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総帆展帆完了


展帆を開始してから、約1時間で完了した
見事な全容である



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大桟橋屋上フロア(くじらの背)

凄い人出で、撮影には苦労した
この写真は大桟橋の屋上より撮影したものである



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ぞうの鼻より

大桟橋を離れ、象の鼻埠頭より撮影したものだ
右が独立行政法人航海訓練所、日本丸で全長110m、
全幅13.8m、2570t、乗船定員は190人である

左は同じく航海訓練所、海王丸で全長110m、2556tである



(横浜市中区) 0907/0907

2009/07/20

芦野宿/旧奥州街道22

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那須町、奈良川

奈良川を渡り、左に直角に曲がると
奥州街道25番目の宿場・芦野宿である

長かった下野国の最北端の宿場で
この次は陸奥国の最初の宿場・白坂宿となる

芦野宿はこの奈良川に沿って並行して設けられている
また、此処からの奥州街道は、この奈良川沿いに遡上して
下野と陸奥の国境である境の明神峠まで続いている



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河原町地蔵尊、座り地蔵

川を渡ると左に大きな石地蔵尊がある
宿場の入口にあるお地蔵様だ

蓮華の上に腰掛、左足を前に出していることから
座り地蔵と呼ばれている

江戸時代に作られたもので、宿場の入口で、川の畔にあることから
水害水難除け、また道祖神的な役割も託したものと見られている

赤い腹掛には、「奉納 豊泉琉依」と書かれてあった
なお、芦野宿は出口のところにも大きな地蔵尊が建立されている



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25芦野宿

枡形を抜けると、芦野宿の中心街となる
中世の芦野氏の城下町で江戸時代は旗本芦野氏の知行地であった

芦野宿は下野最北の宿場で、本陣1、脇本陣1、旅籠40余の
比較的大きな宿場であった
江戸時代から大正10年代までは、この道の中央には用水堀が走り
流れに沿って松や柳等の木が植えられていた様だ

左の伊豆屋菓子店は聖天まんじゅうと茶まんじゅうが名物である
芦野宿の右側の高台に日本三聖天(しょうてん)の一つ三光寺があり
その聖天に因んだ饅頭である



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丁子屋、旧旅籠

芦野宿で、唯一残されている元旅籠である丁字屋(ちょうじや、写真右)
江戸次時代初期の創業で、今の当主は15代目とのこと

当時より鰻が名物で、今でも営業している
地元の余笹川や奈良川、黒川で獲れた鰻を用いていたが
今は、他所より仕入れているとのこと

奥には、江戸時代の蔵屋敷も健在である
江戸初期の創業で、今の当主は15代目とのことであった

左の建物は旧宝屋で、今は屋号を多可羅屋となっている



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石の美術館、本陣跡

地元の芦野石を用いた石の美術館、ストーン・プラザである
総芦野石作りの建築となっている

ここに、芦野宿・本陣があったという



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新町地蔵尊

芦野宿の出口付近で、この先で街道は直角に左に曲がっている

その角にあるのが、新町の地蔵尊だ
芦野宿には入口と出口に大きな石造地蔵尊がある

説明によると享保2年(1717年)の建立とのこと
開眼の導師は建中寺の住職であった

芦野宿の入口にあった河原町の座り地蔵と同じく
種々の災厄を芦野宿に入れない役目も担っていたようだ



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奈良川

奈良川を渡ると、旧街道は右に曲がる

左手の建物が、無料休憩所の遊行庵で2軒建っている
この裏手に、西行法師が休んだと言う遊行柳がある

ここで法師が詠んだ
「道野辺に 清水ながるゝ 柳陰 しばしとてこそ 立ち止まりつれ」
(新古今和歌集)の歌碑と、
芭蕉の「田一枚 植て立去ル 柳かな」の句碑が建っている

なお、遊行柳は室町時代に遊行上人がここで柳の精の老翁を
成仏させたという伝説があり、歌枕となったところである

下野国最後の宿場である芦野宿を後にして
国境を越え、次の宿場は陸奥国の白坂となる




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道22「25芦野宿~奈良川」/街道写真紀行
(栃木県那須町芦野) 0905/0907

2009/07/14

赤穂御崎/兵庫

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赤穂御崎、赤穂海浜公園

JR赤穂線の播州赤穂駅で下車して、駅前よりバスに乗り
赤穂御崎で下車する。

赤穂御崎は赤穂市南東部の播磨灘に面する半島で
瀬戸内海国立公園の一部となっている。
写真は御崎より赤穂海浜公園方面を撮ったものだ。
元の東浜塩田跡である。園内には、塩の国科学館があり塩田や
製塩作業所等が保存されている。



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伊和都比売神社

御崎先端にある延喜式内社である伊和都比売神社がある。
御崎明神とも称され赤穂民族の祖神である。

なお、古くから若い男女による姫神信仰が盛んで、縁結び、
あるいは恋人を得るご利益のある「姫守」を受ける人が多く、
御崎の景色と共に今でも人気スポットとなっている様だ。



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小豆島

御崎の先端から小豆島の全景が見える。
小豆島は淡路島に次ぐ瀬戸内海第2位の島で、西は備讃瀬戸、
そして手前東側は播磨灘に面している。
古くは、「あずきしま」と呼ばれていたが室町時代辺りから
音読みの出「しょうどしま」となったようだ。
島の最高峰は星ヶ城山(ほしがじょうさん、817m)である。

幕末から発達した醤油や戦後の佃煮が特産となっている。
また、明治41年に移植されてからは、オリーブが島のシンボルとなっている。

小豆島と言えば壷井栄の「二十四の瞳」が忘れられない。高峰秀子主演の映画も良かった。
 

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家島諸島

御崎より南東の方向には家島(いえしま、えじま)諸島が見える。
東西27km、南北19kmもわたって大小40余の島が散在している
典型的な沈水地形で、家島湾などの溺れ谷は水深も大きく
自然の良港となっている。

また、男鹿山や西島等では砕石場が多い。
写真左端には岩肌が見える島が写っている。位置からして男鹿島であろう。

家島の名は、神武天皇が東征の時、暴風雨の難を避けようとして
入港した時に「波静かにして家の内にいる如し」と述べられたことによる由。



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大石名残の松

この下の船着場は、元禄14年(1701年)6月半ば、
赤穂開城を終えた大石内蔵助が、妻子を大坂表に送り出したところだ。
その後、内蔵助は6月25日に後を追って山科に向かったという。

その時の御崎の巌頭に立つ老松を見返りつつ名残を
惜しんだと伝えられ、「名残の松」と呼ばれるようになった様だ




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:兵庫「赤穂御崎」/日本写真紀行
(兵庫県赤穂市御崎) 0802/0907

2009/07/12

国立西洋美術館/上野

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国立西洋美術館

㈱川崎造船所(現川崎重工㈱)の初代社長の松方幸次郎氏が収集した
松方コレクションを核に1959年に西洋美術館が開設して
今年で丁度50年目とのこと

開館50周年記念事業の一環として、西洋美術館の設計者
「ル・コルビュジェと国立西洋美術館」と題した特設展示が行われていた

私が始めて訪れたのは、オープンしたばかりの高校の時であった
あれから、企画展などで、何度か来たことがあるが
今回は昔を思い出しながら常設展示の作品をゆっくりと鑑賞した



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考える人、カレーの市民/オーギュスト・ロダン作

松方コレクションの内の、オーギュスト・ロダンの有名な「考える人」と
「カレー市民」である

後者は6人の市民が裸足で、首に縄を巻いて市の鍵を手にして
市の門を出て行くシーンだ



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地獄の門前

今日はファン感謝デ-と言う事で、ロダンの「地獄の門」前でミニコンサートが
行われていた



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グリーン・サロン

見学の後、美術館に隣接するグリーンサロンで休憩した
未だ明るいが、連れとビールで疲れを癒した


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御徒町、アメ横

休日のせいか、凄い人込みであった
今回は
、ここで写真仲間5人が集まって、恒例の撮宴会が行われた




(東京都台東区)
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2009/07/09

那須町・夫婦石~西坂/旧奥州街道21

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那須町・夫婦石

黒川より坂道を登ると目の前が開けて来た
谷戸となっているところだ

この辺で標高は280mである

道の右端(写真中央)に、夫婦石神社の道標があった
江戸時代はこの辺一帯は夫婦石村と呼ばれていたところだ




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夫婦石神社

田圃の畦道を辿って夫婦石神社に行く

神社由来によると
「今から数百年前、戦国の世に1組の男女あり
敵に追われ、この地に逃げ来り
あたりは一面の芦の茂みにて身を隠す処無く
ふと見ると、其の中に大きな石があり
男は女を抱えて此の巨岩の割れ目に身を隠した

その時、追手は此の石のそばに来た
すると白蛇が2匹現れ巨大な石がゆれ動くのを見て
恐れおののき逃げ帰った」とのこと

二人は、このお石様のおかげで命を救われ
この地に住みつき、二人仲良く田畑を耕して暮らしたと言う

そして何時の頃からか、この石をご神体・夫婦石として祀り
縁結びの夫婦石神社となったとか




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夫婦石一里塚

さらに、森閑とした坂を上ると両側に一里塚が見えてきた

日本橋より43里(172km)目の一里塚である



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西坂

峠を上り詰めると、視界が開けてきた
西坂地区である

地形的に芦野宿の西側にある坂という意味の地区であろう
ここから、次の宿場である芦野宿までは長い下り坂となっている



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芦野宿、御殿山

正面に芦野宿が見えてきた
この交差点の先が奥州街道25番目の宿場・芦野である

正面の山は芦野城跡、今は御殿山と呼ばれている
芦野城は、天文年間(1532~55年)、若しくは天正18年(1590年)に
那須氏一族の芦野氏によって築かれた城と伝えられている

江戸時代は旗本芦野氏3000石の陣屋であった
芦野宿はこの山裾に沿って出来ている




詳細は下記をご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道20「那須町夫婦坂~西坂」/街道写真紀行
(栃木県那須町夫婦石、西坂) 0905/0907

2009/07/06

紫陽花と花菖蒲/横浜・四季の森

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四季の森公園

鬱陶しい梅雨の合間に訪れた
丁度、紫陽花と花菖蒲が見頃であった




詳細リンク:「みなと横浜(9)」/紀行写真集
(横浜市緑区) 0207/0907

映画「劒岳 点の記」

平成21年7月
横浜 ムービル1


タイトル キャスト コメント
劒岳/点の記
 

 
2008年 日

 
 監督
  木村 大作

  
陸軍参謀本部陸地測量部
柴崎芳太郎
    浅野 忠信

山案内人、宇治長次郎
    香川 照之
    

日本山岳会小鳥鳥水
    仲村 トオル

柴崎妻、葉津よ
     宮崎 あおい

        
  明治40年、日本地図完成のために未踏峰の立山連峰、劒岳への登頂に挑む陸軍測量手の柴崎ら7人の測量隊は山の案内人長次郎と頂上への上り口を探す・・
  初登頂を狙って日本山岳会のメンバーと、軍上部より初登頂を命じられた測量隊との交流を交え、ドラマとしても盛り上がりを見せているが、何よりも実写による山の景色が圧巻で感動的であった。
  それにしても、山の案内人を演じた香川が見事であった。


2009/07/05

那須塩原・石田坂~那須町・黒川/旧奥州街道20

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那須塩原・石田坂

余笹川の寺子橋を渡ると石田坂の集落となる

ここの電柱に、平成10年8月の増水時の水位が赤い線で表示されてあった
やや地形が高くなっているここで、此の高さであるから
左前方の家々は完全に水没であった



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芭蕉温泉、豊岡ランド

豊岡の集落の外れに「芭蕉温泉ランド入口」の大きな看板
ここを右折すると、豊岡芭蕉温泉ランドがある

温泉権付き別荘地で、全800区画と大型の別荘地となっている
また、温泉付き貸し別荘もあるようだ

なお、芭蕉温泉は国内では珍しいアルカリ単純泉で
肌がつるつるすることから美人の湯と呼ばれている



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那須町、那須塩原市境

豊岡から坂を上りきったところが、那須町と那須塩原市の境界となっている

山沿いにある大きな看板には
「ようこそ 芦野の里へ
歴史と奥の細道のまち

おくの細道 遊行柳
芦野城跡 御殿山
日本三大聖天 芦野聖天

那須町商工会芦野支部、那須町商工会」
と記されてあった

那須町は那須高原を占める町だ
昭和29年、芦野町と伊王野、那須の2村が合併して出来た町である

北西部に那須岳が聳え、大部分が山地となっている
南流する余笹川沿いに平地があり、米作と野菜と酪農の町となっている

なお、伊王野は古代の東山道の駅のあったところで
芦野は近世の奥州道中の宿場であった



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那須町・黒川集落

だらだら坂を下ると、前方に黒川の集落が見えてきた
那須町に入って最初の集落である

黒川の傍にある村で、かつては黒川端村と言われ
戸数が4戸の寺子村の枝村であった

この黒川端の中を奥州街道が通っており
旅人を山乗駕籠に乗せて川を渡す川越場があった
川が増水して川留めがあった時に泊まれる家もあったと言う

旧街道は、この先の黒川の土手で消滅している



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黒川

黒川の土手に出て、上流側に行き、黒川橋を渡る
写真は、黒川橋を渡り坂を登った途中より
黒川と黒川の集落を俯瞰したものだ

土手に階段のあるところが、旧街道の道筋で、昔の川越場のあったところだ
写真右手が現在の黒川橋である


黒川は那須岳(1915m)と赤面山(1701m)に源を発し
那須町沼の井で余笹川に合流している川だ

平成10年の洪水で、余笹川と共に、ここも大きな被害を受けたところである
現在は災害復旧工事が行われ、その後水害は起きていないとのことであった




詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:奥州街道20「那須塩原・石田坂~那須町黒川」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市、那須町) 0905/0907

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