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2009年6月

2009/06/29

富士見峠~間宿・寺子~余笹川/旧奥州街道19

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那須塩原・富士見峠

黒磯から25分で前回乗車したバス停「杉渡土(すぎわたど)」に到着する
前回中断した旧奥州街道に復帰である

ここから緩い坂道を登り、富士見峠(286m)越えである
次の宿場、芦野までは23坂7曲がりと呼ばれるしんどい道中となる



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寺子一里塚公園

富士見峠を下る途中の寺子十文字の右手前に
寺子一里塚公園が出来ている

元は50m程白河よりにあった、江戸より42番目の一里塚を
小学校建築と、道路拡張の為此処に移築した様だ

そして一里塚公園として整備され、まさに街道のオアシスとなっている



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間宿・寺子

寺子の集落である
旧奥州街道の間(あい)の宿であった

集落内にある會三寺(えさんじ)は、はしか地蔵で知られた所である

會三寺14代法印旺盛の頃、はしかが流行り幼児が沢山亡くなったので
これを憐れんだ法印が111体の地蔵を彫り、菩提を弔ったとのこと

境内にこの地蔵を納めた「はしか地蔵堂」がある



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余笹川・下流側

寺子の集落を出ると余笹(よささ)川に出る

平成10年8月の氾濫でこの左手にあった橋が流され、死者を伴う大きな被害が出たという
川の畔に、翌平成11年に天皇・皇后陛下が災害見舞いで
行幸行啓されたとの記念碑がある

この時の水害は大規模で、この余笹川や黒川、四ツ川、三蔵川が氾濫し
栃木県北部の那須町、那須塩原市で道路や通信が寸断され
死者・行方不明者は6名も出た

写真は、余笹川の下流側を見たもので
茨城県と福島県境にある八溝山(1022m)が見えた



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寺子旧街道、寺子地蔵

旧街道筋には石仏や地蔵尊が残されている

2枚目の写真は旧街道沿いにある寺子地蔵尊だ
お堂の横には新しい願い文が建てられている

「お地蔵さま 絶えない苦悩と切ない願いを聴いて下さい
悠々の余笹川の流れのままに生きぬく勇気を与えて下さい
良き縁を結んで下さい
可愛い子供を授けて下さい
そして幼な児と老いたる身を守って下さい
あなたにすべてを委縋して今日も臆することなく生きていきます
赤沼・石田坂・寺子講中」

と、記されてあった
委縋とは委ね、縋る(すがる)のことであろう



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余沢川上流

余笹川の上流側である
この辺がかつて渡河地であったようだ

遠く那須連山が見える景色の良い所である
源流は那須連山の旭日岳(1896m)で
那須町と大田原市の境で那珂川に合流している

天保年間(1830~44年)の余笹川は、川幅16間
増水時では倍近い30間もあったという
今は、穏やかな流れであるが、今も昔も相当の暴れ川であった様だ

なお、江戸時代には橋が掛けられたこともあったが
すぐ流されたので、徒歩や人の肩、輦台(れんだい)で渡ったとのこと

今回はここで旧道を戻り、新しい寺子橋を渡って対岸の石田坂集落に入る




上記は抜粋(ダイジェスト)です。詳細は下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:旧奥州街道19「富士見峠~間宿・寺子~余笹川」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市寺子) 0905/0906

2009/06/26

赤穂線/岡山・兵庫

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JR岡山駅

新幹線で岡山に来た
今回は、JR赤穂線沿線を順番に辿ってみようという趣向である

JR赤穂線は瀬戸内海の沿って、岡山県の東岡山と兵庫県の相生駅を結ぶ
全長57.4kmのJR西日本の路線であるが
実際の始発は此処岡山駅となっている

この後、長船(おさふね)、伊部(いんべ)、片上(かたかみ)、
伊里(いり)、天和(てんわ)、日生(ひなせ)、播州赤穂を経て
終点の相生(あいおい)に向かう


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長船駅前

岡山市より吉井川を渡ると瀬戸内市に入る
この川沿いにあるのが旧町の長船である

JR長船駅で下車してみる
岡山方面からの列車の半数がここ長船駅で折り返しとなっている

長船は、中世の名刀「備中長船」、「福岡一文字」の産地として
知られたところである
この長船と牛窓、邑久(おく)の3町が平成16年に合併して
新しく瀬戸内市となった

邑久というと、あの画家竹久夢二の生まれたところである
独特の美人画は一世を風靡したものだ

写真は長船駅前である
此処で昼食と取ろうとしたが店が無く、仕方なく近くのスーパーまで行き
弁当を買って駅の待合室で食べた

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播州赤穂駅

忠臣蔵で有名な赤穂城のある播州赤穂駅である
開業当時、長野県の飯田線に赤穂駅(あかほえき、現在は駒ヶ根駅))が
あったので、播磨国の別称である播州を冠したようだ

ここから歴代赤穂藩主の菩提寺・花岳寺や赤穂城址、大石神社等は
歩いていける距離である




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相生駅

赤穂線の終点である相生駅である
と言っても播州赤穂駅から総ての電車が、山陽本線の姫路・西明石方面と
直通運転されており、相生駅は一通過駅となっている

相生(あいおい)駅は明治23年に那波(なば)駅として開業し
昭和17年に相生駅に改称された古い駅である

那波は旧山陽道の宿場名であったが
昭和14年に風待ち港であった相生と合併し、相生町となり
昭和17年に相生市となっている。

今回は此処から山陽新幹線、東海道新幹線経由で帰宅した。



詳細は、下記リンクをご覧下さい
詳細リンク:岡山・兵庫「赤穂線」/日本写真紀行
(岡山県岡山市、兵庫県赤穂市、相生市) 0802/0906

2009/06/24

歌舞伎座さよなら公演「六月大歌舞伎」

歌舞伎座さよなら公演
六月大歌舞伎
平成21年6月

演 目 役 者 観 劇 記
正札附
 根元草摺

(しょうふだつき
 こんげんくさずり)

  長唄囃子連中

          
曽我五郎
     松 録

舞鶴
     魁 春


  御馴染み曽我五郎は、父の仇である工藤祐経の館へ向かおうとするが、それを止めたのが小林朝日奈の妹舞鶴であった。
  女ながらの大力無双の舞鶴は、五郎の持つ鎧の草摺り持って、強引に引き止める。
  引き合い事を取り入れた長唄の名作舞踊。

双蝶々
 曲輪日記
(ふたつちょうちょう
 くるわにっき)

 角力場

  1幕

          
濡髪長五郎
     幸四郎

放駒長吉
     吉右衛門

山崎屋与五郎
     染五郎

藤屋吾妻
     芝 雀

  関取の濡髪(ぬれがみ)長五郎と、素人角力の放駒(はなれごま)長吉との大一番で盛り上がる角力小屋前。濡髪贔屓の山崎屋与五郎は恋仲の芸者吾妻と逢引中だが勝負の行方が気になったしょうがない。
  勝負は放駒があっけなく勝ってしまう。そして、放駒は自分の贔屓に頼まれ断り切れずに、芸者吾妻の身請けを手伝うことになるが、濡髪に訳を説明され説得されてしまう。
  濡髪と放駒の達引が見所であるが、与五郎役の染五郎がなかなか見せてくれた。

武智鉄二構成・演出

蝶の道行
(ちょうのみちゆき)

  竹本連中

          
助国
     梅 玉

小槙
     福 助


  この世で結ばれることが出来なかった二人が、蝶の姿になって戯れ遊ぶが、地獄の責めに逢い、その羽ばたきを止めるのでした・・・
  と義太夫舞踊であるが、真っ暗らの舞台で、スポットを浴びた2匹の蝶々が綺麗に光って舞う様は圧巻であった。

近松門左衛門作

女殺油地獄
(おんなごろしあぶらじごく)
 
  3幕

          
河内屋与兵衛
     仁左衛門

豊嶋屋お吉
     孝太郎

豊嶋屋七左衛門
     梅 玉

芸者小菊
     秀太郎


  河内屋の放蕩息子与兵衛は馴染みの芸者小菊の客に喧嘩を売ろうとしていると、その場に居合わせた油屋の豊嶋屋のお吉に意見されてしまう。しかし、言う事を聞くはずも無く、やがて侍に無礼を働き、切られそうになる。
  その場をやっと逃れた与兵衛だが、さらに悪事を重ね、ついには金策に困り、お吉に頼っていく。しかし断られると・・・・
  最後の油が蒔かれた家での殺戮場面は、まさに油地獄であった。仁左衛門と孝太郎の、油まみれの熱演は強烈であった。

平成21年歌舞伎

歌舞伎座

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歌舞伎座・正面

歌舞伎座正面入口にカウントダウンの表示板が出来た
あと、312日でこの歌舞伎座も解体、建て替えとなる
今、歌舞伎座さよなら公演を行っている

今回は六月大歌舞伎を観劇した
切符が上手い具合に、1階の前から5列目の席が取れたので、迫力満点であった

演目は「正札附根元草摺」、「双蝶々曲輪日記」、「蝶の道行」、「女殺油地獄」
であった



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開演前の客席である
このざわざわした雰囲気が、なかなか良い

写真は、2階座席より撮影したものだ
今回も、座席は満員であった




(東京都中央区銀座) 0906/0906

2009/06/21

那須塩原・那珂川~24越堀宿/旧奥州街道18

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那珂川・昭明橋

鍋掛宿の枡形を抜けると、那珂川河畔である

かつては徒歩渡しであったが、今は立派な橋・昭明橋が出来ている
昭和の新しい時代を明るくと願いを込めてのネーミングとか

橋の袂に、大きな昭明橋架橋記念碑があり
昭和46年竣工と刻まれてあった

この橋を渡り、左折すると旧奥州街道24番目の宿場・越掘(こえぼり)宿である
天領の鍋掛から黒羽藩の領地と変わる

橋を渡り右折すると、かつては関街道と呼ばれた道で
伊王野経由、古代の白河関に通じる道である
現在の県道60号線(黒磯棚倉線)だ

なお伊王野は古代東山道の黒川駅があったところと比定されている




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那珂川上流側

那珂川に架かる昭明橋より上流を見た写真である
那須連山が見えるところだ

那珂川は関東第3の大河で、関東随一の清流として知られている
特に鮭の遡上する河川として知られ、獲れた鮭は
江戸時代には水戸藩への献上品であった
また、秋には鮎が遡上し、鮎の友釣りが盛んである

那珂川の源流は那須岳で、茨城県の水戸を通り
ひたちなか市と大洗町との境で太平洋に注いでいる川である



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24越堀宿町並み

越堀宿の町並みである

寛永12年(1635年)、江戸に向かう仙台藩の行列が那珂川の増水の為
ここで、仮小屋を作り逗留したのが始まりで、後の宿場成立に繫がった

鍋掛宿より遅い正保3年(1646年)に正式の宿場となった
本陣1、脇本陣1、旅籠11、総戸数113軒の宿場であった

しかし、明治になって大火があり、宿場の面影は残されていない

街道左側の小食堂を営んでいる藤田家が
問屋を兼ねた元本陣とのことであったが判らなかった



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黒羽領境界石

浄泉寺境内のお堂の前に、黒羽領境界石がある(写真左)

黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにする為
文化10~11年(1813~14年)に境界石を造り、建てたものだ

丁度、増業が大坂城勤務の時であったので、大坂で作らせ船で運んだ由

この標柱には「従此川中東黒羽領」と刻まれてあり
背面には「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」とある

もともとは那珂川の左岸、越堀宿の入口にあったが
大正7~8年に保存の為、ここ浄泉寺の境内に移されたとのこと
那須塩原市の指定文化財となっている

大木の右側は明治天皇御駐輦の碑である



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越堀宿出口枡形の地

越堀公民館前にある石碑
「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」と彫られてあった
越堀自治公民館建設記念として、この石碑が建てられたようだ

下写真が越堀宿の出口付近である
この先、道は右に大きくカーブしている

今回は、この先のバス停「杉渡土」で、街道歩きを中断して
15:54発のバスで黒磯駅に向かった(30分、200円)

那須塩原地域バス「ゆーバス鍋掛線」で
一日4本(平日は7本)の貴重なバスである




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JR東北本線・黒磯駅

黒磯駅を境に北側は交流電化で
南側(宇都宮側)は直流電化区間となっている
このため、東北本線の運転系統がこの駅で分断されている

上野から続いている「宇都宮線」の愛称もこの駅までとなっている

黒磯発16:35の快速上野行で、帰宅した




詳細リンク:旧奥州街道18「那須塩原・那珂川~24越堀宿」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市鍋掛、越堀、本町) 0904/0906

映画「真夏のオリオン」

平成21年6月 横浜ムービル

タイトル キャスト コメント
真夏の
 オリオン


 
2009年 日
 
 監督
  篠原 哲雄

  
イー77潜水艦艦長
倉本孝行
    玉木 宏

イー81潜水艦艦長
有沢義彦
    堂珍 嘉邦
    

倉本いずみ
    有沢 志津子

米駆逐艦副長
ジョセフ・フリン
    ジョー・レヨーム

        

  第二次世界大戦末期、日本海軍はアメリカ海軍の燃料補給路を叩く為、最後の潜水艦を配備し、タンカー撃沈に向かう。
  日本の潜水艦と米国駆逐艦バーシバルとの駆け引き、頭脳的戦いをエピソードを上手く交え、ドラマティックに描いている。
  今時、何故太平洋戦争映画と思ったが、見事に期待を裏切られた秀作であった。池上司原作の「電撃深度十九・五」を、大胆な脚色でまとめ、映画として見応えのあるものとなっていた。



2009/06/20

戸塚・大坂~6藤沢宿/東海道五十三次徒歩の旅

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戸塚・大坂

旧東海道を歩いていて気が付いたのが
意外と庚申塚や馬頭観音、道祖神に
お目にかかれないことであった

信州の塩の道などでは、到る所にあった
おそらく、交通量が激しく、道路が拡張されて来た為か
街道沿いから、追いやられてしまったのだろうか

この庚申塚は、戸塚宿の上方見附跡の先
大坂の途中(大坂台)にあった

丁度旧東海道の坂を見下ろしているようであった



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藤沢・遊行寺

藤沢宿は、遊行寺(時宗の総本山)の門前町として鎌倉時代から栄えた町だ
江の島や鎌倉への拠点としても賑わっていた

境内にある大イチョウは見事である
樹齢700年、幹の太さは6.6mとのこと




詳細リンク:東海道五十三次13「戸塚・大坂~6藤沢宿」/街道写真紀行
(神奈川県横浜市戸塚、藤沢市) 0411/0504/0906更新

2009/06/18

那須塩原・23鍋掛宿/旧奥州街道17

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那須塩原・鍋掛十文字

旧奥州街道23番目の宿場、鍋掛宿の入口である

この交差点を鍋掛十文字と言う
この辺は十文字と言う例が多いようだ

旧奥州街道沿いにも練貫十文字、寺子十文字等がある



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清川地蔵尊

鍋掛十文字を渡り、左の坂の上に清川地蔵尊がある

延宝7(1679年)に建立されたもので
子育て地蔵として、近辺の女性に信仰されている

毎年4月24日の祭礼には地元の女性が集まり
清川地蔵だけに唱える念仏が行われる様だ



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鍋掛宿、町並み

往時の面影は無いが、歩道と車道の境が
ガードレールでは無く、馬つなぎ石の様な石が並んでいた

この辺の左側に、かつては本陣があったというが遺構は無かった
本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸であった様だ

鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり
川留めの時など、大いに賑わったという
那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインで、ここ鍋掛は天領であった


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賀茂神社

加茂神社境内左に芭蕉句碑があった

文化5年(1808)年に地元の俳人菊地某他数名によって建てられたもので
「野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす ばせを」
と刻まれていた

那須塩原の野間辺りで詠まれたものであろうか

昔の那須野の狩を思い起こし、武将になったつもりで
いばって命令してみようかという心境を詠んだ句の様だ



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鍋掛宿出口、枡形

鍋掛宿の出口付近の枡形である
旧街道は右側で、この先で枡形になっている

左側は那珂川に架かるアーチ型の昭明橋への道である

江戸時代初期、那珂川は徒歩渡りで
水が多いときだけ船渡しであった
江戸時代後期になると、舟橋や土橋となっていた様だ




詳細リンク:奥州街道17「23鍋掛宿」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市鍋掛) 0904/0906

2009/06/15

那須塩原・野間~鍋掛十文字/旧奥州街道16

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野間・旧奥州街道、那須連山

那須塩原市(旧黒磯)野間(のま)に入る
如何にも高原を歩いているような感じとなる

野間は、芭蕉が黒羽の余瀬から那須へ向かう途中
借りて乗ってきた馬を返したところの様だ

芭蕉に同行した曽良の日記に
「馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス」と記されている

そして、ここから那須の高久へ向かっている
暫くは、芭蕉の歩いた道を歩くことになる

奥の細道によれば、当時は野原の中を真っ直ぐな道が縦横に走っていたようだ
今でも、辺りは広々としており、実に爽やかな道であった

左手には姿の良い那須連山が良く見えるところであった
中央のピークが茶臼岳(1915m)である



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大野牧場

右手に大野牧場
この先には、競走馬の生産で知られたなべかけ牧場等がある

この辺は、古代の大野郷、大野室で、大野一族の支配地であった
その後、羽田領野間村となった経緯がある

大野牧場は、所縁の人の経営であろうか



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八溝山

右手に八溝山(やみぞさん、1022m)が見えた

八溝山は茨城県と福島県の県境にある山で
茨城県の最高峰である

奥州街道を歩いていて始めて見えた



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愛宕峠、鍋掛一里塚

愛宕峠の切り通しの中腹に鍋掛一里塚がある

江戸より41番目の一里塚である
一里塚は、道路拡張で少し移動(西へ11m)されたようだ

道の幅を広げた為、掘り下げられ
元の街道よりは低い道路となっている



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鍋掛十文字

鍋掛十文字である
ここが奥州街道23番目の宿場・鍋掛宿の入口となっている

この十文字(交差点)を左折すると、JR黒磯駅である
距離で、4.9kmである




詳細リンク:旧奥州街道16「那須塩原・野間~鍋掛十文字」/街道写真紀行
(栃木県那須塩原市、野間、鍋掛) 0904、0906

2009/06/14

新世界・通天閣/大阪

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久しぶりに大阪のミナミに行った

新幹線の新大阪駅から地下鉄の御堂筋線に乗り
天王寺の動物園前で下車した

写真は、御馴染みの新世界・通天閣である
相変わらずの賑わいであった

うどん屋、酒屋、かつどん、串かつ、たこ焼き、お好み焼き、
ふぐ、カニ、すし、居酒屋、旅館、そして衣料品店や
おもしろグッズ、カラオケ、スナック、パチンコ、スマートボール(懐かしい)、
楽器屋等が所狭しとごちゃごちゃと並んでいる

この辺一帯は、第5回の内国勧業博覧会が行われ跡地を
利用して造成された歓楽地「新世界」で、その象徴として
通天閣(高さ103m)が作られたところである




詳細リンク:「大阪・ミナミ」/紀行写真集
       大阪「新世界」、「ミナミ」、「天王寺」/日本写真紀行

(大阪市浪速区恵美須東) 0609/0906

映画「ハゲタカ」

平成21年6月 横浜ムービル


タイトル キャスト コメント
ハゲタカ

 
2009年 日

 
 監督
  大友 啓史

  
鷲津政彦
    大森 南朋

劉一華
    玉山 鉄二
    

三島由香
    栗山 千明

芝野健夫
    柴田 恭平

        

  投資家から募ったファンドで徹底した合理主義を貫き、企業を買い叩く「ハゲタカ」の異名を持つ鷲津は、閉鎖的な日本のマーケットに絶望して、海外生活を送っていた。そこへ、旧友の芝野が現れ、日本有数の自動車メーカーを巨大ファンドによる買収の危機から救って欲しいと依頼される。
  相手は、中国系ファンドでそのファンドマネージャー劉一華と壮絶なマネー戦争を展開して行く。
  現代日本の経済危機を背景に、実に良いテンポで話が展開し、思わず引き込まれていく面白い映画となっている。大森、玉山、そして柴田がそれぞれの役回りを格好良く決めていた。




2009/06/13

大田原・蛇尾橋~那須塩原市境/旧奥州街道15

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大田原・蛇尾橋

蛇尾(さび)川に架かる蛇尾橋を渡り、左折すると河原地区である
写真は振り返って撮った写真で、左が大田原城跡、右が大田原神社である

蛇尾橋を渡り右折すると黒羽道である(日光北街道、国道461号)
その途中に那須与一の里があり
那須与一が太刀を奉納したと言う那須神社がある街道だ

旧奥州街道は左折で、現在の県道72号線(大田原芦野線)となっている




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中田原一里塚

箒川支流の巻川を渡ると、街道左側に一里塚が残されている
大田原市指定史跡となっている



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荒屋敷・麻疹地蔵堂

街道左側に荒屋敷の麻疹地蔵堂があった
その横には多数の石仏が並べられてあった

馬頭観世音が多かった

地蔵堂の裏手からは、那須連山が間近に見えた



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永代常夜灯

練貫の集落の外れ左側に、永代常夜灯(写真左端)がある

正面に「永代常夜灯」、
側面に「右奥州海道、左原方那須湯道」と刻まれている
道標を兼ねて、宝暦6年(1756年)に建立されたものだ

十九夜塔の右に「旧奥州道中」と彫られた未だ新しい碑(右端)があつた



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明治天皇駐輦記念碑

街道は緩い上り坂である

右側に長者谷、そして左側に「明治天皇駐輦記念碑」が建っていた
(写真は振り返った撮影したので右側になっている)

まさに、那須の広大な裾野を歩いている感じであった



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那須塩原市境

大田原市とかつての黒磯市(現那須塩原市)の境である

那須塩原市は、平成17年に黒磯市と西那須野、塩原町が
合併して出来た新しい市名である

右折すると白鳥飛来地として知られた羽田沼である
今年は200羽以上の白鳥が飛来したというから凄い

ここから道は下ると、奥州街道23番目の宿場・鍋掛宿となる




詳細リンク:旧奥州街道15「大田原・蛇尾橋~那須塩原市境」/街道写真紀行
(栃木県大田原市河原、那須塩原市) 0904/0906

2009/06/10

敦賀駅前/福井

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敦賀駅

東海道新幹線の米原でJR北陸本線に乗換え、
特急しらさぎ号で約30分でJR敦賀駅に着く

敦賀駅は明治15年に開業している
敦賀は古くから栄えた町で、
今でも日本海側屈指の交通(鉄道、船、道路)の要衝となっている

古代から北陸地方の貢納物は敦賀に集められ、京都に運ばれたが、
中世になると港が中継交易で栄えるようになった

また、畿内から大陸との門戸でもあり、平安期には、しばしば渡来した
渤海使節を接待する国の施設・松原客館や宋の商人の宿泊する施設等も
設けられていたようだ

江戸時代の寛文4年(1664年)には入港船は2000艘を越え
敦賀の人口も15,000人を数えていた

敦賀は塩津街道、丹後街道の起点でもあった
又、明治になってからは日本と大陸を結ぶ国際港としても栄えた町である



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ツヌガアラシト像

駅前広場にある都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)像である
日本書紀に登場する意富加羅国の王子で、ここに漂着したという

崇神天皇に会おうとして、最初は穴門(あなと、長門)に着き
出雲経由で此処まで来たが、天皇は亡くなっていたので
次の垂仁天皇に3年仕え帰国した

帰国の際に崇神天皇の御間城(みまき)の名を国名にするように
命じられ、赤絹を与えられた
そして帰国後、国号を弥摩那(みまな)に代えたと記されている

地名の敦賀は、都怒我阿羅斯等の都怒我(ツヌガ)が
角鹿(ツヌガ)となり、敦賀(ツルガ)と転訛したようだ



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駅前商店街

駅前の商店街である。朝、早いせいか店のシャッターは閉まり、閑散としていた

アーケード街のところどころに松本零士の宇宙戦艦ヤマトと
銀河鉄道999のモニュメントがあるのには驚いた

此処だけでは無く、本町商店街から曙町にある越後国一宮の
気比神社まで、道の両側に宇宙戦艦ヤマトと銀河鉄道999の名場面より
ピックアップされたモニュメントが、全部で28基も設置されている

作者の松本零士は、敦賀とは縁が無いが、敦賀は古くからの港町で
また鉄道の町であったので、1999年の敦賀開港100年の記念として
敦賀の象徴に指定されたとのことであった



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佐渡酒造像

写真は宇宙戦艦ヤマトの佐渡酒造である
一升瓶片手に酩酊状態であるが、医師としての腕は
超一流とプレートに記載されてあった



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星野鉄朗とメーテル像

駅前広場にある銀河鉄道999のモニュメントである

今回は、この後、小浜線で美浜、小浜、舞鶴へと向かった
小浜線は、三方五湖や若狭湾沿いを走る
見晴らしの良い快適な路線であった




詳細リンク:福井「敦賀」/日本写真紀行
(福井県敦賀市) 0712/0906

2009/06/07

大田原城~蛇尾川/旧奥州街道14

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寺町、龍泉寺

街道は、左折し、直ぐ右折とクランク形になっている

その角に「旧奥州街道 大田原宿 寺町」と刻まれた新しい道標があった
判り難い旧街道沿いに、この道標は嬉しかった

正面に大田原神社の杜が見えてきた(上写真)

街道左手には龍頭不動明王の龍泉寺(下写真)
北関東三十六不動尊零場の第24番札所となっている

ここの「紙本著色大田原資清と一族の肖像画」が市の有形文化財に指定されている

この寺の裏手にある光真寺には、城主大田原氏歴代の墓所がある



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大田原城址

大田原神社の前を右にカーブしたところに大田原城址がある

大田原城は、永正11年(1514年)、大俵(たいひょう)氏12代の胤清が
出城を築いたのが始まりである

天文14年(1545年)、13代の資清(すけきよ)が本丸等を築き本城とした
その時、姓を大俵から大田原に改めたようだ
以後、大田原氏代々の居城となる

江戸時代には、大田原藩は外様大名として、1万2416石を領有し
14代270年にわたり在封し、明治まで続いている




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大田原城本丸跡

大田原城本丸跡に登ってみた

今は広い広場となっており、龍城公園として整備されている
本丸跡をぐるっと囲むように、今でも土塁が残されている

本丸の土塁の上より、南西側の大田原市街を見下ろした写真である

実に素晴らしい眺望で
遠く日光連山や、高原山、那須連山が見えた

土塁の上のベンチで休憩した
爽やかな風が、歩き疲れた身には心地よかった

車で来たと言う老夫婦と話が弾んだ
旧奥州街道を歩いていると言うと、驚いていた



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蛇尾橋/蛇尾川

大田原城跡を下り、蛇尾(さび)川に架かる蛇尾橋を渡る
この蛇尾は、さすがに読めなかった

蛇尾川は、那須塩原市の大佐飛山(1908m)を源流として流れる水無川で
上流部の扇状地那須野ヶ原では伏流水となっている

扇端である大田原郊外でその伏流水が湧出して
大田原市片府田で箒川に合流している

川名の由来は、その有様が蛇の尻尾の様であったからであろうか

江戸時代までは橋は無く、徒歩(かち)渡りであった
今は立派な橋が架かっている

この橋を渡り、奥州街道23番目の宿場・鍋掛に向かう




詳細リンク:旧奥州街道14「大田原城~蛇尾川」/街道写真紀行
(栃木県大田原市山の手、城山) 0904/0906

2009/06/05

大田原・百村川~22大田原宿/旧奥州街道13

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大田原・百村川

百村(ももむら)川に架かる筋違い橋を渡ると、次の宿場・大田原までは一本道だ
両側が開け、冬季は強風・那須颪に悩まされるところであった

かつては、ここから大田原宿まで約3kmに亘り
防風林として、立派な松並木が植えられていた

那須野原で一番美しい松並木と言われていたが
太平洋戦争の時、松根油を採るために、すべて伐採されてしまった

この松根油は、航空機用ガソリンとしての利用が試みられたが
結果として、間に合わなかった様だ
戦後、漁船の燃料に使われたとの記録が残されている




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薬師堂、石造七重塔

安永年間(1624~1644年)に創建されたが大火で消失し
現在のものは寛政5年(1793年)の建立されたものだ

石造の七重塔(2枚目写真)は、貞亨元年(1684年)に建てられもので
共に市の有形文化財に指定されている

ここは、大田原城の西の守りでもあった様だ




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22大田原宿、那須与一像

薬師堂境内より、奥州街道22番目の宿場・大田原の中心街を望む

この道は、現在は国道461号線(日光街道)となっているが
かつての奥州街道で、薬師通りとも呼ばれていた

大田原の町は、天文14年(1545年)、大俵(たいひょう)氏が築城して
その城下町を開いたのが始まりである

江戸時代の天保14年(1843年)には、宿内人口1420人
戸数245軒で、本陣2、脇本陣1、旅籠42の賑やかな宿場であった


下の写真は、街道左側の大田原信用金庫の前にある那須与一像
文治元年(1185年)2月、屋島の合戦で小船の上の扇子を射抜いたあの那須与一像である

大田原市恒例の与一祭りが例年夏に行われている
地元のヒーローとなっている



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金灯籠

国道400号線との交差点に大きな金(かな)灯篭がある

文政3年(1820年)に造られた灯篭は、太平洋戦争で供出されて
現在のものは昭和54年に造られたものだ

しかし台座は往時のもので、文政2年(1819年)に造られた物だ
西側に「江戸」、そして東側に「白川」と大きく彫られてあり
道標を兼ねたものであった

この交差点は塩原道の追分であった





詳細リンク:旧奥州街道13「大田原・百村川~22大田原宿」/街道写真紀行
(栃木県大田原市浅香、新富町、中央)、 0904/0906

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